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しおりを挟む久し振りに足を踏み入れる王宮からは、まだ血の匂いがした。
それもそのはず、回廊のあちこちには壁や床に血飛沫を吸った形跡があり、時間が経ったものからそうでないものまでくっきりと残っていた。
エウレカの軍隊が上陸し、エドナ兵を退ける際も、ここで少なくない血が流れたのだろう。
「……すみません……できればこういった光景はお見せしたくなかったのですが」
シャロンは目を伏せながら、首を横に振った。
「どんなに辛くとも受け止めなければなりません……すべて私たちのせいですから」
父王がエドナを裏切らなければ決して起こらなかったであろう惨劇。
しかしマヌエルはそれに異を唱えた。
「本当にそうでしょうか」
「え……?」
「私には、例えあなたがエドナに嫁いでいたとしても、同じ事が起きたのではないかと思います」
セシルが予定通りシャロンを娶っていたとしても、いずれこの地を蹂躙していた……?
マヌエルがそう言う根拠はいったい何なのだろう。
だが、それを聞く勇気は今のシャロンには無かった。
疲れて、思考も鈍っていたからだ。
「……彼ら──エドナの代表に名乗らなくてよろしかったのですか……?」
シャロンは、イゴルたちエドナ兵に対し最後までマヌエルが名乗らなかった事を不思議に思っていた。
もし彼が最初に名乗っていたら、彼らの対応はまったく違ったものになっていたはず。
「人の性根を知るには身分を明かさないのが一番です。お陰で腹立たしい思いはしましたが、これから交渉する相手を見極める事ができました」
柔らかく微笑むマヌエルは、相変わらず掴みどころのないというか、不思議な人だ。
シャロンが彼と顔を合わせたのは過去に数度しかなく、それも挨拶程度の会話しかした事がない。
けれど記憶にある彼は常に柔らかな微笑みを湛えていて、誰にでも分け隔てなく優しかった。
いつも損得勘定で動く計算高い父の元で育ったシャロンは、こんな王族もいるのだと感心したほどだ。
「あの……父は今どこに……?」
「ご家族は全員保護しております。後で皆さまのもとへご案内しましょう」
「……ありがとうございます」
会いたいかと言われると複雑な気分で、ただ礼を言うことしかできなかった。
「湯殿の用意をさせてあります。どうぞ旅の疲れを癒やしてください」
「ですが……私だけそんな贅沢は……」
疲労はもう限界まできていたし、宿場ではろくに身体を清めることもできなかったから、素直に甘えたい気持ちはある。
けれど先ほど会ったロートス兵たちの顔が浮かび、とてもそんな気にはなれなかった。
「あなたに会えた瞬間の彼らの顔を見ましたか?皆、今日まであなたの無事をただひたすらに案じていた。だから彼らのためにも、今はあなた自身を甘やかしてあげてはくれませんか」
ロートスを奪還して以降、兵士たちもちゃんと食べて寝ているから大丈夫だと、マヌエルはシャロンを安心させるように告げた。
「……マヌエル殿下のお心遣いに感謝いたします。あの……もしご存知でしたら教えていただきたいのですが」
「私に答えられる事でしたら何でも」
「……侍女たちは……生きているのでしょうか」
シャロンは声を震わせた。
あの日、セシルに連れ去られる直前、室内にはシャロン専属の侍女たちがいた。
皆長い間誠心誠意尽くしてくれた者たちばかり。
あの者たちはどうなったのだろうと、心のどこかでいつも考えていた。
すると、マヌエルの足がある扉の前で止まった。
「その答えはご自分の目で確認された方がいい」
マヌエルはエスコートの手をそっと外し、目の前の扉を開け放った。
そこには再び見覚えのある者たちの顔が。
「ああ、あなたたち……本当に良かった……!」
そこに控えていたのは、あの日別れた侍女たちだった。
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