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砂詠 飛来

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第三章 髪切り

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    十、

 この日、与四郎とお沙が生活している長屋には、この夫婦しかいなかった。

 住んでいるのはほとんどが棒手売りのたぐいで、朝から夕方にかけて、物を売りにでかけてしまう。

 江戸の下町、外れにあるこの寂れた長屋。

 与四郎の義父が生きていた頃は、ここで三人で生活していた。

 無理に良いところに住むのではなく、慎ましく暮らそう、という義父の教えであった。

 江戸の長屋のなかでいちばん安いところである。

 そして、与四郎とお沙、夫婦の想い出が詰まった住まいでもある。

 ――この住まいで、ふたりもの人を殺してしまった。

 与四郎や忍、太助の叫び声は、もちろん隣の家まで響いていた。だが、物売りに出かけているため、その叫びを聴く者は居なかった。それが幸いした。

 与四郎とお沙は、忍と太助の身体を、作業場に運んだ。茣蓙こざを用意し、それに二体の骸を包んだ。

 とりあえず、いま出来ることはこれくらいであった。

 血が染みこんだ畳は、よく濡らし絞った襤褸で拭いても赤黒い汚れは落ちなかった。困ったふたりは茣蓙をここでも使い、血の汚れの上に敷いてそれを隠した。

 身体に飛び散った血は、銭湯できれいに洗い流した。

 できるだけ身体の血を拭い、人に見つからないように出歩いた。

 汚れをきれいにしても、心のなかのわだかまりは消えない。

 銭湯から戻ったふたりは、しばらくの間、無言で居間に座っていた。

 どこかの隙間から吹き込む風で、行燈の灯が揺れる。

 半刻も経ったかと思うころ、

「あの――」

 と、お沙が声をかけた。

「なんだい」

「絵を――筆に入れる絵を完成させたいのですが――」

 静かに訊く。

「そうか。いいよ、やっておくれ」

 与四郎は優しく返事をする。

「それと、お沙――傍で見ていてもいいかい?」

 と続けた。

「え――構いませんよ」

「ありがとう。邪魔はしないようにするよ」

 お沙はにっこりと笑んだ。

 戸棚から道具を取り出す。

 襤褸を敷く。

 与四郎は、お沙の動作ひとつひとつを愛でるように見守る。

 お沙は、小筆に染料を浸し、軸の絵に色を入れてゆく。

 夜空に浮かぶ満月と満開の桜。

 ゆっくりと確かめるように、色を入れて絵を完成させてゆく。

 ――すべての色を入れ終え、完成した。

 真っ黒の穂は妖しく艶を放つ。

 濃い紺に染められた夜空に、花片を散らした満開の桜が大きく枝を伸ばしている。

「見事だ‥‥」

 素直な感情が、言葉となって与四郎の口から出てくる。

「素晴らしいよ、お沙――」

 与四郎は、絵の素晴らしさに見惚れる。

「久々の絵だから、すこし不安だったのだけれど――」

「いままで、お沙が描いてきたものも素晴らしかったが、これは、いままで以上だ」

 気持ちが高ぶり、声が弾んでいる。

「与四郎さんのつくった筆の出来が良いから、わたしも本気で描く気になれるんです。さぁ、もう一本あるのでしょう、お京ちゃんの筆が――」

「――あぁ」

 頷いた与四郎の声に、寂しさが含まれていた。

 観月、お京、忍、太助――

 それぞれの髪で一本ずつ筆が出来あがった。

 お京のものには、観月の髪が幾らか混じっている。

 太助の髪では、小筆をつくった。

 それぞれの軸に、お沙が絵を入れた。

 観月の筆には、満月と散る桜を。

 お京の筆には、落ちる紅椿を。

 忍の筆には、こぼれる白梅を。

 太助の筆には、舞う白菊を。

 すべての筆が完成した時には、吉原の火事から半年近く経っていた。




   十一、

「どうするのですか、その筆たちは」

 朝である。

 お沙が眼を覚ますと、与四郎が完成した四本の筆を手に、黙って座っていた。

 それぞれの筆をじっと見つめていた。

 それで、お沙が訊いたのである。

「売って、お金にしよう」

「依頼してきた遊女は、火事でもう――」

「あぁ。だが、せっかくつくったのだ。誰か、欲してくれる人の手元にあったほうがよいだろう」

「それは、そうですが――」

「この見事な筆を手離してしまうのは、すこしもったいない気がするが、おれたちが生活してゆくために、生活に困らないためにとつくったのだ。おれたちは、筆をつくって売る。そうやって生活してきたし、これからもそうしてゆくのだ」

 優しく言う。

「では――その筆が売れて、お金になったら、また、元のように筆をつくるのですか」

「元のように、とは?」

 与四郎はお沙の眼を見る。

「髪ではなくて、いままでのように、普通の材料でつくる、ということです」

「それは‥‥どうだろうね」

 眼を伏せる。

「また人を殺めるのですか」

「あはは」

 渇いた笑い。

「なぜ笑うのですか」

「おれが怖いかい、お沙」

「え」

「おれに怯えているのではないかい」

「そんな、ことは――」

 お沙は視線を泳がす。

 与四郎はそれを見逃さなかった。

「本当のことを言ってごらん?」

 優しく怖い声。

「ほ、ほんとうは‥‥本当は、いまも怖いのです。いつか、いつかわたしが殺されるんじゃないかって、怖いのです――」

「いまも、怖い?」

「あの雨の日――あの、雨の日に思ったのです。次は、わたしの番だろう、と――」

「雨の日――」

 ――雨の日。

 観月の筆の絵入れが終わり、お沙は、お京の筆の絵入れにとりかかっていた。

 作業は夜にしかやらないのだが、観月の筆の出来に感激した与四郎が、早く描いてくれとせがむため、この日は昼間から作業をすることにした。

 紅い椿を軸に描き入れてゆく。

 お沙は知らずのうちに、涙をこぼしていた。

 お京の元気な姿が脳裏に蘇ってくるのだ。

 涙で視界がぼやける。

 これでは仕事にならない。

 気分を変えようと、違うことをしようと思った。

 お沙は薄暗い居間を見渡し、与四郎の着物が無造作に置かれているのを見つけた。

「そうだ」

 おくみがほつれてしまったと与四郎が言っていたのを思い出す。

 しばらくは針の目に集中して、気を紛らわそう。

 どうしても、お京の筆とは向き合わなければならないが、いまだけは許してほしい。

 外は、雨が降り始めていた。

 江戸に降る、今年最初の雨であった。

 雨の音を聴き、お沙は慌てて立ちあがる。

 古い長屋であるから、雨漏りする。

 勝手にゆき、桶を三つ四つ抱える。

 どこから漏ってくるのかは、もう判っている。その箇所の真下の畳は、すこし傷んでいる。

 いつもの場所に桶を置く。

 しかし――

「あら」

 覚えのないところからも雨漏りしていた。

 桶はもう無い。

「困ったわね‥‥」

 ほんのしばらく考え、お沙は与四郎の作業場へ向かった。

 夫婦の住まいは、長屋のいちばん端。その裏に小さな小屋が建てられている。これが作業場である。与四郎の義父が家主に頼んで土地を借りて建てさせてもらったのだ。

 雨に濡れないように、すこし突き出した屋根の下を歩く。

 作業場の戸口に来ると、与四郎が立って雨空を見あげていた。

「与四郎さん」

「どうした」

「なにか、使っていない桶はありますか」

「漏るのか?」

「えぇ。知らないうちに、新しく漏るところがあって」

「そうか」

 ふと、お沙が与四郎の手元を見やると、右手に蛇の目傘が握られていた。

「どこかへゆくのですか」

「あぁ――ちょっとな」

「買い物なら、わたしがゆきますよ」

「いや、違う」

「では、どこへ?」

「――臭うんだよ」

「臭う?」

 お沙は首を傾げて夫を見る。

「あぁ、臭うんだ。忍と太助が――」

 低く短く言った。

 お沙は言葉を失くす。

「だから、棄ててこようと思ってね」

「すてる? どこへ、ですか」

「今日は雨だ。この調子だと、川の水嵩が増すだろう」

「‥‥‥」

「ちょっと川まで行って棄ててくる。なに、すぐそこの川さ」

「――太助ちゃんが渡ってきた、という川ですか」

「あぁ。大きい川だし、この雨だし、どこかへ流れてゆくだろう」

 与四郎は無表情だった。

「‥‥桶が欲しいんだったね。使っていないのが棚にあるはずだ。それを使いなさい」

 そう言って、与四郎は奥へ引っ込んだ。

 お沙は桶を持って居間へ戻り、漏ってくるところの下に置く。

 小さく水の跳ねる音が家のあちこちで聞こえる。

 お沙は針仕事にとりかかる。

 しかし、手は動かない。

 ――与四郎が、忍と太助を棄てに行った。

 死んでから何日が経つか、曖昧になっている。でも、臭ってくると与四郎は言った。

 だから、棄てにゆくと。

 忍が居なくなって、屋敷の者は不審に思わないのだろうか。

 そう心配するものの、与四郎のほうが心配になる。

 お沙は、ただぼんやりと座る。

 ふいに、はっ、と気がつき手元を見る。

 雨空で辺りが薄暗くなり、よく見えない。

 お沙は行燈に火を灯す。

 家にあるうちのひとつは、壊れてしまった。

 与四郎が壊してしまった――忍を殺した時に壊れた。

 皮肉なことに、その行燈は、吉井が与四郎とお沙に贈ったものだった。

 夫婦になったお祝いにくれたのだ。

 吉井がつくったのである。

 お沙は、ほのかに明るくなった自分の手元を見つめる。

 ちくり、ちくり、とゆっくり縫ってゆく。

 すこしずつ縫いながら、お沙は考えていた。

 いつ、わたしを殺すのだろう――

 筆をつくるために、人を殺す。

 筆のために、人を殺す。

 筆をつくるのは、わたしのため。

 つまり、わたしのために人を殺す。

 あの人の自己満足で、あの人が我意でやっていること。むしろ、わたしは

「やめて」と何度も言ってきた。

 いつ、わたしに手をかけるのだろう――

 ぼんやりと手元を見つめる。

 考えながら、手をゆっくりと動かす。

 ――どれほど経ったのだろうか

 お沙の手元を照らしている行燈の火が揺らいだ。

 与四郎が帰ってきたのだ。

 長屋の戸を開けて、与四郎が家のなかへ入る。開いた戸から雨風が吹き込む。

 いつのまにか、雨足が強くなっていた。

 お沙は箪笥から手拭いを一枚取り出し、戸口までいって与四郎を出迎える。

 冷たい風がわだかまっている。

「おかえりなさいませ」

 か細いが、凛とした声が響く。

「――ああ」

 与四郎は持っていた蛇の目傘を手近に立てかけると、着物や髪を濡らしたまま家の奥へとあがり込んだ。

 その後をお沙が追い、

「与四郎さん、身体を拭いてください――」

 背中に声をかけた。

「いい。すぐに着替えるから、替えを用意してくれ」

「はい‥‥」

 返事はしたものの、お沙はしばらく動かなかった。

 ――この背中が怖い

「お沙?」

「あ、いえ――」

 与四郎の声に、お沙は慌てて動く。

「判って、いるさ」

 ぽつりと与四郎が言った。お沙が止まった。

「―――」

 お沙は黙っている。

「もう、戻れないんだよ」

 静かに、言い聞かせるように言った。

 お沙は雨に濡れたその背中をじっと見つめ、思った。

 ――次は、わたしの番だろう




    十二、

「お沙は殺さないよ」

 あの雨の日に思ったことを、静かに話し終えたお沙に与四郎が言った。

 優しく言った。

 優しく手を包んだ。

 優しく眼を見つめた。

 与四郎は続けた。

「さぁ、筆を売りにゆこう。自分たちの手で売ろう」

「髪でつくると、決めたのですね」

「黒く艶を放ち、しっとりとした重みを持つ筆は、人の髪でしかつくれない」

「あなたが‥‥与四郎さんがそう言うのなら、そうなのでしょう」

 お沙は、愛しい夫を見つめて言った。

 それから着替え、朝食を摂り、ふたりで出かけた。

 ふたりのつくった筆は、高額で売れた。

 ふたりが価格を呈示したのではなく、買い手のほうから価格を言ってきた。

 どこぞの公家の人間や、役人、名のある武家の人間が買っていった。

 懐が温かくなってゆくのと同時に、心は冷えてゆく。

 四人の命と引き換えに、金が入ってくる。

 なんと惨苦なことであろうか。

 金のためではなく、愛しい妻のため。

 与四郎は髪を欲した。

 吉原には、もうゆけない。

 良吉には、もう頼めない。

 どうやって髪を手に入れたらよいのか。

 ややこしいことをしないで、手っ取り早く手に入れるには――町ゆく娘からもらうしかない。

 与四郎は、夕刻の町を歩く娘を狙った。

「娘さん、落し物ですよ」

 などと言って近づき、懐刀でもって、まず咽を斬りつける。悲鳴をあげさせないためである。それから確実に息の根を止めるために、もう一度、咽を薙ぎ払う。

 そして、髪を切る。

 だが、手間になって、誰かに目撃されては困る。

 そのため、与四郎が犯行をし、お沙が、すこし離れたところからそれを見守る。誰か通行人があったら、それを知らせるためである。

 そうやって、与四郎は次々と女たちを殺していった。

 江戸の町では、相変わらず辻斬りの仕業だと騒ぎたてた。

「身体の一部を、ということだったが、いつのまにか髪に集中したな」

「以前は男も襲われていたが、いまではめっきり町娘ばかりが狙われるな」

 しばらくの間、江戸の町や、娘たちを震撼させた。

「辻斬りではなく、妖異だと言う者もおるぞ」

「〝髪切り〟という妖異だな」

 というように、妖物の仕業では、という声もあがるようになった。
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