7 / 71
7
しおりを挟む(疲れた……)
仰向けになり、久しぶりに目にする懐かしい天井をぼんやりと見つめながら、大きく息を吐く。
寝返りを打つのさえ億劫なほど疲労を感じたのは初めてだ。
眠りたいのに、目を閉じれば嫌でもエミル殿下の顔が浮かんでくる。
──殿下はどうしてヤノシュ伯爵令嬢を愛したのだろう
記憶を失う前のエミル殿下は、簡単に女性を近付けるような人ではなかった。
次期皇帝である彼の側に侍ろうと、数多の女性がなりふり構わず躍起になって誘惑したが、誰一人として彼の心を射止めることはできなかった。
今年二十八歳になったエミル殿下には、これまで浮いた噂が一つもない。
そんな彼を女嫌いなのだと言う者もいたが、それは違うと私は思う。
彼はどんな女性でも、距離感さえ間違えなければ、決して無下には扱わない。
ずっと見つめてきたから知っている。
彼は末端の官吏にさえ、勤勉であれば心を砕くような人なのだ。
けれど……ヤノシュ伯爵令嬢は、記憶をなくす前の殿下が一番嫌っていたタイプの女性だ。
知性も品性も著しく欠如している。
だがその代わり、見た目だけは一級品。
うるうるとした大きな瞳はまるで小動物を思い起こさせる。
はたから見れば、とても魅力的に映るのは事実だ。
だから、多少の問題はあれど、ああいう女性を男性が愛でたくなる気持ちはわからなくもない。
けれど、いくら記憶を失ったからと言って、すぐさま別人のように女性の好みも変わるものだろうか。
殿下は理性の人。
けれど、それは表面だけで、理性の下ではああいう女性を求めていたとか?
でもそれならなぜ私と婚約を結んだのか。
『でも』、『なぜ?』
そんな思いがぐるぐると頭の中を回り続けて止まらない。
(もう、忘れなければ)
けれど、そう思えば思うほど、自分に向けられた感情のない紫水晶の瞳が思い出されて胸を抉る。
事故に遭う前、殿下が私に向けてくれた瞳はもっと温かだった。
恋をしていたのは私だけだったと思う。
けれど殿下は折に触れ、忙しい中でも私を気に掛けてくれていた。
これだけは事実だ。
デビュタントや年中行事の時などは、笑顔と共に祝いの言葉を直接伝えてくれた。
だから、頻繁に言葉を交わす機会はなかったが、幼い私を助けてくれたあの日から、まるで見守られているような気持ちでいた。
庭園に迷い込んだ子猫を拾い、ほんの少し情が湧いただけだとしても、それで良かった。
そしていつか彼が第二妃を迎える日が来ようとも。
同じだけの愛を返してもらいたいなんて思わない。
それは、できれば同じくらい……いやそれ以上に愛されたい。
けれど欲張っては罰が当たる。
貴族に生まれた私には、愛する人に嫁せること自体が奇跡なのだから。
(もう、眠らなくちゃ)
明日の朝は早い。
私たちのあとをつけてきた者がどうなったのかも気になるし、今後の身の振り方だって決めなければならない。
考えることは山のようにある。
明かりを消そうと、寝台横のチェストに置かれたランプに手を伸ばした時だった。
なにかが地を這うような音が一瞬聞こえ、耳を澄ます。
(今の音はなに?)
扉の前には護衛の騎士が二人いる。
なにかあれば彼らが対処するはずだが、人の声は一向に聞こえてはこない。
しかし怪しい音は確かに入り口の扉の前から聞こえた。
私は背筋に寒いものを感じ、咄嗟に寝台から降り、隠れる場所を探した。
しかし、小ぢんまりとした部屋の中に隠れられる場所などそうはない。
私は着ていたワンピースを一纏めにし、唯一隠れられそうなソファの陰に身を潜めた。
すると、注意していないと聞こえないくらいの僅かな音がして、扉が開く。
入ってきたのは黒装束の男。
「早くしろよ」
扉の向こう側から別の男の声がした。
(我が家の騎士は?)
心臓がバクバクと激しく音を立てる。
まさか、侯爵家自慢の騎士たちが、声を上げる間もなく殺されたというのか。
164
あなたにおすすめの小説
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
〈完結〉【書籍化&コミカライズ・取り下げ予定】記憶を失ったらあなたへの恋心も消えました。
ごろごろみかん。
恋愛
婚約者には、何よりも大切にしている義妹がいる、らしい。
ある日、私は階段から転がり落ち、目が覚めた時には全てを忘れていた。
対面した婚約者は、
「お前がどうしても、というからこの婚約を結んだ。そんなことも覚えていないのか」
……とても偉そう。日記を見るに、以前の私は彼を慕っていたらしいけれど。
「階段から転げ落ちた衝撃であなたへの恋心もなくなったみたいです。ですから婚約は解消していただいて構いません。今まで無理を言って申し訳ありませんでした」
今の私はあなたを愛していません。
気弱令嬢(だった)シャーロットの逆襲が始まる。
☆タイトルコロコロ変えてすみません、これで決定、のはず。
☆商業化が決定したため取り下げ予定です(完結まで更新します)
愛してしまって、ごめんなさい
oro
恋愛
「貴様とは白い結婚を貫く。必要が無い限り、私の前に姿を現すな。」
初夜に言われたその言葉を、私は忠実に守っていました。
けれど私は赦されない人間です。
最期に貴方の視界に写ってしまうなんて。
※全9話。
毎朝7時に更新致します。
「君の為の時間は取れない」と告げた旦那様の意図を私はちゃんと理解しています。
あおくん
恋愛
憧れの人であった旦那様は初夜が終わったあと私にこう告げた。
「君の為の時間は取れない」と。
それでも私は幸せだった。だから、旦那様を支えられるような妻になりたいと願った。
そして騎士団長でもある旦那様は次の日から家を空け、旦那様と入れ違いにやって来たのは旦那様の母親と見知らぬ女性。
旦那様の告げた「君の為の時間は取れない」という言葉はお二人には別の意味で伝わったようだ。
あなたは愛されていない。愛してもらうためには必要なことだと過度な労働を強いた結果、過労で倒れた私は記憶喪失になる。
そして帰ってきた旦那様は、全てを忘れていた私に困惑する。
※35〜37話くらいで終わります。
7歳の侯爵夫人
凛江
恋愛
ある日7歳の公爵令嬢コンスタンスが目覚めると、世界は全く変わっていたー。
自分は現在19歳の侯爵夫人で、23歳の夫がいるというのだ。
どうやら彼女は事故に遭って12年分の記憶を失っているらしい。
目覚める前日、たしかに自分は王太子と婚約したはずだった。
王太子妃になるはずだった自分が何故侯爵夫人になっているのかー?
見知らぬ夫に戸惑う妻(中身は幼女)と、突然幼女になってしまった妻に戸惑う夫。
23歳の夫と7歳の妻の奇妙な関係が始まるー。
教養が足りない、ですって
たくわん
恋愛
侯爵令嬢エリーゼは、公爵家の長男アレクシスとの婚約披露宴で突然婚約破棄される。理由は「教養が足りず、公爵夫人として恥ずかしい」。社交界の人々の嘲笑の中、エリーゼは静かに会場を去る。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる