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砂詠 飛来

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第二章 吉原

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    九、

「観月さん!」

 観月の部屋の戸を開ける。

 廊下に充満していた煙が、部屋に流れ込む。

 視界がかすむ。

 観月は居た。

 窓辺に立ち、江戸の夜空を見つめている。

「観月さん、早く逃げましょう!」

 観月に駆け寄り、その手首をつかむ。

 細い手首をぐい、と引っ張る。

 しかし、観月は、

「放しなんし!」

 抵抗した。

 与四郎の手を振り払った。

「観月さん‥‥」

「あちきは吉原の女でおす。命果てる時も、この吉原で」

「なにを言っているんです、早く逃げましょう!」

 与四郎は、再び観月の手を取ろうとするが、うまくかわされてしまう。

「あちきは知っていんす。この騒ぎは、あちきが原因だということを」

 観月は、筆を一本握っていた。

 与四郎がつくった、牡丹と月の筆である。

 大切そうに、胸の前で握りしめている。

「この筆、ほんに気に入っていんす」

「‥‥‥」

「今回あちきが依頼した筆は、あちきの手元には届きんせんが――」

 言葉を切って、与四郎を見た。

「ぬしが、あちきのために筆をつくってくれんした――それだけで満足でおす」

「必ず、必ず完成させます。だから――だから、わたしと一緒に逃げましょう」

「あちきにこの吉原から出て、どこで暮らせと? あちきはここでしか生きられねえ――」

「そんなことはない、どこへ出ても生きられる! さぁ、おれと来るんだ!」

 与四郎は観月に向かって手を差し出す。

 強引に手をつかむようなことはしなかった。

 観月の意思を尊重しようと思ったのだ。

「―――」

 観月は、ぎゅっと握りしめていた手をほどき、一瞬、与四郎の手を取ろうとした。

 だが、やめてしまった。

 あちこちから聴こえる爆音。

 木の燃える音。

 ごうごうと侵略する炎の音。

 部屋の中の煙も、ずいぶんと濃くなってきた。

 爆発などの音に混じって、人の悲鳴や怒号が飛び交っている。

「あちきが、この筆を自慢しなければ――あちきのなかだけに留めておけば――こんな騒ぎにはならなかった」

 涙をこぼして言った。

「あちきが、若い娘たちに自慢しなければ、あの娘たちも羨ましがることなんてなかった。自分たちも欲しいなんて言い出さなかった」

 観月の涙で、筆が濡れる。

「観月さん、自分を責めることはありません」

「あちきはここで死にんす」

 きっぱりと言った。

「観月さん!」

 観月は、おもむろに自分の髪に触れた。そして、簪や櫛を取り、髪を解いた。

 炎は、部屋に侵入していた。

 その炎の揺らめきが、観月の髪に映えた。

 怖ろしいほどに美しい光景であった。

「与四郎さま、あちきの最後の頼みを聞いてくんなんし」

「―――」

 与四郎は黙っている。

「いま、なにか刃物はお持ちでおすか、与四郎さん」

「刃物――なにをするのですか」

「安心しなんし。自害などしんせん。ちょっと、髪を切ってもらいたいのでありんす。この前のように――」

「なぜですか」

「――お京ちゃんから聞きんした、筆をつくる材料にお困りだとか。あちきのこの髪でよければ使ってくんなんし。残りの、この髪を」

「なにを言うのです」

「ほんは、他の花魁からも髪をもらおうと考えていんした。仕事に差し支えない程度に。そして、与四郎さんを助けようと――でありんすから、ほかの娘たちにも話しんしたのでありんす。そうしたらこんな騒ぎになって――」

「髪など要りません。あなたが生きてくれればそれでよいのです」

 与四郎は嘆願した。

「まぁ、嬉しい」

 観月は愁いを込めた笑みで与四郎を見る。

「でも、お気持ちだけもらっておきんす。さ、与四郎さま。あちきの髪を切ってくんなんし」

「観月さん――」

 観月のまっすぐな眼差しに、与四郎は促されるまま観月の髪に手を伸ばす。懐から鋏を取り出す。髪結い床の鋏――。

 こんな状況でも、しっとりとした艶のある髪。

「もう、ざっくりお願いしんす」

「―――」

 いま、無理矢理に観月の手を取り、ここから逃げることは可能である。

 ふと、与四郎の頭に考えがよぎったが、それをしなかった。

 与四郎は一瞬、躊躇ってから、観月の髪をその首の後ろで切る。

 その時、鋏の先がすこし触れて、観月の白い首筋を切ってしまった。

 白い首筋に、鮮やかな赤が流れる。鋏にも血がすこし付いた。

「痛っ」

「あっ、申し訳ない‥!」

「構いんせん。ああ、軽くなりんした」

 穏やかに、嬉しそうに言った。

「良かったのですか、切ってしまって」

「構いんせんよ。それに――」

「‥‥‥」

「あぁ、こんなに短いのは何年ぶりかしら」

 吉原の遊女ではなく、ひとりの少女の顔で笑んだ。

 軽くなった髪を揺らす。

 与四郎の手には、観月の美しい髪が握られている。

 髪は女の命と言っていた。

 それを与四郎に切らせた。

 観月の覚悟は、相当強いのだろう。

「与四郎さん、早く逃げなんし。さぁ、早く!」

「一緒に逃げないのですか」

「お京ちゃんは、もう逃げんしたか」

「‥‥えぇ」

「なら、ようござんした」

 観月は安心して、壁にもたれかかった。

 ――もう、無理かもしれない

 与四郎は悟った。

 観月を見つめる。

 観月はその視線に気がつき、

「さ、早く逃げなんし。火の手が回ってくれば、ここから逃げられなくなりんすよ」

 こうしている間にも、ごうごうと火は迫り、部屋が軋み始めている。

「どうしても、逃げないのですか」

 与四郎は、眼の前の遊女に訊いた。

「ここから出られる機会はいまだけ‥‥でも、あちきはここで命を終えんす」

「どうしても、ですか」

「―――」

 観月は黙って頷いた。

「なにがあなたをそこまでさせるのですか」

「あちきは、ここを出た時の生き方が判りんせん。どのように歩けばよいのか判りんせん」

「おれが教えます。おれが一緒に歩きます」

 言って、手を差し出す。

「ありがとうおざんす。優しいのね、与四郎さま。でも、あちきは決めんしたから。ここで死ぬと。以前、与四郎さまは言いんした。ぬしとあちきはただの職人と依頼人、人間と人間であり、男と女でもあると‥‥でも、この吉原でぬしとあちきの関係は、商品とお客にすぎねぇでおす」

 観月は穏やかに笑んでから、きっ、と表情をきつくして声音を変えた。

「さぁ、ゆきなんし。――ご新造さんを大切にするのでありんすよ」

 与四郎は、観月の髪を手にしたまま頷くしかなった。

 その時、低く鈍い音が頭上から聴こえた。

 音のほうを見あげると、天井の板の隙間から白い煙が漏れ出していた。

「危ない!」

 与四郎が叫んだ時にはもう遅かった。

 赤く焼けた天井の板と梁が、観月の上に降ってきた。

 大きな音と大量の煙、赤い炎。

「観月さん!」

 焼けている木材の間から、白くしなやかな手が覗いている。

 観月の手だ。

 与四郎は、鋏と観月の髪を両の手、それぞれに持って呆然と立ちつくす。

 観月を、救えたはずだ。

 強引に手を取って、一緒に逃げられたはずだ。

 火の手は、与四郎の足元まで迫っている。

 ふと熱さを直に感じ、慌てて部屋を飛び出す。

 その直後、轟音とともに部屋が崩れ始めた。

「与四郎さん!」

 若い女の声がした。

 お京であった。

「お京ちゃん‥‥」

 着物の袖で鼻と口元をおさえている。

 煤であちこち汚れている。

「お京ちゃん、逃げなかったのか?」

「与四郎さんのことが心配で‥‥さぁ、早く逃げましょう!」

 お京が与四郎の手を取る。

 与四郎のその手には、鋏が握られている。

「その鋏――」

「え」

 鋏には、赤いものがすこし付着している。

「これ、これ――」

「お京ちゃん、待ってくれ、おれの話を聴いてくれ」

「まさか与四郎さん、観月お姉さまを――」

 お京は、与四郎のもう片方の手に握られている髪を見る。

「与四郎さん、あなた――」

 恐怖でお京の顔が引きつる。

 取った与四郎の手を離し、炎の廊下を後ずさる。

「お姉、さまは‥‥観月お姉さまは、どうしたのですか」

「お京ちゃん、勘違いしないで、おれの話を聞いて‥‥」

 お京はちらりと与四郎の後方を見る。

 観月の部屋があった。

 いまは炎のなかである。

「殺したのね! 髪欲しさに!」

「違う、これは観月さんが!」

「嘘つかないで! あんたがお姉さまを殺したんだ!」

 狂ったように叫びながら、お京は駆け出した。
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