徒花の彼

砂詠 飛来

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虚偽の彼

八、

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 もう何時なのか判らなくなっていた。

 風呂場から出て、シーツを見て青ざめて、それから、それから――

 精神的にも体力的にも、目を開けているのが限界だった。すさまじい倦怠感。きっと俺はいまベッドの上。隣には先生。

 先生は俺に寄り添って眠っている。腕や足に先生の体温を感じて心地いい。俺も眠ってしまおうか‥‥

「ねえ」

 いきなり先生がぱっちりと目を開けた。

「――おはようございます」

「いま何時?」

「判りません」

 先生がパジャマを着ているのを見て、俺自身もなにかを身につけていることに気がついた。先生が着せてくれたのだろうか。

「大変だなぁ」

 先生は寝返りをうつように身をよじらせ、さらに俺に密着してくる。

「なにがですか」

「シーツと着物の洗濯。それと割れたワインボトル」

「あ‥‥すみません‥‥」

 どれも俺のせいだ。シーツを汚したのもワインボトルを割ったのも俺‥‥でも――

「着物は俺関係ないですよね」

「あるよ」

「え。責任転嫁ですね」

「着物を着た僕を見る君の目が悪い」

「は?」

 身体に纏う倦怠感など忘れ、俺は半身を起して先生を見た。先生は俺の腕の代わりに枕に抱きつき、見あげてくる。

「普段はきったない白衣だもんねぇ。着物は魅力的だった?」

 意地の悪い声。悔しいけど、先生の言う通りだったから困る。

「今度、君にも着付けの仕方を教えてあげるよ。一緒に着物で初詣に行こう」

 そうか。新年が明けたばかりだった。俺はもう、いろいろなことに気がまわらなくなっているようだ。

「初めてじゃない? こうやってピロートークするの」

 意地悪そうな笑顔のなかに、嬉しさも滲み出ていて、どうにもその笑顔を許してしまいそうになる。先生は子どもっぽく、布団のなかで足をバタバタと遊ばせている。俺はふたたび倦怠感に身を任せ、ベッドに倒れた。

「おみくじ、なんでした? 神社で教えてくれなかったでしょ」

 枕を先生に奪われてしまったので、頭の位置が低くなる。

「内緒。もう結んできちゃったし」

「結ぶのと結ばないと、なにが違うんですか」

「大吉だったら結ぶとか、願いが叶ったら結びにくるとか、いろいろあるらしいよ」

「大吉だったんですか?」

「内緒。君はどうなの」

「内緒です」

 先生から枕を奪い返し、自分の頭の下に入れる。そこへ無理矢理に先生が迫ってきて、小さな枕にふたりで頭を乗せた。

「‥‥いまさらだけど、ごめん。――君に非道いことするつもりはなくて、橋本と宮下が君を泣かせたとか聞いたから、いい歳して妬いた」

「―――」

 俺と先生はこんなに近く、こんなに密着しているのに互いに天井を見つめ、目を合わせようとしない。俺が目線だけ先生に投げると、先生はただぼんやりと天井をまっすぐ見つめている。そして俺が天井に目線を戻すと、先生からの視線をほのかに感じる。目が合わない。

「もう僕も無理ができる年齢じゃないのに、君のことを考えたら理性なんか無くなって、それで‥‥君の全部を支配したくなった」

 普段の先生からは感じられない、なんだか真剣な雰囲気に俺も緊張する。

「今日――神社での橋本と宮下、あんな若いふたりを見ていたら、羨ましくなってしまったのかもしれない。将来の不安なんか考えないで、ただふたりで同じ時間を共有して、それで‥‥」

「年齢が気になるんですか? いまさら」

「‥‥そうだよね、ごめん。僕が不安なように、君だって不安だよね」

「俺は‥‥俺だって不安です。怖くて、どうしたらいいのか判らなくなります。でも、このままずっと先生と居たい。それでもいつかくる別れが怖くて、これ以上――先生と親密になったらダメなのかなって」

「別れ‥‥そうだね‥‥どうしたって僕のほうが先に逝っちゃう可能性が高いよね」

 先生の乾いた笑い。それが寂しくてたまらない。

「好きになれば好きになるほど、いつかくる別れのときが怖くて、失うのが怖いんです」

 こんなことを先生に言ったってしょうがないのに。俺は毛布を力強く握りしめてしまっていた。その手を解くように、先生は冷たい手で俺を包んできた。いつもはただ冷たく感じるだけなのに、いまはその冷たさすら愛おしい。

「いいじゃん、別にさ。別れるとか失うとか、そんなこと考えないようにしようよ」

「不安がどうのって、先生から言い出したんですよ」

「そうだっけ」

 いつもと同じ能天気な先生の声に、俺は安堵する。そして、毛布から解かれた手は、先生の手と深く繋がれた。

「また神社に行こう。今度はふたりきりで」

 先生の柔らかい髪、俺の頬をくすぐる。

「――おみくじ、なにが出ても教え合いましょうね」

 うん、と頷くと、先生は静かに寝息をたてはじめた。

 倦怠感はいつのまにか消え、穏やかな空気に包まれているのを感じる。俺も先生も、同じように同じようなことを感じていたと知ったからだろうか。いろいろと非道い目に遭ったが、これもまた先生との想い出になった――といまは思っておこう。

「今年もよろしく、実幸さん」



 虚偽の彼

  了
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