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砂詠 飛来

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第二章 吉原

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   四、

 ふたりが居なくなってから、観月はしばらく放心していた。

 与四郎に髪を撫でられ、梳かれている時、なんとも言えないものが身体を駆け抜けた。

 こそばゆいような、言葉にできないもの。

 だが、不快ではなかった。

 快感。

 そう、快感である。

 自分で同じように髪に触れてみても、あの快感は得られない。

 たった一度、触れられただけなのに、あの手が恋しくなった。

 だから、去り際にとんでもないことを口にしてしまった。

 ――息抜きにここへ来られてはどうかと

 江戸中のどの男が大枚をはたいても、この言葉は与四郎にしか言えない。

 吉原一と謳われる花魁が、しがない筆職人に心をやってしまうなど、あってはならぬこと。

 身体は売っても心は売るな。

 あの男は客ではない。

 自分を身請けし、妻に迎えてくれるわけでもない。

 だが、あの男にずっと髪に触れていてほしいと思ってしまった。

 ほんの一瞬の気の緩み。

 髪が美しいと褒められた時、とても嬉しかった。

 どんな男から甘く囁かれようと、与四郎の言葉に勝るものは無いとまで思ったほどだ。

 どうしてここまで心動かされるのか、観月にも判らない。

 たかが筆職人ではないか。

 与四郎が去った部屋には、ただ独り遊女が座っている。

 部屋を彩る煌びやかな装飾が、虚しさを際立たせる。

 観月は、牡丹と月の筆を手に取る。

 軸の絵を指でなぞる。

 この絵は与四郎のご新造――妻が入れたもの。

 与四郎の筆であるが、同時に妻の筆でもある。そして、観月の筆でもある。

 筆一本に絡まった、複雑な関係。

 観月は筆をかたく握りしめた。



    五、

「というわけでな、お沙。軸には桜と満月を入れてほしいのだ」

 長屋に帰ってきて、与四郎が言った。

 お沙も、忍のもとから帰ってきた直後であった。

「ほら、いつぞや、牡丹と月を描いたことがあったろう。その時のような美しい絵を入れてほしいのだ」

「髪は頂戴してきたのですか」

「あぁ。実に見事な美しい髪だ」

「そうですか――」

 いきいきと語る与四郎を見て、お沙はひとつ息を吐いた。

「どうした」

「あなたが楽しそうでなにより、と思ったのです。どんな状況であれ、筆をつくるあなたが好きです」

 与四郎に微笑む。

 だが、お沙の表情にはどこか憂いがある。

「お沙も、疲れているな」

「――え」

「そうやって優しく微笑んでくれるが、やはり心の陰は顔に出てしまうものだ」

「そんな、ことは――」

「なにか、お沙自身のことで気に病んでいることがあるのなら、構わずおれに言ってほしい」

「―――」

 お沙は黙っている。

「お沙‥‥」

 与四郎が優しく促す。

 だが、お沙は両の手をぎゅっと握り、膝の上で震わせるだけで、なにも言おうとしない。

「おれにも言えないような、なにかがあるのか?」

 お沙は視線を落とし、なにかを言おうと口を開いては、またつぐむ。

 言いかけては、口を閉じる。

 しばらくして、お沙は口を開いた。

「――平気です。なんでもありません」

「本当に?」

「本当です。なにも心配するようなことはございません」

 お沙は再び笑みをつくる。

 その笑みが、偽りのものだと互いに判っている。

「判った――」

 与四郎が言った。

「おれはしばらく、作業場に籠るよ」

「えぇ」

 お沙は頷いた。



    六、

 与四郎が吉原に行っている間、お沙は忍の家を訪ねていた。

 衣食の世話をしてやらねばならない。

「忍さん――」

 声をかけ、屋敷の中へ入ってゆく。

 屋敷内は、相変わらず薄暗い。

 人の気配が一切しない木造の廊下を、独り歩く。

 件の居間に、忍は寝ていた。

 夜具はお沙が屋敷のなかから探してきた。

 着替えも、枕元に用意されている。

 忍は、ゆっくりと寝息をたてていた。

 ここ数日、お沙が通って世話をしているため、血色も良くなり、以前の忍とさほど変わらぬまでに快復した。

 忍の枕元には着替えの他に、すこしの食糧も用意されている。

 忍が眼を覚まして、好きな時に食べられるようにと、お沙がこしらえた。

 いま見ると、枕元の食糧は、すこし減っている。忍が食べたようだ。

 お沙は、忍の傍に座り、眠る友人を見つめる。

 ――このままでよいのだろうか

 忍の体調は快復してきている。

 なにをするのも、ひとりで平気になるだろう。

 だが、このまま独りでよいのだろうか。

 忍が完全に快復し、家の者たちが戻ってきたとして、これから先、忍はどうやって生活してゆくのだろう。

 吉井の居ない、この屋敷でどう生きてゆくのだろうか。

 ふと思いを巡らせていると、忍が眼を覚ました。

 まばたきをくり返し、まわりの明かりに眼を慣らしている。

「忍さん、お加減はどう?」

 忍の顔を覗き込む。

「偽善が」

 怖ろしく低い声で忍が言った。

「え?」

「偽善。偽善、偽善。偽善だよ、あんた」

「――わたし?」

「そう、あんた。心も気も病んだわたしを憐れんで、しょうがないわねと思いながらも世話をする。世間的に良い妻だと見られる。それがあんたの狙いでしょ」

「忍さん、なにを言って――」

 むくり、と忍が起きあがった。

 冷めた眼でお沙を睨む。

「偽善だよ、あんた」

「し、忍さん、まだ本調子じゃないのよ。まだ休んでいたほうが――」

 お沙は忍を寝かせようと、肩に手をかける。

「触るな!」

 掠れた声を張りあげる。

「わたしに触れないで偽善者が!」

 暴れ出した。

「忍さん‥‥!」

 お沙は慌てて忍を抑えようとする。

「放せ! その手でわたしに触れるな!」

「落ち着いて忍さん、どうしたの!」

「放せ!」

 いつまでもおとなしくならない忍に、お沙は堪りかねて、

「いい加減にして!」

 忍の頬を叩いた。

 渇いた音が居間に響く。

 叩かれた驚きで、忍は静かになる。

 だんだんと赤く腫れる頬に、手を添わせてお沙を見る。

 どうして忍がここまでお沙のことを嫌がるのだろうか。

 お沙には判らない。

「お沙――」

 涙を浮かべてお沙を見る。

 忍は正気を取り戻したようであった。

「忍さん、どうしてわたしのことを偽善だと言うのよ。わたしのなにが忍さんの気に障ったというの?」

「―――」

「わたしは偽善のつもりでここに来ているわけじゃない。たとえ偽善だったとしても、それで誰かが救われるのならいいじゃない――ねぇ、そうでしょう」

「――誰かのつまらない偽善のおかげで生かされている命なんて、虚しいだけじゃない」

「でも――」

「お沙、与四郎さんは元気?」

 忍はお沙の眼を見て言った。



    七、

 与四郎の家に、お京が訪ねてきた。

 朝のことである。

「あの、与四郎さんは居ますか」

「居るけど、まだ寝ていてね」

 連日連夜、観月のために筆をつくるのに必死であった与四郎は、この日は休んでいる。

「そうですか――」

「なにか用? わたしでよければ、言伝ことづてを」

「与四郎さんに直接お話ししたくて‥‥」

「そう――ふみではだめ?」

「あ、文――でも、お姉さまは字が書けないから‥‥」

「お姉さま?」

「え、あ、とにかく、直接お話ししたいんです。今日中に」

「今日中? 急ぎなのね」

「はい。与四郎さんが起きるまで、ここで待たせていただいてもよろしいでしょうか」

「いつ起きてくるか判らないのだけれど。起こしましょうか」

「いえ、きっとお疲れでしょうから、起きていらっしゃるまで待ちます」

 しっかりした子だな、とお沙は眼の前の娘を見る。

「じゃ、おあがんなさい。いつまでも戸口にいることはないでしょう」

「あ、はい。ありがとうございます」

 お沙が、お京を居間へと促す。

「お京ちゃん、今回は迷惑かけたね」

「迷惑?」

「えぇ。急に髪が欲しいだなんて騒いで、吉原にまで連れて行ってもらって」

「いえ、いいんです。与四郎さんのお役に立てれば」

「そう、ありがとうね」

 言って、お沙は勝手へおりる。

「お京ちゃん、朝ご飯は食べた?」

「はい」

「そう。とりあえず、お茶くらいは出さないとね」

「お気遣いなく、お沙さん」

「お京ちゃんは本当にしっかりした娘さんねぇ。これなら、良いお家に嫁げるでしょう」

 盆に急須、湯のみ、茶菓子を載せてお沙が戻ってきた。

「ご飯食べたばっかりでお腹いっぱいかしら」

 お沙は、ふふ、と笑う。

「与四郎さん、まだ起きませんね」

 落ち着いて座ってはいるが、気持ちはいているようだった。

「やっぱり、起こしましょうか」

「え、でも――」

「お京ちゃんもこれから用事があるのだったら、いつまでも待てないでしょう」

「はぁ――」

「ちょっと待っていてね、いま起こしてくるから」

「あ、すみません。ありがとうございます」

 お沙が起こしにゆくと、与四郎はすんなりと眼を覚ました。

 お京が来ていることを告げると、急いで身繕いした。

「お京ちゃん、待たせたね」

 十分とかからずに、与四郎がお京の前に現れた。

「おれになにか用だって?」

「はい」

 お京は頷いて、部屋の隅で見守っているお沙をちらりと見る。

 与四郎はその視線を追った。

 妻を見やる。

 そして、お京の言いたいことを察して、お沙に言った。

「お沙、すまないが、すこし外してくれないか」

「え――あ、はい」

 お沙は慌てて立ちあがり、居間から出た。

 盗み聴きするような女ではないということは、与四郎がいちばんよく判っている。

「それで、お京ちゃん。話ってなにかな」

「お姉さまが、逢いたいとおっしゃるのです」

「お姉さまって――」

「観月お姉さまです」

「どうして? 筆が完成するまではゆかないと、あの時言ったはずだが」

「でも、どうしても、と」

「―――」

 最後に会った日の、観月の言葉を思い出す。

 ――息抜きにここへ来られてはどうかと

「観月さんが逢いたいって、それはいつ言ったんだい」

「昨晩です。ここへは、吉原から直接来ました。お姉さまは、今日、お逢い
になりたいと」

「今日?」

「やはり、逢いたい気持ちはどうにもできないと‥‥」

「それは‥‥どういう意味で‥‥」

「察しがつきませんか?」

「つく、つくが、どうして――」

 そんなことを言うのか。

 髪をもらうこと、いまでこそ快く引き受けてくれているが、最初の印象は最悪ではなかったか?

「お京ちゃん、観月さんに言伝を頼めるかい」

 こう言った与四郎に、お京は顔を顰めた。

「お逢いにならないんですか?」

「え」

「わたしの口から言うよりも、本人が自分の言葉で言ったほうが良いと思うのです」

「それは、観月さんにも言えることでは‥‥」

「面倒ですね、男の人って! 筆が完成するまで逢わないのなら、その旨を自分で伝えてください!」

 はあ、と溜息をつき、

「とにかく、観月お姉さまは与四郎さんに逢いたいと。早急にこれだけは伝えてくれと頼まれました」

 お京は困り顔で言った。
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