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残響
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そもそもの原因は吉井の死ではないのか。
吉井が辻斬りによって命を落とさなければ、与四郎は変わらず通常の材料で筆をつくり、お京が殺されることもなかったのではないのか。
吉原の炎上を防ぐことはできずとも、たくさんの人が与四郎の手によって血を流すこともなかったはずだ。お京を含め。
死んでしまった吉井に恨み節を言ってもしかたないが、奴が最期を迎えた場所を訪れてみようと思った。
***
古い長屋の近く、朽ちかけた橋の傍――草臥れた河原が、吉井の殺害現場だった。
さすがに幾日も経っており、たいした痕跡は残っていない。
下手人は捕まったのだろうかと番所に訊ねたが、髪切りの辻斬りのせいでそんなものはとっくに調べていないと言われてしまった。
「吉井‥‥もしお前が生きていたら、いままでの惨状を見てなんて言うかな」
返事ともとれる乾いた風が川の水面を揺らす。
「やい、旦那。そこでなにしてるんです」
背後から声をかけられ、驚いて振り返るといつぞや髷を結った初老の男が立っていた。
「ああ、いや。ここで知り合いが死んじまってね。もしかしたら件の筆と関係してるんじゃないかと思ってさ」
「ははあ、そうでしたか。良吉っつあんも血の筆に興味を持ちましたかえ」
初老の男は棒手売りで、桶をふたつ肩からさげていた。
「なにを売っているんで」
「へへ、仕入れたんですよ、筆を」
「なに?」
男は得意げに桶からひとつの黒い棒を取り出した。
なるほど、よく見てみると、汚れてはいるがそれは確かに筆だった。軸には紅色の椿が絵入れされている。見事な筆だ。ふと、お京がよく着ていた着物の柄が椿だったことを思い出す。
「それを、どこで」
「たとえ旦那にでも教えられねぇや」
男は差し出した筆を俺の手が届くよりも早く、自らの懐へしまいこんだ。
寺で筆を見せてもらったときには感じなかったものが背を駆ける。鼓動が早くなる。触れもしないのになぜか確信してしまう。あの筆は、もしや――
「活きがいいですぜ。手に入れたばかりなんでさ。これを持ち帰って晩になったら本当に血が流れるのか見ながら酒を飲むんですよ」
もし、この筆がお京の髪でつくられたものならば、こんな男のもとにあってはいけない。
「すまねぇが、その晩酌に俺も仲間にしてもらえねぇかな。良い酒を用意しよう」
最初は厭そうに険しい顔をした男だったが、良い酒という言葉を聞いてすぐに頬を緩めた。
「どうせなら肴も持ってきてくだせぇよ、良い肴を」
「‥‥肴ならその筆だろう?」
「いやいや、つまらんことを言っちゃなりませんぜ旦那。この筆で飲むなら美味いもんをこしらえてくれなくっちゃ」
こんな阿呆なやりとりをしている暇などないが、すこしでも望みがあるのならこの男の要求に応えるしかあるまい。
「相判った。良い酒と肴を用意しよう」
「へへ、そうじゃねぇと旦那。じゃ、子の刻に旦那の髪結い床でいいですかね」
不本意だが、頷くしかなかった。
***
俺はすぐ馴染みの酒屋へ行っていちばん安い酒を樽ごとひとつ買った。
肴には湯豆腐を用意し、約束の時間になるのを待つ。
あの男の持つ筆がお京のものかは判らないし、すでに寺で供養されてしまったかもしれない。
あの椿の絵を見たときに心の臓がざわついたのは事実だが、お京の筆かどうか確かめる術はない。
与四郎が死んだいま真実は判らないが、この手で触れてみたくてたまらない。
それに、本当に筆が血を滴らせるのかも興味がある。
あの遊女は情念だとか恨みだとか言っていたが、果たしてそんなことで血が流れる怪異が怒るものなのだろうか。
もし、お京の筆だとしたらそれはなにに対しての念なのだろう。
「へい、旦那」
ガタガタと戸が鳴って、約束した男が入ってくる。
へへ、と懐を叩いて、上り口に腰かける。
「おやまぁ、こんなに立派な樽で買ったんですかい」
男は戸口の傍に置いた樽を見て、とぼけたような顔をした。
「飲み切るまでは帰さんからな」
そうだ。筆を確かめるまでは帰さないつもりでいる。
「そいつは困りましたねえ。旦那、灯りをこっちへ」
俺はふたつあった行灯をひとつ男のほうへ押す。
「ここへ来る途中で筆が血を流すんじゃないかとひやひやしたんでさ。一張羅が汚れちまっては困りますからね」
男は懐をまさぐり、汚れた襤褸布から筆を取り出す。俺はそれを見て顔をしかめる。お京の筆だったらどうするんだ、そんな汚いものに包みやがって。
「ああよかった、まだ怪異は起きてないようですぜ」
行灯のあかりで筆の無事を確かめている男を一瞥し、俺は立ちあがって手桶で酒を汲む。立派な盃などなく、適当な椀で飲んでもらうことにする。
「肴はこちらで?」
ひしゃげた鍋の蓋を勝手に開け、湯気を顔に浴びている男。
「すまない、それくらいしか無くてな」
「いえいえ。それより酒は温めて飲みたいんですがねえ」
「悪いが今晩はこれで勘弁してくれないか」
俺は手桶と椀を差し出す。
「しょうがないですね」
男は半ば奪うように俺から椀を受け取る。それにムッとし、空になった手をさらに強く男の前に突き出して、
「じゃあ俺には筆を見せてくれ」
と言ってやった。早く、早く見せてくれ。お京のものかそうでないか、それさえ見られればいいんだ。さあ早く。
「まあまあ、待ちましょうよ。まずは乾杯ですぜ」
男は筆を懐にしまい込み、俺が買ってきた俺の酒を勝手に飲み始めた。
吉井が辻斬りによって命を落とさなければ、与四郎は変わらず通常の材料で筆をつくり、お京が殺されることもなかったのではないのか。
吉原の炎上を防ぐことはできずとも、たくさんの人が与四郎の手によって血を流すこともなかったはずだ。お京を含め。
死んでしまった吉井に恨み節を言ってもしかたないが、奴が最期を迎えた場所を訪れてみようと思った。
***
古い長屋の近く、朽ちかけた橋の傍――草臥れた河原が、吉井の殺害現場だった。
さすがに幾日も経っており、たいした痕跡は残っていない。
下手人は捕まったのだろうかと番所に訊ねたが、髪切りの辻斬りのせいでそんなものはとっくに調べていないと言われてしまった。
「吉井‥‥もしお前が生きていたら、いままでの惨状を見てなんて言うかな」
返事ともとれる乾いた風が川の水面を揺らす。
「やい、旦那。そこでなにしてるんです」
背後から声をかけられ、驚いて振り返るといつぞや髷を結った初老の男が立っていた。
「ああ、いや。ここで知り合いが死んじまってね。もしかしたら件の筆と関係してるんじゃないかと思ってさ」
「ははあ、そうでしたか。良吉っつあんも血の筆に興味を持ちましたかえ」
初老の男は棒手売りで、桶をふたつ肩からさげていた。
「なにを売っているんで」
「へへ、仕入れたんですよ、筆を」
「なに?」
男は得意げに桶からひとつの黒い棒を取り出した。
なるほど、よく見てみると、汚れてはいるがそれは確かに筆だった。軸には紅色の椿が絵入れされている。見事な筆だ。ふと、お京がよく着ていた着物の柄が椿だったことを思い出す。
「それを、どこで」
「たとえ旦那にでも教えられねぇや」
男は差し出した筆を俺の手が届くよりも早く、自らの懐へしまいこんだ。
寺で筆を見せてもらったときには感じなかったものが背を駆ける。鼓動が早くなる。触れもしないのになぜか確信してしまう。あの筆は、もしや――
「活きがいいですぜ。手に入れたばかりなんでさ。これを持ち帰って晩になったら本当に血が流れるのか見ながら酒を飲むんですよ」
もし、この筆がお京の髪でつくられたものならば、こんな男のもとにあってはいけない。
「すまねぇが、その晩酌に俺も仲間にしてもらえねぇかな。良い酒を用意しよう」
最初は厭そうに険しい顔をした男だったが、良い酒という言葉を聞いてすぐに頬を緩めた。
「どうせなら肴も持ってきてくだせぇよ、良い肴を」
「‥‥肴ならその筆だろう?」
「いやいや、つまらんことを言っちゃなりませんぜ旦那。この筆で飲むなら美味いもんをこしらえてくれなくっちゃ」
こんな阿呆なやりとりをしている暇などないが、すこしでも望みがあるのならこの男の要求に応えるしかあるまい。
「相判った。良い酒と肴を用意しよう」
「へへ、そうじゃねぇと旦那。じゃ、子の刻に旦那の髪結い床でいいですかね」
不本意だが、頷くしかなかった。
***
俺はすぐ馴染みの酒屋へ行っていちばん安い酒を樽ごとひとつ買った。
肴には湯豆腐を用意し、約束の時間になるのを待つ。
あの男の持つ筆がお京のものかは判らないし、すでに寺で供養されてしまったかもしれない。
あの椿の絵を見たときに心の臓がざわついたのは事実だが、お京の筆かどうか確かめる術はない。
与四郎が死んだいま真実は判らないが、この手で触れてみたくてたまらない。
それに、本当に筆が血を滴らせるのかも興味がある。
あの遊女は情念だとか恨みだとか言っていたが、果たしてそんなことで血が流れる怪異が怒るものなのだろうか。
もし、お京の筆だとしたらそれはなにに対しての念なのだろう。
「へい、旦那」
ガタガタと戸が鳴って、約束した男が入ってくる。
へへ、と懐を叩いて、上り口に腰かける。
「おやまぁ、こんなに立派な樽で買ったんですかい」
男は戸口の傍に置いた樽を見て、とぼけたような顔をした。
「飲み切るまでは帰さんからな」
そうだ。筆を確かめるまでは帰さないつもりでいる。
「そいつは困りましたねえ。旦那、灯りをこっちへ」
俺はふたつあった行灯をひとつ男のほうへ押す。
「ここへ来る途中で筆が血を流すんじゃないかとひやひやしたんでさ。一張羅が汚れちまっては困りますからね」
男は懐をまさぐり、汚れた襤褸布から筆を取り出す。俺はそれを見て顔をしかめる。お京の筆だったらどうするんだ、そんな汚いものに包みやがって。
「ああよかった、まだ怪異は起きてないようですぜ」
行灯のあかりで筆の無事を確かめている男を一瞥し、俺は立ちあがって手桶で酒を汲む。立派な盃などなく、適当な椀で飲んでもらうことにする。
「肴はこちらで?」
ひしゃげた鍋の蓋を勝手に開け、湯気を顔に浴びている男。
「すまない、それくらいしか無くてな」
「いえいえ。それより酒は温めて飲みたいんですがねえ」
「悪いが今晩はこれで勘弁してくれないか」
俺は手桶と椀を差し出す。
「しょうがないですね」
男は半ば奪うように俺から椀を受け取る。それにムッとし、空になった手をさらに強く男の前に突き出して、
「じゃあ俺には筆を見せてくれ」
と言ってやった。早く、早く見せてくれ。お京のものかそうでないか、それさえ見られればいいんだ。さあ早く。
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