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残響
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どうしてこうなったのか、判らなかった。
気がついたら俺は血に染まる筆を片手に、床に座りこんでいた。
いまは何刻だろう。どれほど刻が経ったのだろう。
目の前には、酒屋で買った樽。
そして、頭から覗き込むようにして半身を樽に突っ込む男の姿。
よく見れば、俺の身体も足元も大量の水で濡れている。
いや、これはただの水じゃない。酒だ。酒がこぼれているんだ。
「おい、おまえ‥‥」
俺は抜かした腰をなんとか起こし、樽にもたれかかっている男を揺らす。
「おい‥‥」
男の身体はぐっしょりと濡れてとても重たい。やっとのことで樽から引っ張りあげると男はぐったりとしていて、焦点は定まらず舌がだらりと垂れている。
男は事切れていた。
....いや、俺が殺めたのだ。
なかなか筆を俺に触らせてくれず、酔った勢いもあって口論になって――
奴の綺麗に結われた髷を掴み、幾度も幾度も顔を酒樽のなかにおしつけた。
樽が揺れ酒がこぼれ、最初は抵抗しもがいていたが次第に力が入らなくなって動かなくなった。
ずしりと重くなった男の身体、着物をまさぐってお京の筆を取り出す。
その筆は、確かに湿っていた。樽に満たされた酒の水面に、ひとつ、雫が垂れる。
それからはっきりと覚えているのは、その雫は確かに赤黒く水面に赤い輪をつくったことだ。
***
夜が明け、俺は番所に行くことにした。
この筆がお京のものかどうかは、もうどうでもよくなっていた。
いま思えばどうしてあんなにも固執していたのか自分でも判らない。
頑なに譲らなかった奴が悪いんだ。
お京のものかどうか判じようがなかったが、俺に見せてくれるくらいしたってよかったものを。
そもそも奴が筆の話を、寺の話をしなければこんなことにはならなかった。話を聞かなければ、興味を持つこともなかったのだ。
奴の屍をそのままに、俺は筆を片手に夜明けを待つ江戸の町を歩く。
明けるはずの空がそのうちに暗くなり、黒い雲に覆われて雨が降ってきた。
自身が濡れようが足が泥濘にはまろうがどうでもよい。とにかくいまは歩みを止めたくない。
人を殺めたあとの喪失感と虚無感、与四郎もこれを味わったのだろう。
だが与四郎には妻のお沙がいた。俺には誰もいない。お京はもういないのだ。
細い路地に傘をさした女が立っているのに気がついた。顔は見えないが、その傘には見覚えがある。
「あちきは忠告しんしたえ」
破れた傘に雨粒が当たり、耳障りな音をたてる。
「....いつぞやの遊女か」
「あちきも筆にとり憑かれていんした。それでも救われた命、無駄にはできぬと未練を捨てて決心をしてあの寺に筆を預けたのでありんす」
「なぜ俺の前に現れた。なぜ俺に筆の話をした」
「あちきはお京ちゃんのお墓参りがしたかっただけ....。ぬしをたきつけたつもりはありんせん。忠告をしたかったのでおす」
雨音と傘で女の声がこもっている。それでもよく通る声だった。
「あんたは俺がなにをしたのか知っているようだな」
いまここでこの女も殺めてしまおうか。与四郎がしたように。無惨にも髪を切り刻んでしまおうか。
俺は一歩、遊女へ近づく。すると遊女は破れた傘の先をつい、とあげて顔を見せた。
「....!」
布で覆われていないその顔は、鼻から下が醜く焼け爛れて真っ直ぐ見ることができないほどだった。
「あちきは命と引き換えに顔を失いんした。こんな顔では生きていたくねえ....あの火事のときも吉原とともに焼け落ちる覚悟でおったのに、いまやこのような醜女になっても生きていくことに必死なのでありんす」
「どうしてだ」
「与四郎さまと、お京ちゃんのためでおす」
女が言い終わると同時に、その白く細い喉に飛びついた。火傷の痕が痛々しく、触れているのもおぞましく感じだが、この女がこれ以上喋るのを聞いていたくなかった。
「最後に言っておきたいことはあるか。お京への懺悔なら聞いてやる」
ばしゃ、と水たまりに倒れ込み、女に馬乗りになる。破れた傘が地に落ち、骨が歪んでさらに穴があく。
「あちきが筆の情から逃れられたように、ぬしにも道を外れてしまわぬようにと、思っただけでーー」
「うるさい! お前がお京と知り合わなければ、与四郎と引き合わせなければ!」
ぐっと力を込めて女の首を絞めてゆく。
女はとくに抵抗もせず、睨むように俺からじっと視線を外さないでいる。そんな目で見たって、もう後戻りはできない。俺はもう罪を犯した。屍がひとつ増えるくらいどうしようもないのだ。お京への懺悔すら言えないこんな女ただの肉塊にしてしまえ。
奴も殺した。この女も殺せば、ぜんぶ済む。
そのときーー
「旦那、なにしてるんで」
背後から男の声がした。振り返ると、俺が殺めたはずのあの男が椀を片手にずぶ濡れで立っていた。
「旦那が用意してくれた酒、空にしたんで帰るとこなんですがね」
「....お前、どうして」
「だって旦那言ったじゃないですか。飲み切るまでは帰さねぇって」
「生きていやがったのか」
「いやいや良吉っつあん。筆、返してくれませんかね。持ってるんでしょ?」
迫ってくる男から逃げたくても逃げられない。女の首を絞めていた手も力が抜け、その場から動けなくなる。
近づく男の顔を見て、最期の与四郎を思い出した。まるで生気が無い。本当に俺は殺めたのか?
雨足は強くなるばかりで、着物が濡れて重さを増す。男は近づいてくる。女も俺を睨んでいる。こんな土砂降りなのに、ふわりと酒の香がする。
お京、俺はもうーー
筆が転げ、水たまりに赤い波紋をつくった。
残響
了
気がついたら俺は血に染まる筆を片手に、床に座りこんでいた。
いまは何刻だろう。どれほど刻が経ったのだろう。
目の前には、酒屋で買った樽。
そして、頭から覗き込むようにして半身を樽に突っ込む男の姿。
よく見れば、俺の身体も足元も大量の水で濡れている。
いや、これはただの水じゃない。酒だ。酒がこぼれているんだ。
「おい、おまえ‥‥」
俺は抜かした腰をなんとか起こし、樽にもたれかかっている男を揺らす。
「おい‥‥」
男の身体はぐっしょりと濡れてとても重たい。やっとのことで樽から引っ張りあげると男はぐったりとしていて、焦点は定まらず舌がだらりと垂れている。
男は事切れていた。
....いや、俺が殺めたのだ。
なかなか筆を俺に触らせてくれず、酔った勢いもあって口論になって――
奴の綺麗に結われた髷を掴み、幾度も幾度も顔を酒樽のなかにおしつけた。
樽が揺れ酒がこぼれ、最初は抵抗しもがいていたが次第に力が入らなくなって動かなくなった。
ずしりと重くなった男の身体、着物をまさぐってお京の筆を取り出す。
その筆は、確かに湿っていた。樽に満たされた酒の水面に、ひとつ、雫が垂れる。
それからはっきりと覚えているのは、その雫は確かに赤黒く水面に赤い輪をつくったことだ。
***
夜が明け、俺は番所に行くことにした。
この筆がお京のものかどうかは、もうどうでもよくなっていた。
いま思えばどうしてあんなにも固執していたのか自分でも判らない。
頑なに譲らなかった奴が悪いんだ。
お京のものかどうか判じようがなかったが、俺に見せてくれるくらいしたってよかったものを。
そもそも奴が筆の話を、寺の話をしなければこんなことにはならなかった。話を聞かなければ、興味を持つこともなかったのだ。
奴の屍をそのままに、俺は筆を片手に夜明けを待つ江戸の町を歩く。
明けるはずの空がそのうちに暗くなり、黒い雲に覆われて雨が降ってきた。
自身が濡れようが足が泥濘にはまろうがどうでもよい。とにかくいまは歩みを止めたくない。
人を殺めたあとの喪失感と虚無感、与四郎もこれを味わったのだろう。
だが与四郎には妻のお沙がいた。俺には誰もいない。お京はもういないのだ。
細い路地に傘をさした女が立っているのに気がついた。顔は見えないが、その傘には見覚えがある。
「あちきは忠告しんしたえ」
破れた傘に雨粒が当たり、耳障りな音をたてる。
「....いつぞやの遊女か」
「あちきも筆にとり憑かれていんした。それでも救われた命、無駄にはできぬと未練を捨てて決心をしてあの寺に筆を預けたのでありんす」
「なぜ俺の前に現れた。なぜ俺に筆の話をした」
「あちきはお京ちゃんのお墓参りがしたかっただけ....。ぬしをたきつけたつもりはありんせん。忠告をしたかったのでおす」
雨音と傘で女の声がこもっている。それでもよく通る声だった。
「あんたは俺がなにをしたのか知っているようだな」
いまここでこの女も殺めてしまおうか。与四郎がしたように。無惨にも髪を切り刻んでしまおうか。
俺は一歩、遊女へ近づく。すると遊女は破れた傘の先をつい、とあげて顔を見せた。
「....!」
布で覆われていないその顔は、鼻から下が醜く焼け爛れて真っ直ぐ見ることができないほどだった。
「あちきは命と引き換えに顔を失いんした。こんな顔では生きていたくねえ....あの火事のときも吉原とともに焼け落ちる覚悟でおったのに、いまやこのような醜女になっても生きていくことに必死なのでありんす」
「どうしてだ」
「与四郎さまと、お京ちゃんのためでおす」
女が言い終わると同時に、その白く細い喉に飛びついた。火傷の痕が痛々しく、触れているのもおぞましく感じだが、この女がこれ以上喋るのを聞いていたくなかった。
「最後に言っておきたいことはあるか。お京への懺悔なら聞いてやる」
ばしゃ、と水たまりに倒れ込み、女に馬乗りになる。破れた傘が地に落ち、骨が歪んでさらに穴があく。
「あちきが筆の情から逃れられたように、ぬしにも道を外れてしまわぬようにと、思っただけでーー」
「うるさい! お前がお京と知り合わなければ、与四郎と引き合わせなければ!」
ぐっと力を込めて女の首を絞めてゆく。
女はとくに抵抗もせず、睨むように俺からじっと視線を外さないでいる。そんな目で見たって、もう後戻りはできない。俺はもう罪を犯した。屍がひとつ増えるくらいどうしようもないのだ。お京への懺悔すら言えないこんな女ただの肉塊にしてしまえ。
奴も殺した。この女も殺せば、ぜんぶ済む。
そのときーー
「旦那、なにしてるんで」
背後から男の声がした。振り返ると、俺が殺めたはずのあの男が椀を片手にずぶ濡れで立っていた。
「旦那が用意してくれた酒、空にしたんで帰るとこなんですがね」
「....お前、どうして」
「だって旦那言ったじゃないですか。飲み切るまでは帰さねぇって」
「生きていやがったのか」
「いやいや良吉っつあん。筆、返してくれませんかね。持ってるんでしょ?」
迫ってくる男から逃げたくても逃げられない。女の首を絞めていた手も力が抜け、その場から動けなくなる。
近づく男の顔を見て、最期の与四郎を思い出した。まるで生気が無い。本当に俺は殺めたのか?
雨足は強くなるばかりで、着物が濡れて重さを増す。男は近づいてくる。女も俺を睨んでいる。こんな土砂降りなのに、ふわりと酒の香がする。
お京、俺はもうーー
筆が転げ、水たまりに赤い波紋をつくった。
残響
了
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