もう、追いかけない

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 (疲れた……)
 仰向けになり、久しぶりに目にする懐かしい天井をぼんやりと見つめながら、大きく息を吐く。
 寝返りを打つのさえ億劫なほど疲労を感じたのは初めてだ。
 眠りたいのに、目を閉じれば嫌でもエミル殿下の顔が浮かんでくる。

 ──殿下はどうしてヤノシュ伯爵令嬢を愛したのだろう

 記憶を失う前のエミル殿下は、簡単に女性を近付けるような人ではなかった。
 次期皇帝である彼の側に侍ろうと、数多の女性がなりふり構わず躍起になって誘惑したが、誰一人として彼の心を射止めることはできなかった。
 今年二十八歳になったエミル殿下には、これまで浮いた噂が一つもない。
 そんな彼を女嫌いなのだと言う者もいたが、それは違うと私は思う。
 彼はどんな女性でも、距離感さえ間違えなければ、決して無下には扱わない。
 ずっと見つめてきたから知っている。
 彼は末端の官吏にさえ、勤勉であれば心を砕くような人なのだ。
 けれど……ヤノシュ伯爵令嬢は、記憶をなくす前の殿下が一番嫌っていたタイプの女性だ。
 知性も品性も著しく欠如している。
 だがその代わり、見た目だけは一級品。
 うるうるとした大きな瞳はまるで小動物を思い起こさせる。
 はたから見れば、とても魅力的に映るのは事実だ。
 だから、多少の問題はあれど、ああいう女性を男性が愛でたくなる気持ちはわからなくもない。
 けれど、いくら記憶を失ったからと言って、すぐさま別人のように女性の好みも変わるものだろうか。
 殿下は理性の人。
 けれど、それは表面だけで、理性の下ではああいう女性を求めていたとか?
 でもそれならなぜ私と婚約を結んだのか。

 『でも』、『なぜ?』
 そんな思いがぐるぐると頭の中を回り続けて止まらない。

 (もう、忘れなければ)
 けれど、そう思えば思うほど、自分に向けられた感情のない紫水晶の瞳が思い出されて胸を抉る。
 事故に遭う前、殿下が私に向けてくれた瞳はもっと温かだった。
 恋をしていたのは私だけだったと思う。
 けれど殿下は折に触れ、忙しい中でも私を気に掛けてくれていた。
 これだけは事実だ。
 デビュタントや年中行事の時などは、笑顔と共に祝いの言葉を直接伝えてくれた。
 だから、頻繁に言葉を交わす機会はなかったが、幼い私を助けてくれたあの日から、まるで見守られているような気持ちでいた。
 庭園に迷い込んだ子猫を拾い、ほんの少し情が湧いただけだとしても、それで良かった。
 そしていつか彼が第二妃を迎える日が来ようとも。
 同じだけの愛を返してもらいたいなんて思わない。
 それは、できれば同じくらい……いやそれ以上に愛されたい。
 けれど欲張っては罰が当たる。
 貴族に生まれた私には、愛する人に嫁せること自体が奇跡なのだから。  

 (もう、眠らなくちゃ)

 明日の朝は早い。
 私たちのあとをつけてきた者がどうなったのかも気になるし、今後の身の振り方だって決めなければならない。
 考えることは山のようにある。

 明かりを消そうと、寝台横のチェストに置かれたランプに手を伸ばした時だった。
 なにかが地を這うような音が一瞬聞こえ、耳を澄ます。
 (今の音はなに?)
 扉の前には護衛の騎士が二人いる。
 なにかあれば彼らが対処するはずだが、人の声は一向に聞こえてはこない。
 しかし怪しい音は確かに入り口の扉の前から聞こえた。
 私は背筋に寒いものを感じ、咄嗟に寝台から降り、隠れる場所を探した。
 しかし、小ぢんまりとした部屋の中に隠れられる場所などそうはない。
 私は着ていたワンピースを一纏めにし、唯一隠れられそうなソファの陰に身を潜めた。
 すると、注意していないと聞こえないくらいの僅かな音がして、扉が開く。
 入ってきたのは黒装束の男。
 
 「早くしろよ」

 扉の向こう側から別の男の声がした。
 (我が家の騎士は?)
 心臓がバクバクと激しく音を立てる。
 まさか、侯爵家自慢の騎士たちが、声を上げる間もなく殺されたというのか。
 





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