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砂詠 飛来

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第一章 夫婦

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    五、

「これからどうなさるのですか」

 忍を独り残し、与四郎とお沙は自分たちの長屋に戻ってきた。

 ふたりには、忍を引き取ることはできなかった。

 あのまま放っておいたら、恐らく死んでしまう。

 しかし、引き取れない――

 忍は、吉井との想い出が詰まったあの家から離れたくないのだった。

 忍の身のことを考え、週に何度かは様子を見にゆくことにした。

 与四郎たちにも仕事はあるため、毎日は通えない。

 吉井と忍の間にも、子どもはいなかった。

 吉井が亡くなってしまったいま、与四郎は自分で材料を調達しなければならなくなった。

 筆の材料は、すべて吉井が用意してくれていたため、他に頼るあてが無い。

 与四郎の家は、商家ではない。

 与四郎は困ってしまった。

 材料は、すこしなら予備がある。

 与四郎は、吉井がどこから材料調達してくるのかを多くは知らなかった。

 商いの傍ら、材料を仕入れてくる、ということだけを聞き、与四郎は筆づくりだけをした。

「とりあえず、残された材料でつくる」

 与四郎は問うてきたお沙に言う。

「それで、そのあとは――」

「どうしたものかな」

 他人事ひとごとのように言った。

「そのように言わないでください」

「だが、仕事はしなければならない」

 言って、与四郎は作業場へ向かった。

 お沙はその背へ声をかける。

「これからは、わたしが材料を調達にゆきます。吉井さまは、ただおひとりで仕事をされていたわけではないしょう。なんとか、近しい方を捜してあたってみます」

「いや、それは無理だろう」

 与四郎は、背を向けたまま言った。

「なぜですか」

「吉井は、すべて自分ひとりで仕事を管理していた。たとえ親しい者であっても、調達の方法や場所は教えなかった。吉井は他の者とは違う方法をとっていたと聞く。――わたしらの筆づくりの技が先代から受け継がれてゆくように、吉井の家でも、仕事については先代から受け継いでいたのだ」

「それくらいのことは、わたしも知っています」

「どうやら、仕入れ先をまとめた帳簿はあるようだが、いま、それがどこにあるのかを知っているのは忍だけだ」

「でも、忍さんは――」

「あの様子では訊き出せまい。吉井の屋敷を勝手に探すわけにもゆかぬしな」

「では、どうすれば‥‥」

「おれたちで、なんとかするしかない」



   六、

 翌朝、お沙は髪の違和感で眼覚めた。

 髪がわずかに引っぱられている。

「――?」

 うっすらと眼を開けると、与四郎が顔を覗き込んでいた。

 そして、お沙の髪を撫でていた。

「お前の髪は美しいな――」

「与四郎さん?」

 お沙が声をかけると、与四郎は手を止めた。

「あ、いや――忍を頼むぞ、お沙」

これだけ言うと、与四郎は身支度を整え始めた。

与四郎が居なくなってしまってから、お沙は自分の髪に触れてみた。

「―――」

 細い指に絡む黒髪を、ぼんやりと見つめる。

「埃でも付いていたのかしら」



    七、

 陽がすっかり昇ってしまってから、お沙は忍の元へ行った。

 戸口に立って、中の様子を窺う。

 静かである。

 戸をそっと開けて、声をかける。

「忍さん――」

 家の中、静かにお沙の声が響く。

 返事がない。

 厭な予感がする。

 まさか――

 履物も揃えずに慌てて家の中へあがる。

 忍は居た。

 先日の居間に、横たわっていた。

 お沙の眼が大きく見開かれる。

「忍さん!」

 忍の傍へ駆け寄り、身体を揺らす。

 何度か揺すったあと、お沙はその手を止めた。

 ほんのりと、忍の身体は温かい。

 よく見ると、呼吸のために細い肩が上下している。

「よかった‥‥」

 お沙も落ち着き、その場にへたり込む。

 眠る忍をしばらく見つめ、忍に布団を用意しようと立ちあがった時、

「お沙――」

 がらんどうな声で忍が呼んだ。

「忍さん?」

「あんた、なにしてんのさ」

 忍は、お沙の足元の畳を見つめながら言った。

 決してお沙を見ようとしなかった。

「なにって、与四郎さんに言われて、忍さんの面倒を見に――」

「わたしの、面倒」

「忍さん、このまま独りでここに居るのはなにかと不便だろうし、大変だろうと思ったから、うちで引き取ろうと思ったんだけどね。――って、この前話したの覚えてない?」

「引き取るってなによ」

「え」

「そんな、わたしを厄介者扱いして」

「厄介者だなんて――わたしは忍さんのことが心配で」

 お沙が言った瞬間、忍が、痩せて骨張った手でお沙の足首をつかんだ。

 すごい力であった。

 お沙を見ようとしない眼は大きく見開かれ、歯をぎりぎりと喰いしばっている。

 突然のことに、お沙は言葉を失う。

「お沙、あんた」

「―――」

「あのひとが幸せならそれでいいと、わたしは自分の想いを殺してきた。あのひとの幸せだけを考えた――でも、もう我慢の限界よ」

「忍さん、なにを言って――」

「わたしは、わたしは――」

 そこまで言って、忍は気を失った。



    八、

 その日の晩、お沙は忍とのことを与四郎に言えずにいた。

 行燈の薄暗い灯りの中、与四郎の顔を見つめる。

 そして、溜息をつく。

 見つめては、溜息をつくのをくり返していた。

 妻のその様子に気づいた与四郎は、寝そべっていた身体を起こし、訊いた。

「どうした」

「いえ、あの――」

「なんだ。言ってみろ」

「なんでも、ありません」

 言って、お沙は手元の針と繕っていた布に眼を落とす。

「なんでもないことがあるか。どうしてそんなに溜息ばかりつくのだ。ひとつも針が進んでいないじゃないか」

「えっと、その」

「今後のことを心配しているのか」

 ふいに優しい声音で言う与四郎。

「え、えぇ――」

 お沙は行燈の火に眼を移す。

「そりゃ心配だろう。おれだって心配だし、不安だ。だが、必ずおれがなんとかしてやる」

 与四郎はお沙を見て微笑む。

 夫の力強い言葉に、お沙は訊く。

「なにか、あてがあるのですか」

「実を言うと、材料についてはどうしようもない。適当に集めてきた物では信用が無く、満足ゆくものがつくれないだろう」

「では、どうなさるのですか」

「やはり、自分で探すしかあるまい」

「―――」

 与四郎の力強い言葉とは反対に、いま突きつけられている現実は厳しい。

「百姓にでも、なりますか。耕す土地なんてありませんけれども」

 お沙は力無く言う。

「義父の技術をおれらの代で絶やすなど、あってはならんことだ」

「そうは言いましても、わたしたちには子どもがありません」

 お沙は与四郎を見た。

 行燈の火が揺れている。

「欲しいか、子どもが」

「え」

「おれらの子どもが欲しいかと訊いている」

 与四郎は炉をまわって、お沙の隣に座った。

 細い肩に手をかけ、妻の眼を覗き込む。

 お沙は俯く。

「おれは、義父のような立派な職人になることを目標にいままで生きてきた。お前をもらって、義父が亡くなり、この家はおれが支えることになった。一家のあるじとしてやっていかなければならなくなった。だが、筆づくりの腕はまだ義父を越しても並んでもいないと思っている。家庭や子どもより、自分の技のために生きてきた。一人前の職人になるまでは、立派な主になれないと思っていた。そんなおれに、お前は文句も言わずに寄り添ってくれた。だが――」

 与四郎はここで言葉を切り、

「お前が望むのなら、家庭のために、父親となってもいい」

 お沙は行燈の火を見つめたまま黙っている。

「お沙‥‥」

 与四郎はお沙の髪に触れる。

 結わえてある髪を解く。

 しっとりと重みのある髪が、お沙の顔にかかる。

 与四郎はお沙の髪の中に指をもぐりこませる。

 お沙が抵抗せず黙っていると、与四郎は手を止めた。

「―――」

 お沙は与四郎を見やる。

「お前の髪は美しいな」

 ぽつりと言った。

 お沙は、今朝のことを思い出した。

「与四郎さん、今朝もわたしの髪を触っておいででしたね」

「あ、あぁ」

 照れを隠すように、お沙の髪を撫でる与四郎。

 ふたりの間に、しばらく沈黙が流れる。

 突然、与四郎が声をあげた。

「そうか――」

 お沙の髪をひと房、指に絡ませている。

「なんでしょう」

「髪だ」

「え?」

「髪で筆をつくればいい」

「髪?」

「そうだ」

 与四郎の声は弾んでいた。

「筆の軸となる部分は、知り合いの大工に頼んで手配できるようになったんだ。おれが困っていたのは穂の部分だったんだ」

 与四郎は炉をまわって、お沙と向かい合う。

「いいかい、お沙。筆の穂は主に動物の毛でつくられる。それは知ってるね?」

「えぇ。あなたの仕事を何度も見ていますから」

「吉井は、動物を生きて捕え、毛の部分だけをおれに提供してくれていたのだ」

「はぁ――」

「おれは、生きた動物を捕えることができない。だから困っていた。だが、それがひとの髪ならばどうだ?」

「でも、どこから?」

「髪結い床があるじゃないか」

「髪結い床‥‥」

「おれの馴染みの店がある。そこに頼んでみるよ」

「でも、ひとの髪でうまくゆくでしょうか」

「やってみる価値はある」

 与四郎は、もうやる気でいた。
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