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しおりを挟む咄嗟に悲鳴を上げなかった自分を褒め称えたい。
それにしても、比喩でなく息の根が止まるほどの衝撃だ。
目の前にあるのは本当に人のお尻なのだろうか。
いや、芸術品と言っても過言ではないこの美しいお尻が、人のものであるはずがない。
妖精、妖精のお尻だ。
だからこんなにも美しいのだ。
「ルツィエル」
「は、ははははい!臀ぶ……じゃない殿下!」
「入ってもいいかな?」
「ど、どうぞ!」
混乱を極める私の前で、バスタブに身体を沈めた殿下。
一応侯爵令嬢としての名誉にかけて言うが、決して前は見ていない。
(こんな事で動揺しちゃダメ)
彼は生まれながらの王族で、かしずかれることは当たり前の人生。
私たち貴族だって身の回りのことは侍女の仕事だし、王族である殿下なら、もっともっと丁重に扱われているに違いない。
そうだ。
その部分を晒すことだって日常茶飯事のはず。
そこに不埒な思いを抱くなどと言語道断。
そしてもちろん入浴後のお手入れだって──
(え、お手入れ?)
それってアレよね。
ふかふかのタオルで殿下の全身を優しく拭き上げ尚且つマッサージしながら保湿のクリームを塗ったりするのよね。
誰が?私が?
あの身体に、私がこの手で?直に?
「ルツィエル、どうしたの」
「で、殿下……私」
「そんなところに立っていないで、一緒に入らないならそこにある椅子を持っておいで」
殿下は部屋の角に置いてある椅子を指差した。
普段湯上がり後の休息用に使っているものだ。
私は言われた通りに椅子をバスタブのすぐ近くまで動かして、そこに腰掛けた。
すると殿下は上半身を起こし、バスタブの縁に肘をついて私を見上げた。
仕草の一つ一つがあざといような可愛らしいような。
初めて見る姿に驚かされてばかりだ。
「あの……殿下、髪を洗って差し上げても?」
恐る恐る尋ねると、殿下は意外そうに眉を上げた。
「ルツィエルが洗ってくれるの?」
「駄目でしょうか」
「いや、大歓迎だよ」
縁についていた肘を下ろし、バスタブに身体を預けた殿下の髪に、手桶に汲んだ湯を少しずつかけていく。
すると、殿下が気持ちよさそうに息を吐くのが聞こえた。
(綺麗……)
星の光を撚り合わせたかのようなこの髪に、ずっと触ってみたかった。
幼いころから願い続けたことが、この一日の間に次々と叶っていく。
幸せすぎて、なんだか怖い。
すすぎ終わった髪を拭いていると、殿下が口を開いた。
「ルツィエル、帝都に戻ろう」
「帝都に?いつですか」
「もう少しゆっくりしてから……と言いたいところだけれど、これから」
「これから?ですが今コートニー侯爵領は閉鎖中で、父の許可無しには──」
そこでふと、ある疑問が頭に浮かぶ。
(殿下はどうやって領内に入ったの?)
悪魔の門とも呼ばれるコートニー侯爵領の巨大な門は、一度閉じれば領内に足を踏み入れる事は不可能だと言われている。
「あの、殿下はどうやって我がコートニー侯爵領へお入りになったのですか?」
「ん?それは……ルツィエルならよく知っているだろう」
殿下は腕を伸ばし、私の手を取った。
そして真っ直ぐに目を見つめながら、手の甲に口づける。
「妖精には行けないところなんてないんだよ」
全然答えになっていないが、殿下が言うとなんでも正解なのだと思えてしまうから不思議だ。
「せめてもう少しお休みになられた方がよろしいのでは?」
どんな時でも表情ひとつ崩さない殿下が、昨夜は意識を失うようにして寝落ちてしまった。
身体が悲鳴を上げている証拠だ。
疲労は注意力散漫を招く。
殿下の置かれた状況を考えれば、今すぐ帝都に戻るのはやめたほうがいいとしか思えない。
せめてあと一晩だけでもゆっくりできないものだろうか。
しかしお願いをしようとした唇は、あっという間に塞がれてしまった。
「……ん……っ」
ゆっくりと、口腔を隅々まで確かめるような舌の動きに、またしても正常な思考は奪われてしまう。
密室で、裸のエミル殿下とふたりきり。
殿下が唇の角度を変えるたびに、ちゃぷちゃぷと揺れるお湯の音がやけに耳に響く。
昨夜殿下から『ひとつになりたい』という言葉を聞いたあとだから、この先のことをどうしても意識してしまう。
はしたない。
けれど信じられないことに、先へ進むことを期待している自分もいる。
帝都に戻れば、これまでとは比べ物にならないほど慌ただしい日々が待ち受けているだろう。
それならばもう少しだけ、殿下をひとりじめしていたい。
殿下が私のすべてを求めるなら、なおさら──
熱を帯びていく口づけに夢中になっていると、不意に唇が離された。
名残惜しくて殿下の唇を目で追いかけると、形の良いそれが柔らかく緩んだ。
「ルツィエル、帝都に戻ったら私の宮で一緒に暮らそう」
「え……?」
『私の宮』? 聞き間違いかと思ったがそうではない。
(婚約も結んでいない身で、皇宮に住むの……?)
いや、少し違う。
『私の宮』は皇宮の中でも殿下が住まう宮殿のことを指す。
皇宮の中の一室に住まうのとは訳が違う。
「あ、あの、エミル殿下、それはさすがに……」
現在の状況から、私たちの仲を世間に公表することだって憚られるというのに、いきなり同居だなんて。
「非常識な事を言ってるのは百も承知だ。けれど、私に許されないことはない。それに……今回のように、君に万が一のことがあれば、私はどうしたらいい?」
殿下は切なげに目を細めながら、私の髪を一房掬い、口づけた。
殿下の暗殺にかかわった者たちの粛清が済むまで……いや、粛清が済んだ後もしばらくは、逃げ延びたかもしれない残党の報復を警戒し、殿下も私も身辺に十分気を付ける必要がある。
宿場での惨劇が嫌でも脳裏に浮かぶ。
殿下とその周囲の強さは本物だ。
帝国中探しても、彼の側以上に安全な場所はないだろう。
それに、殿下がそんなにも私との未来を考えてくれているというのなら、例え世間に後ろ指を差されたとしても、断る理由などない。
「わかりました。では早急に父に知らせを書きます」
「えっ?」
「まずはコートニー侯爵領の閉鎖を解いてもらいます。それと殿下の身の安全のためにも、道中の警護は万全でなければなりません。帝都に入ってからも安心はできませんから兵の派遣を──」
「ちょ、ちょっと待ってルツィエル!この件についてだが、コートニー侯爵には黙っていてもらいたいんだ」
「なぜですか?」
「今回私は、君に会うために秘密裏に行動している。ここでコートニー侯爵が大きな動きを見せれば、私の居場所を敵に知らせるようなものだ」
「ご安心ください。殿下の居場所を敵に悟らせるような下手を父が打つはずありません。それに、殿下の身の安全を考えればなおさら父の手を借り──!?」
その瞬間勢いよく殿下が立ち上がり、彫像でしか知識のない男性の下半身が、惜しげもなく目の前に晒された。
「#$%’()(’&%$#~!!!!!!」
「ルツィエル、そのタオルを貸してくれるかい?」
刺激が強すぎて、口から泡を吹きそうだった。
「あ、あの……私がお拭きします……」
消え入りそうな声しか出せない自分が情けない。
けれど殿下はそんな私を笑うことなく、拭きやすいように少し手を広げてくれた。
その部分から目を逸らしながら、ポンポンと押しあてるようにして、身体の水分を拭き取っていく。
見た目よりずっと固い胸板に、自分のものと同じ小さな突起が見えた。
ほんのりと色づくそれは、白磁の肌に落ちた花びらのよう。
本当にこの人は、美しくないところを探すほうが難しい。
思わず自分の胸を思い出しながら、女としての自信を失いそうになっていると、頭上で殿下がくすりと笑いを漏らした。
「そこばかりじゃなくて、他のところも拭いてくれると嬉しいのだが」
「も、申し訳ありません」
気付けばさっきから胸ばかりを拭いている。
慌てて後ろに回り、首から順にタオルをあてていった。
広い背中から、無駄な肉のない引き締まった腰。
そしてついにきてしまった下半身。
背が高く、足も長い殿下を隅々まで拭き上げるには、膝を折らなければ不可能だ。
(でも……そんなことしたら顔面に……顔面に殿下のお尻が……!)
「ルツィエル、それを貸して」
「え?」
言われるまま手に持っていたタオルを差し出すと、殿下はそれを受け取り、あっという間に腰に巻き付けた。
自分が拭くものだと思っていたから、なんだか肩透かしをくったようで気が抜ける。
しかしそこでハッとする。
(これじゃまるで、下半身が拭けないことを残念がっているみたいじゃない!)
煩悩よ飛んで行けとばかりにぶんぶんと頭を振る。
「あの、殿下。お着替えなのですが……」
適当なものをすぐ用意するように言ったが、なにしろ急なことなので、おそらく満足なものは用意できていないだろう。
仕立ての面から言えば、父のものを使ってもらうのが一番だが、背丈が違いすぎる。
「ああ、それなら心配いらない。ラデクが持ってるから」
「ラデク様が?」
ラデク様といえば、あまり表には顔を出さないことで知られる殿下の側近中の側近。
私も実際にお会いしたのは数えるほどしかない。
「一緒にいらしているのですか?でも、いったいどこに──」
殿下はついておいでと言うように、顔だけこちらに向けて微笑み、浴室を出た。
着いた先は昨夜殿下を迎え入れたバルコニー。
タオルを腰に巻いただけの殿下が眩しすぎて目が潰れそうだ。
「ラデク、着替え」
何処ともなく殿下が声を発すると、突如目の前に黒装束の男が現れた。
言っておくがここは二階、しかも警備の者がちゃんと配備された建物の二階だ。
男は胡乱な目を向けながら、手に持っていた衣類と思しきものを差し出した。
受け取りながら、殿下は無表情で男に問い掛ける。
「なんだその目は」
「不届き者を見る目です」
黒装束姿の時の殿下と同じように、厚手の布地で顔を覆っていた男は、殿下の後ろに立つ私を見た途端、布を外し顔を晒して跪いた。
「お久しぶりでございます、コートニー侯爵令嬢」
「お久しぶりです、ラデク様。私のことはどうぞルツィエルと。あの……今までいったいどちらに?」
皇太子殿下が単独行動なんてありえない。
お忍びというのなら、あの日宿場にいた彼直属の精鋭部隊を連れてきているはず。
しかし屋敷の者からは、殿下の従者についてなにも報告を受けていない。
呼んだらすぐ現れるということは、警備の目をかいくぐり、ずっと邸内に潜んでいたということか。
(黒装束隊恐るべし……!)
邸内に侵入していたことが後ろめたいのか、ラデク様は私の質問に答えなかったが、その代わりに意外なことを口にし始めた。
「コートニー侯爵令嬢……いえ、ルツィエル様」
「は、はい!」
「私にも年頃の娘がおりまして、コートニー侯爵のお気持ちが痛いほどわかるのです。なので、どうしてもお伺いしておかなければならないことがございます」
「はあ……」
なにやらお父さまの気持ちを慮ってくれているようだが、私に聞きたい事とはいったいなんだろう。
続く言葉を待った。
「今回のご開通は、きちんと合意の上でしょうか」
「ご、ご開通!?」
開通とは穴が開くということであり、穴とは──穴とは!!
「合意の上でのご開通でしたら何も申し上げることはございません。しかし、そうでないのでしたら遠慮なくこのラデクにご相談ください。迅速丁寧に殿下の愚行を陛下、そしてコートニー侯爵へお伝えいたします」
「あ、あの、ラデク様?」
「疲労困憊を装い、真夜中に淑女の寝室へ入り込もうなどという不届きな輩は誰であろうと問答無用で一刀両断せねば──」
(一部始終を見てたのですか!?)
昨夜の殿下とのやり取りを思い出し、顔が熱くなる。
しかし今は恥ずかしがっている場合ではない。
せっかく心が通じ合えたというのに、一刀両断されてはたまらない。
私は慌てて口を挟んだ。
「合意の上です!合意というかその……昨夜はご心配されているようなことはなにもありませんでした!」
『なにもなかった』とはいささか言い難い一夜だったが、ご開通はしていない。
しかしラデク様は私の答えに若干驚愕したような表情を見せた。
殿下はそれを見て呆れたようなため息をついたあと、私を優しく抱き寄せた。
「不躾な男ですまないな。だがルツィエル……『なにもない』とは、少し淋しいな。私にとってはとても特別な夜だったのに」
滑らかな手の甲が、優しく頬を撫でる。
「ラデク、出発の準備をしておけ。あと半刻ほどで出発する」
「半刻?そんなに早くですか」
帝都までは数日かかる。
いくらなんでも着の身着のままというわけにはいかない。
「心配いらない。ルツィエルは私の側にいてくれればそれでいい」
結局。
殿下の言葉と笑顔に押し切られた私は、半刻後、なにも持たずに馬車へと乗り込んだのだった。
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