妾の嫁入り

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 「紫乃しの、おまえを水無瀬家にやることにした」

 普段は立ち入ることの許されない、古川家ふるかわけ本邸ほんてい母屋おもやに突然呼び出された紫乃は、父の書斎に入るや否や、予想もしなかった言葉を告げられた。

 「あの、『やる』とはどういうことでしょうか」

 まるで物を扱うかのような言い方は、父が平素から紫乃の存在をどのように認識しているのかをうかがわせる。

 「なんでもあちらさんは、若くて健康な女を探しているとか。紫乃、おまえももう二十歳だろう?丁度いい話だと思ってな」

 父の口調は、世間話でもするかのように軽い。

 「『あちらさん』とは、どなたのことでしょうか」

 「深川の、水無瀬みなせ家だ」

 水無瀬家といえば、深川木場ふかがわきばに店舗と屋敷を構える材木商だ。
 紫乃も名前だけは知っている。

 「それでは私は、使用人として水無瀬家へご奉公ほうこうに上がるということでしょうか」

 「ん?いやまあ、その、なあ。はは」

 父はとぼけたような顔をして、急に歯切れが悪くなった。
 良い予感はしなかった。

 「めかけが欲しいんだと」

 「妾……!?」

 水無瀬家の当主は、確か父よりも年上ではなかったか。
 父は動揺どうようする紫乃を黙殺もくさつし、躊躇ためらうそぶりすら見せずに続けた。

 「安心しなさい。あちらはこの先一生、食うに困らぬ生活を保証すると言ってくれている」

 紫乃の母は、父のめかけだった。
 だからかえるの子は蛙、妾の子は妾になるのが当たり前だとでも思っているのかのような口ぶりに、嫌悪感けんおかんいだかずにはいられなかった。
 年頃を迎えた庶子しょしである紫乃は、この家にとって、もはや邪魔者でしかないのだ。


 大正時代。
 東京では近代化が進み、大衆文化が花開いた。
 都市部ではモダンな建築やファッションが流行し、カフェやダンスホールといった娯楽施設ごらくしせつも増え始めた。
 洋装に断髪、西洋文化の影響を受けた装いのモダンガールと呼ばれる職業婦人が加速度的に増加する一方で、女性の社会的地位はまだまだ低かった。
 庶民の生活はきびしく、食事を出してもらえるだけでもありがたいと、住み込みで奉公する娘も多かった。
 しかしそうそう都合よくいい働き口が見つかるわけでもなく、妾にでもならなければ生きていけない女性も多かった。
 この時代、売春すら合法だったのだ。

 紫乃の母親は名を「市笑(いちえみ)」といい、東京六花街とうきょうろっかがいのひとつ、神楽坂かぐらざかで名の知れた芸妓であった。
 とある日のお座敷で、ひときわ輝く彼女を見染めたのが紫乃の父親──丁稚奉公でっちぼうこうから身を起こし、今では東京屈指の金融業者に名を連ねる古川栄一である。

 栄一には既に、正妻──君江きみえと、三歳になる息子──幸一こういちがいた。
 しかし、市笑にすっかり熱を入れ上げた栄一は、家族の反対を強引に押し切り、古川本邸の敷地内に彼女を囲うための離れを建て、住まわせてしまったのだ。
 二年後、市笑は女児を出産し、産まれた子は『紫乃』と名づけられた。
 妾とはいえ、母娘に与えられた離れは内装から家具に至るまで、ぜいを凝らした造りであった。
 栄一は、週の半分ほどを母屋で過ごし、あとは離れで暮らす母と紫乃の元にやってきた。
 幼い紫乃は、なぜ自分たちが離れに住んでいて、父が毎晩家にいないのかを不思議に思っていた。
 母に聞いてみると、私たちは父にとっては二番目の家族だけれど、一番なのだという答えが返ってきた。
 二番目なのに一番とはどういう意味なのだろう。
 不思議に思ったが、今思うとあれは、母の正妻に対する「私の方が愛されている」といった一種の優越感だったのではないかと思う。

 離れを訪れる父の手にはいつも、母と紫乃への贈り物である洋服やぬいぐるみ、お菓子といったお土産が握られていた。
 父と母はとても仲睦まじく、紫乃をたくさん可愛がってくれた。
 何不自由ない暮らしに、両親から向けられる溢れんばかりの愛。
 紫乃は幸せだった。
 母が亡くなるまでは──

 紫乃が十歳の時、母は病でこの世を去った。
 それから紫乃の生活は一変した。

 まず、紫乃の暮らす離れから、これまでずっと働いてくれていた使用人がいなくなった。
 そして、母屋から日に三度運ばれてくる食事は二度になり、やがて一度になった。
 炊き立ての白米に一汁三菜だったお膳も、雑穀や芋、麦の混ぜられた水同然の雑炊に変わった。
 すべては父の正妻である君江の嫌がらせだった。
 母の死後、君江はこれまでの鬱憤を晴らすかのように紫乃につらくあたった。
 あれほど紫乃を可愛がってくれた栄一は、君江の仕打ちから一切庇ってはくれなかった。
 それどころか、紫乃がひとりで暮らす離れを訪れることもなくなった。
 なぜ父は会いに来てくれないのだろう。
 寂しくて悲しくて、ただ父に会いたい一心で母屋を訪ねてみたが、その都度追い返されてしまう日々。
 (なぜこんなことに)
 理由もわからず泣き暮らしていた紫乃も、今なら理解できる。
 父は紫乃を愛していたわけではない。
 ただ単に、母の機嫌を取るためだけに紫乃を可愛がり、贅沢をさせていただけだったのだ。

 そして、唯一血の繋がった家族である父からも存在を無視されたまま、紫乃は二十歳になった。

 「なあに、必要なものはちゃんと揃えてやるからな。お前は何も心配することはない」

 一方的に喋り終えると、父は満足げな顔で紫乃に下がるよう命じた。
 (なんて勝手な人だろう)
 親子の情なんて欠片かけらもない。
 けれど紫乃には、どんな理不尽も黙って飲み込むしか選択肢はない。

 わが身の境遇をこれほど恨めしく思った日はなかった。



 
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