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砂詠 飛来

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第二章 吉原

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   二、

「どうでした、吉原は」

 お沙が訊いた。

 真夜中である。

 冷えた空気が辺りに張りつめている。
 
 お沙は行燈の灯りで絵筆の手入れをしていた。

 与四郎の帰りを寝ずに待っていたのである。

「どう、とは?」

「遊女の髪はいただけることになったのですか」

 与四郎は、絵筆を持つお沙の手元を見つめている。

「それがなぁ、お沙。聞いておくれよ」

「聞きますとも」

 お沙はどこか素っ気ない。

「今日、会いに行った太夫がな、おれの筆を持っていて、大変気に入ってくれていてな」

「へぇ」

「おれは本当のことを言ったのだ。筆をつくるために、女の髪が欲しいと。そうしたらな――」

 ずい、と与四郎は身を乗り出した。

「このような素晴らしい筆に、自分の髪を使ってくれるのなら喜んで差し出すと――」

「それで、どうなりました」

「しかしなぁ、軽い条件付きでな。わたしの髪を使うのなら、わたしだけの筆をつくれと言うのだよ。あ、遊女であるから、わたしではなくて、あちきというのだが――」

 ここで初めて、お沙は与四郎の顔を見た。

「髪をいただけるということですね?」

「あ、ああ――お沙、さっきからどうも冷たくはないか? なにか気に食わないことでもあったのか?」

「そういうわけでは――」

「おれが吉原に行ったことか? 別に、女を買いに行ったわけではないし、吉原一の太夫がおれのような、しがない職人の相手をしてくれるはずがないだろう」

 お沙は与四郎の瞳の奥を見つめる。

「――良吉さんやお京ちゃんに迷惑をかけてまで、そこまでして筆をつくらねばなりませんか」

「なにを言っている。おれらは筆をつくってゆかねばならないのだぞ」

「なんのために?」

「われらの技術を絶やさないためだ。守るためだよ」

「では、その技術とは? なにを守るのですか」

「それは――」

 与四郎は言葉に詰まる。

「筆をつくることに必死になりすぎです。筆をつくることだけが大切なのですか。金のために筆をつくるというのなら、わたしはもう、あなたと一緒には居られません」

「お沙、そこまで言うことはないだろう。この機会を逃せば、もう筆がつくれなくなってしまうんだぞ」

「遊女に頼らなければ、つくれない筆を?」

「頼る?」

 与四郎は声を鋭くした。

「そうです。筆をつくるために、ずっと吉原に通われるおつもりですか。吉原の女の髪を切りつくしたら、次は品川にでもゆくのですか」

「違う!」

 大声を出す。夫の声に、お沙は肩をびくりとさせる。

「おれは、家のために、お前のために必死なのだ! お前のためなのだお沙!」

 与四郎はお沙の傍に寄り、その肩をつかむ。

「おれが筆をつくらないで誰がつくる? 生きてゆくには金が要るのだ。死んだ吉井のためにも、技を教えてくれた義父のためにも! なんとかして生活してゆかねばならない!」

「自分を苦しめてまで、筆をつくるなんて、もう終わりにしましょう」

 眼に涙を浮かべて、声を震わせる。

「なにを言う」

「あなたがそんなになってしまって、わたしは耐えられません。もうよろしいでしょう。ふたりで、終わりにしましょう」

 涙がひと粒こぼれた。

「――おれはお前を死なすわけにはゆかない。お前がどんなにおれのことを嫌っても、おれはお前のために生きるのだ」

「どうして――」

「お前を好いているからだ。お前に惚れているからだ」

「―――」

 与四郎の想いに、お沙は言葉が出ない。

「なんと言おうと、おれはお前のために生きる。そのためにはなんでもする。たとえ、お前に嫌われるようなことになっても、おれはお前のためになんでもする」

 お沙は手で顔を覆い、声を押し殺して泣く。

「これからも筆がつくれるのか、いまが踏ん張り時なのだ。判ってくれるね、お沙」

「―――」

「つらいのは、つらいのはいまだけだ、我慢しておくれ」

 お沙は涙をこぼして頷いた。

 涙で、筆が濡れた。



   三、

 与四郎はさっそく吉原に通った。お京と一緒だった。

「この、月と牡丹の筆はほんに素晴らしい。次は、桜の絵を入れてほしい。桜と闇に浮かぶ満月を入れてほしい」

 観月は言った。やはり、月にこだわっているようだ。

 先日の、観月の部屋である。

 観月は、長い髪をひとつにまとめ、背に流している。

 櫛も簪も、なにも装飾されていない遊女の髪。

 化粧も着物も、控えめであるが、全身から上品さが溢れている。

 ――これが吉原一の太夫か

 与四郎はつい、見惚れてしまった。

「お姉さま、どれくらい切っても平気ですか」

 お京が、観月の髪を梳きながら言った。

「どれくらい入り用でおすか」

 お京が与四郎を見る。

「えっと――どれくらいなら切っても平気でしょう」

「入り用な分、持ってゆきなんし」

「それでは、観月さんのお仕事に差し支えない、ぎりぎりのところを」

「そうか」

「ひとつ、申しあげておくことがございます」

「なんじゃ」

「質です」

「質?」

「髪で筆をつくることは可能ですが、出来あがったものの質が、どのようになるのか判りません。ただ、つくることは可能、ということです」

「なるほど。とにかく、ぬしに任せるとしんしょう――」

「観月さん」

 与四郎が、観月の髪を梳いているお京の隣に座った。

「おいやでなければ、すこし髪に触れてもよろしいでしょうか」

「あちきはぬしに任せたのでおす。ぬしが入り用だと思うことをしてくんなんし」

「判りました。ありがとうございます」

 与四郎はお京に向き、

「じゃあ、ちょっといいかな」

「はい」

 お京が一旦退いた。

 与四郎は観月の真後ろに座り、その髪に触れる。

 最初は毛先。

 掌に髪を乗せ、反対の手で丁寧に撫でる。

 触れている箇所を、だんだんと上へずらしてゆく。

 長く、黒く、しっとりとして、ほどよい硬さもある。

 次に、指で梳いてみる。

 与四郎の指に絡んで解ける。

 どこも傷みは無い。

 みずみずしいほどの艶を放っている。

 与四郎は、つい、妻の髪と比べていた。

 妻の髪も美しいが、この吉原の遊女には適わない。

 もう一度、撫でる。

 梳く。

 絡む。

 解ける。

 与四郎は真剣に髪を吟味している。

 お京はその様子をじっと見つめ、観月は眼を閉じて身を任せている。

 ふいに、ほう、と息を吐いた。

 遊女の紅い唇から幽かに漏れたその声に、与四郎は手を止めた。

 観月もゆっくりと眼を開ける。

「――どうでありんしょう、あちきの髪は。良い筆ができそうでおすか」

「はい、とても素晴らしい。どのようにされるとこんなに質の良い髪になるのでしょう」

「髪は女の命でおす。とくに、あちきら花魁は身を売っておりんすから、身だしなみにはひと一倍気を遣っておりんす」

「なるほど――」

 与四郎はひと呼吸おいて、お京に言った。

「じゃあ、お京ちゃん。切ってくれるかい」

「えぇ。どれほど」

「そうだね――」

 すこし考え、

「これほどであれば、普通に髪を結えるだろう」

 適当な部分を指差した。

 お京が髪を切り、与四郎がそれを丁寧に懐紙、風呂敷の順で包む。

「観月さんの御髪、しかと頂戴しました」

 自分の座についている観月に、与四郎は頭を下げる。

「どれくらいで出来あがりんすか」

「軸に絵を入れねばなりませんので、ひと月はお待ちいただくかと」

「判りんした。待ちましょう」

「では、これで失礼いたします」

 もう一度、頭を下げてお京と退出しようとした。観月がそれへ、

「待ちなんし」

 声をかけた。

「なんでしょう」

「筆が出来あがるまで、ここへは来ねえでおすか」

「――は?」

「いや、筆をつくるのはぬしの仕事でありんしょうが、絵を入れるのはご新造さんの仕事でありんしょう? ならば、ご新造さんが絵を入れている間、ぬしは息抜きにここへ来られてはどうかと――」

「―――」

 なにを言っているのだ、この遊女は。

 与四郎はそう思ったが、その言葉を飲み込んだ。

「確かに、作業は夫婦で割りあてておりますが、やはり、ふたりで筆をつくっております。妻の仕事を見守らなければ。いままでもこれからも、やり方は変えません。次にお会いする時は、依頼の筆が出来あがった時です」

 与四郎は言い切った。

 吉原へは女を買いに来たのではない――

「そう‥‥でおすな。つまらぬことを言いんした。お忘れになってくんなんし」

 観月は眼を伏せた。

「――では、失礼いたします」

 与四郎とお京は、静かに退出した。
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