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砂詠 飛来

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第二章 吉原

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    十、

「人殺し! 人殺し!」

 お京を追って、与四郎も駆ける。

 駆けるうち、建物から出た。

 大勢の野次馬たち。

 火消したち。

 消火活動が始められているが、まだ半分以上は燃えている。

 廓内に残された客や遊女を助けようと、火消したちが次々に燃える建物へと飛び込んでゆく。

 自力で逃げ出せた遊女は、まだ十人にも満たなかった。

 お京は野次馬たちをかき分けて走る。

 吉原の大門を抜け、

「人殺し! 人殺し!」

 叫びながら走る。

 与四郎はそれを追う。

 叫びながら走る若い女と、髪と鋏を持ってそれを追う男。

 異様なふたりに注目する野次馬だが、気持ちはすぐに炎へと注がれる。

 お京は闇雲に駆け、人の通りが少ないところへと出た。

 さすがに疲れたのか、適当な家の壁にもたれかかって、乱れた息を整える。

 そこへ、与四郎がすぐに追いつく。

「お京ちゃん‥‥!」

 与四郎の手には、しっかりと鋏と髪が握られている。ぎゅっと握りしめていたため、すぐに手を開くことはできない。

 与四郎も、膝に手をついて呼吸を整える。

「わたしになんの用、人殺し」

 お京の眼は冷めている。

「兄さんにも、お沙さんにも、江戸中の人に言いふらしてやる、あんたは人殺しだって」

「お京ちゃん、誤解だ。誤解なんだ」

 必死にお京に請う。

「吉原の女は騙せても、このわたしは騙せない」

 お京の口調が変わっている。

「お姉さまの髪欲しさに、殺して奪うなんて、なんて外道なのかしら。外道で非道で最悪! わたしのお姉さまを返してよ!」

 お京はその場で泣き崩れた。

「お京ちゃん‥‥」

 与四郎は、左手に髪と鋏を持って、空いた右手をお京の肩に置く。

「触らないで! その手でわたしも殺すんでしょう、そうでしょう?」

 肩の手を払うお京。

 その時、ふたりのずっと後方で大きな爆発があった。地響きもする。あたりが急に明るくなる。

 吉原だった。

 巨大な遊廓が爆発したのだった。

「―――」

「―――」

 ふたりは言葉が出なかった。

 ただ呆然と炎を見つめる。

 天の、そのまた上まで届きそうなほど炎は燃えあがる。

 ふと、思い出したようにお京が声をあげて、その場から走り出した。

「待って、お京ちゃん!」

 与四郎が追う。

 弁解しなければ。

 いまは互いに気が動転している。

 落ち着いて話をしなければ。

 走るお京の袖がひらひらと揺らいでいる。それを右手でつかむ。

 そのまま、ぐいと引っぱる。

「やめて!」

 お京は、つかまれた袖を払う。

 その反動で、足がもつれ、倒れそうになってしまった。

「あっ」

 与四郎は支えようと、もう片方の手を出す。

 とん、と与四郎の腕の中に収まる。

 お京は仰向けの状態で支えられ、地面に倒れることはなかった。

「危なかった、すまないね、大丈夫だったかい?」

 お京は与四郎の腕の中で動かない。

「お京ちゃん?」

 顔を覗き込んでみるが、お京はまばたきもしない。

「お京、ちゃん‥‥?」



 お京の身体が、ずしりと重くなる。

 支えている手に、なにか生温かいものが染みてくる。

 与四郎は、そのままゆっくりと地面にお京を寝かせた。

 お京の背が地面についた時、一瞬、お京の両眼が大きく開かれ、

「うっ」

 とひとつ呻いた。

 そしてそのままぐったりとして動かなくなった。

 与四郎は、袖をつかんだ手と、お京の身体を支えた手、その両の手を月明かりにかざす。

 明りに照らされた手。

 右手はから

 左手には観月の髪。そして、赤くぬらりと光る液体。――鋏が無い。

「え――」

 観月の髪と赤い液体が絡み、与四郎の手にまとわりついている。

 髪は、走っている途中で半分ほど手からすり抜け、落ちてしまった。

 その髪と絡んでいるもの。

 赤い液体――血であった。

 与四郎の左手は血に染まっていた。

 しかし、手に持っていたはずの鋏が無いのだ。

「まさか」

 なにか厭なものが首筋を撫でたように、ぞくりとして鳥肌が立つ。

 冷や汗を額に浮かべ、髪が散らばらないようにうまくまとめて、懐にしまう。

 それから、ゆっくりとお京の身体に触れる。

 眼を見開いて、まっすぐ上を見つめている。

 動かない。

 ゆっくりと抱きおこす。

 ぐったりと重い。

 与四郎は、お京の上半身を支え、その背中を見る。

 背中――肩甲骨の間あたりがじっとりと赤く湿っている。

 そして、なにかが刺さっている。

 お京の小さな背中、帯のわずか上、鋏がまっすぐ突き刺さっていた。

 赤い血が着物を染め、新たな模様をつくっている。

「なんだ、これは――」

 お京の首筋に指の腹をあて、脈をとってみる。

 だが、指が震えてきて、まともにとれない。

 この震えはなんだ。

 どうして震える。

 お京の背からは、鋏の柄の部分だけがすこし突き出ている。

 なにが起きた。

 与四郎の呼吸が乱れ始める。

 吸って吐いてがままならない。

 ――その時であった。

 はらり、とお京の髪が解けたのである。

 観月からもらった赤い櫛が地に落ち、音をたてる。

 黒く若い髪が、ばさり、とお京の顔にかかる。

「‥‥っ」

 与四郎の息が詰まる。

 急に怖くなり、お京の身体をその場に転がす。

 血に濡れた鋏の柄が、月明かりで光っている。

 着物の血の染みが大きくなってゆく。

 このまま逃げるか、

 誰か人を呼んでくるか、

 番所に駆け込むか――

 だが、いまの与四郎に冷静な判断はできなかった。

 与四郎は、ふいに、お京の背から鋏を抜き取った。奥深くまで食い込んでいたため、指を肉にもぐり込ませる。

 刃と肉の擦れる厭な音がする。

 傷口から、どろりと血が溢れ出す。

 鮮やかな赤に染まる与四郎の手と鋏。

 ひと呼吸おいて、与四郎はお京の髪に触れた。ひと房つかみ、おもむろに切り始めた。

 無表情で切ってゆく。

 手に重みを感じるほどの量を切った。

 与四郎は、懐にしまってあった観月の髪とお京の髪を合わせて、再び懐に入れた。

 鋏は、血も拭わずに同じく懐に入れた。



    十一、

 吉原は、ほぼ全焼だった。

 遊女も多く死んだ。

 普段、遊女たちの逃亡を防ぐため、一方口にして周囲に堀をめぐらせてあったことが災いし、遊女たちは逃げ場を失った。

 当時の吉原に居た二千人以上がほとんど焼け死んだ、大きな火事となった。
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