16 / 18
16
しおりを挟む翌々日、キヨが運んできた夕餉の膳にはおまけがついていた。
漆塗りの盆に載せられた徳利とお猪口だ。
膳の内容もいつもと少し違って、濃いめに味付けされた、いかにも酒に合いそうな料理がのせられている。
「お言葉に甘えて、今夜はいただきます」
浴衣に着替えた瑛久が、ちょっとだけ申し訳なさそうに微笑んだ。
「私のことは気になさらないでください。あの、お注ぎしますね」
徳利を持つと、ほんのりと温かい。
瑛久は『温燗が好きなのだ』と教えてくれた。
紫乃は差し出された猪口に、両手で持った徳利をゆっくり傾けた。
「ありがとうございます。注ぐのがお上手ですね」
一瞬、芸妓の母を持つ紫乃への嫌味かと勘ぐってしまった。
けれど瑛久の口調からは、侮蔑の意は感じられない。
瑛久は注がれた酒をくいっと呑み干すと、整った顔を綻ばせた。
「……美味い」
綺麗な笑顔に紫乃の胸がどくんと跳ねた。
「あの、どうぞ」
「ありがとう」
再び満たされていく猪口を、瑛久は微笑みながら見守っていた。
「確か古川様もかなりお酒が強かったと記憶しています」
以前なにかの集まりで父と呑んだことがあるという瑛久は、思い出すような仕草を見せた。
「そうですね。父はとてもお酒が好きでした……小さい頃は母の真似をして、よく父にお酌をしたものです。おままごとをしているようで楽しかったのを覚えています」
「仲の良いご家族だったのですね」
「そうですね……母が死ぬまでは」
そんなことを言うつもりではなかったのに、ついうっかり口が滑ってしまった。
慌てて瑛久の様子を伺うと、しっかり聞こえていたようで、真面目な表情で紫乃を見つめていた。
「す、すみません。お酒が不味くなるような話を」
「紫乃さん」
「はい」
「よければ、話してもらえませんか」
「なにを……ですか?」
「あなたがこれまでどんな風に過ごされてきたのか」
紫乃は、真っ直ぐな瑛久の視線から逃れるように俯いた。
これまでの人生、幸せだったのはほんのいっとき。
突然存在しないもののように扱われ、寂しくて、いつもお腹が空いていてひもじかった。
そんな惨めな生い立ちを瑛久に知られるのは恥ずかしくて嫌だった。
輝かしい人生を送ってきたのであろう瑛久と、学もなく、ただ施しを待つだけの日々を送ってきた紫乃の生い立ちは、あまりにも違いすぎる。
「あの……私……その……」
「紫乃さん」
瑛久は手に持っていた猪口を膳の上に置き、紫乃と向かい合う。
「私は最初、古川様からこのお話をいただいた時、あなたのことを何不自由なく育たれたお嬢さんだと思っていました。……妾との間にできた子といえど、大切にされている方はいらっしゃるので」
瑛久がそう思うのも当然だ。
何不自由なく──とまではいかなくとも、血を分けた娘だ。
まともな親であれば、決して子を飢えさせるような真似はしない。
「ですが今の発言から、おそらく生家はあなたにとって居心地の良い場所ではなかったのではと推察しました」
「……その通りです」
勇気がなくて、それ以上言葉が続かない。
日に一度与えられる粗末な食事を渇望し、薄暗い部屋の中でなにをするでもなく、ただ時間が過ぎるのを待っていた。
仮にも自分の子を産ませようとしている女がそのような境遇で育ったと聞けば、やはり別の者をと考えを改めるかもしれない。
ここを追い出されたら、生きていく術をなにも持たない紫乃は、野垂れ死ぬのが関の山だ。
「紫乃さん」
優しい声が、改めて紫乃の名前を呼んだ。
たったそれだけのことなのに、鼻がツンとして、目頭がどうしようもなく熱くなる。
「例えどのような身の上であろうと、私はあなたを蔑んだりしません。生まれる場所は誰にも選べない。あなたに罪はありません」
「瑛久さま……」
「もしも罪を問われるとしたら、妾の子として生まれたあなたに御母堂と同じ道を歩ませようとしている私の方だ。本当に……本当に申し訳ない」
瑛久が初めて見せる苦悩の表情に、これまでの葛藤がどれほどのものかうかがえる。
瑛久が紫乃を妾に望んだのは至極身勝手で、女性の尊厳を無視した理由だ。
けれど彼は、女性が軽視されるのが当たり前の世の中であるにもかかわらず、紫乃をひとりの人間として尊重しようとしてくれている。
その証拠に、芸妓上がりの妾である母を『御母堂』と敬意を込めて呼んでくれた。
優しいけれど、悲しい人。
立場も境遇も、なにもかもが違う自分たちは、お互いの心を真に理解し合うのは難しいだろう。
けれどこの人となら、悲しみを分かち合うことはできるかもしれない。
「瑛久さま」
「はい」
「私のこれまでをお話しても、変わらずにいてくださいますか……?」
頼る人が誰もいないこの水無瀬家で、瑛久との時間だけが紫乃の心の拠り所だ。
それなのに、真実を話して瑛久にまで軽蔑され、嫌悪の目を向けられたら、紫乃はもうここにはいられない。
「私はどうしようもなく利己的な人間です。妾を迎えることを提案したのは父ですが、私が子をもうけることですべてが解決するなら……この問題から解放されるならなんだって構わないと、妻を傷つけることすら厭わなかった。こんな浅ましい考えの私をあなたは軽蔑しますか?」
「……しません……いえ、できません」
瑛久の辿ってきた道を紫乃はなにも知らない。
悲しみも苦しみも、その人だけのもの。
例え誰であろうとも、軽々しく口を挟んではならない。
「私も同じです。だから、今すぐすべてを打ち明けて欲しいなんて傲慢なことを言うつもりはありません。少しずつでいい。教えてください、あなたのことを」
「……はい、瑛久さま」
217
あなたにおすすめの小説
幼馴染の許嫁
山見月あいまゆ
恋愛
私にとって世界一かっこいい男の子は、同い年で幼馴染の高校1年、朝霧 連(あさぎり れん)だ。
彼は、私の許嫁だ。
___あの日までは
その日、私は連に私の手作りのお弁当を届けに行く時だった
連を見つけたとき、連は私が知らない女の子と一緒だった
連はモテるからいつも、周りに女の子がいるのは慣れいてたがもやもやした気持ちになった
女の子は、薄い緑色の髪、ピンク色の瞳、ピンクのフリルのついたワンピース
誰が見ても、愛らしいと思う子だった。
それに比べて、自分は濃い藍色の髪に、水色の瞳、目には大きな黒色の眼鏡
どうみても、女の子よりも女子力が低そうな黄土色の入ったお洋服
どちらが可愛いかなんて100人中100人が女の子のほうが、かわいいというだろう
「こっちを見ている人がいるよ、知り合い?」
可愛い声で連に私のことを聞いているのが聞こえる
「ああ、あれが例の許嫁、氷瀬 美鈴(こおりせ みすず)だ。」
例のってことは、前から私のことを話していたのか。
それだけでも、ショックだった。
その時、連はよしっと覚悟を決めた顔をした
「美鈴、許嫁をやめてくれないか。」
頭を殴られた感覚だった。
いや、それ以上だったかもしれない。
「結婚や恋愛は、好きな子としたいんだ。」
受け入れたくない。
けど、これが連の本心なんだ。
受け入れるしかない
一つだけ、わかったことがある
私は、連に
「許嫁、やめますっ」
選ばれなかったんだ…
八つ当たりの感覚で連に向かって、そして女の子に向かって言った。
好きな人がいるならちゃんと言ってよ
しがと
恋愛
高校1年生から好きだった彼に毎日のようにアピールして、2年の夏にようやく交際を始めることができた。それなのに、彼は私ではない女性が好きみたいで……。 彼目線と彼女目線の両方で話が進みます。*全4話
【完結】深く青く消えゆく
ここ
恋愛
ミッシェルは騎士を目指している。魔法が得意なため、魔法騎士が第一希望だ。日々父親に男らしくあれ、と鍛えられている。ミッシェルは真っ青な長い髪をしていて、顔立ちはかなり可愛らしい。背も高くない。そのことをからかわれることもある。そういうときは親友レオが助けてくれる。ミッシェルは親友の彼が大好きだ。
【完結済】25年目の厄災
紫
恋愛
生まれてこの方、ずっと陽もささない地下牢に繋がれて、魔力を吸い出されている。どうやら生まれながらの罪人らしいが、自分に罪の記憶はない。
だが、明日……25歳の誕生日の朝には斬首されるのだそうだ。もう何もかもに疲れ果てた彼女に届いたのは……
25周年記念に、サクッと思い付きで書いた短編なので、これまで以上に拙いものですが、お暇潰しにでも読んで頂けたら嬉しいです。
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
※作者創作の世界観です。史実等とは合致しない部分、異なる部分が多数あります。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体等とは一切関係がありません。
※実際に用いられる事のない表現や造語が出てきますが、御容赦ください。
※リアル都合等により不定期、且つまったり進行となっております。
※上記同理由で、予告等なしに更新停滞する事もあります。
※まだまだ至らなかったり稚拙だったりしますが、生暖かくお許しいただければ幸いです。
※御都合主義がそこかしに顔出しします。設定が掌ドリルにならないように気を付けていますが、もし大ボケしてたらお許しください。
※誤字脱字等々、標準てんこ盛り搭載となっている作者です。気づけば適宜修正等していきます…御迷惑おかけしますが、お許しください。
【完結済】ラーレの初恋
こゆき
恋愛
元気なアラサーだった私は、大好きな中世ヨーロッパ風乙女ゲームの世界に転生していた!
死因のせいで顔に大きな火傷跡のような痣があるけど、推しが愛してくれるから問題なし!
けれど、待ちに待った誕生日のその日、なんだかみんなの様子がおかしくて──?
転生した少女、ラーレの初恋をめぐるストーリー。
他サイトにも掲載しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる