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しおりを挟む少しひんやりとした手。
私はエリアス王子の視線から逃れるように目を閉じ、暗闇の中でその時を待ちました。
──視る事ができるかしら……
ですが心配は無用でした。
いつものように眩い光が暗闇を消し去ります。
視えたのは……上機嫌な様子でグラスを傾ける父上と、笑顔で向かい合うエリアス王子。
『いやぁ、いい婿を迎えられて私は幸せだ』
──婿……では、これは私とエリアス王子が結婚した後の光景ですね
だらしなく……とはいかないまでも、相好を崩す父上は随分と飲んでいるようです。
普段、お酒は嗜む程度の父なので、これは非常に珍しい光景です。
『そんな……幸せなのは私の方です。心から愛するアンネリーエの夫になれただけでなく、こんなに素晴らしい方の息子になる事ができたのですから』
『嬉しい事を言ってくれる。私には娘しかいないからね。息子という存在がこんなに頼もしいものだとは知らなかったよ』
家族以外に父がここまで気を許す姿なんて初めて見ます。
しかもエリアス王子ったら、父の前で私の事を“心から愛するアンネリーエ”だなんて……
まるで、絵に書いたような幸せな夫婦、そして家族関係ではありませんか。
あんなに嬉しそうな父の顔を見ていると、何だか複雑な気分になります。
ですがここで名残惜しそうな父を残し、エリアス王子は退室しました。
彼が向かったのはよく見覚えのある扉。
ええ、今私たちのいるこの部屋の扉です。
『アンネリーエはもう寝たかな?』
深夜にも関わらず、頭のてっぺんからつま先まで微塵の乱れも見られない侍女が、すぐさま彼を出迎え、ほんのりと頬を赤く染めながら答えます。
『アンネリーエ様は遅くまで読書をされておりましたが、先ほど寝室の方に……』
『そうか、ありがとう』
『あ、あの……エリアス殿下!御酒でもお持ちいたしましょうか?』
勇気を振り絞るようなその様子から、侍女が彼に何らかの想いを寄せているのは一目瞭然です。
『いや、酒ならもう充分飲んだから』
穏やかに微笑んではいますが、温度を持たないその視線は、彼の言わんとする事を如実に物語っています。
主の心の機微に敏くなければならない立場であるにも関わらず、暗に“下がれ”と言わせてしまった侍女は慌て、顔色はみるみる青ざめていきます。
『さ、差し出がましい事を申し上げました……どうぞごゆっくりお休みなさいませ……』
肝の冷える思いをしても尚、名残惜しそうに振り返りながら出て行く侍女。
しかしエリアス王子はそれに気付いているだろうに、見向きもしませんでした。
──これだけあからさまに秋波を送られれば、安易に手を出す男性も多いでしょうに……
そう思うのと同時に、この天使のような方でもあんなに冷たい顔をする事があるのだと、素直に驚きました。
──もしかしたら彼は、私が思うよりもずっと誠実な人なのかもしれない
ですが、婿としてサルウィン王家に入ったばかりの彼が、醜聞を恐れて慎重に行動しているという可能性も無きにしもあらず……それに、彼ほどの美しさならこのような事日常茶飯事でしょうし、ただ単に慣れているだけとも思えます。
それに、王宮に侍女は大勢勤めていますから、いちいち手を出していたらきりがありません。
エリアス王子は寝室の扉を音を立てないように静かに開けました。
既に寝ているであろう私を起こさないように、気を遣ってくれているのでしょう。
『……アンネリーエ?』
毛布を捲り、寝台に身体を滑り込ませた彼は何かに気付いたように、横向きで眠る私の背に声をかけました。
『起きているの?』
美しい手が伸ばされ、そっと肩に触れると横になる私の身体が少しだけ強張ったのが見えました。
──どうしたのかしら?
喧嘩でもしていて気まずいのでしょうか。
けれどエリアス王子からはそんな雰囲気は感じられません。
『……ああ、やっぱり起きていたの。淋しかったんだね。ここのところ夜を一緒に過ごせなかったから……アンネリーエ、こっちを向いて』
促され、ゆっくりとエリアス王子を振り返った自分の顔に衝撃を受けました。
『エリアス様……』
目を潤ませ、拗ねた幼子のような表情を向けているのは間違いなく私なのですが、信じられませんでした。
私はとても聞き分けの良い子どもでしたから、幼少期にもこのような態度を他人に向けた憶えがありません。
『そんな顔をしないで。さあ、おいで』
私は少し躊躇う素振りを見せながらも、大人しくエリアス王子の腕の中に収まりました。
『ごめんね……けれど早く陛下に頼りにしてもらえるようになりたくて』
『それならもう充分です。父上ったら、毎日上機嫌ですもの』
『アンネリーエ、私は義姉上にも幸せになってもらいたいんだ。私たちのようにね』
姉の幸せと父上の上機嫌に何の繋がりがあるというのでしょう。
私もそうですが、未来の私も、その表情を見る限り、彼の言わんとする事がわかっていません。
『義姉上にも私たちのように心から愛する人と幸せになってもらいたい。そうは思わない?』
『それは……そう思います……でも、だからといってエリアス様がそんなに無理する必要は──』
『無理なんかじゃないよ、アンネリーエ』
私の言葉を遮るように彼は言います。
『だからこそ、私が王位を継ぐに足る人間であると周囲に認めて貰わなければ』
──王位を継ぐ?彼が?
確かに彼が次の王になるのであれば、姉は自分の意思で好きな方に嫁ぐ事ができるでしょう。
ですが姉の幸せのためとはいえ、赤の他人の彼が何故そこまで?
『君を愛してるから……君の周りのすべての人を幸せにしたいんだ』
『エリアス様……』
感極まった様子で静かに涙をこぼす私。
彼は手を伸ばし、白く長い指で涙の跡を拭うと、優しく口づけました。
触れるだけのそれはやがて食むような触れ合いに変わり、深く重なり合います。
角度を変えるたびに隙間から漏れ聴こえてくる音で、彼が私の口腔をどうしているのかが想像され、思わず身を捩りたくなるような羞恥に襲われます。
「ん……っ……」
苦しいようなそうでないような鼻にかかった声。息づかいの乱れから、私の余裕の無さがうかがえます。
『エリアス様、明日も早いのでは……?』
口では彼を心配しながらも、その瞳はこの先を期待していました。
『いいんだよ。今夜はアンネリーエを甘やかしてあげたい。淋しい思いをさせた分、たっぷりと』
“たっぷりと”
ゴクリと喉を鳴らした私に、エリアス王子は妖しくも美しく微笑んだのです。
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みんなの感想(67件)
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更新、ありがとうございます。
お元気ですか?
体調を崩されていたと前回のお返事で書かれていたので……。
“作者様の心身大事!”
作者様がいる限り物語の続きがが読めると思っているので続きは待てます。
ご無理の無い更新でいいです。
これからも応援させて下さいね。
sivaress様(*´꒳`*)お久しぶりです♡
相変わらず遅筆病が治りません_| ̄|○ガックリ・・
咳も相変わらずですが、この季節後遺症なのか花粉症なのか、それともあわせ技なのか、よくわからなくなってきました……笑
心身、本当に大事ですよね。
温かい励ましのお言葉にクマ奮起💪✨
身体を大切にしながら頑張りたいと思います!
本当にありがとうございました♡
エリアス、胡散臭いなぁ…
しっかりその先まで見ることができますように(-人-〃)祈
クマ様
私も例の感染症の後、半年近く後遺症に悩まされました
くれぐれも無理のないようになさってくださいね
はらり様(*´꒳`*)こんばんは〜♡
ご無沙汰しております💦
そして励ましのお言葉、本当にありがとうございます!
さっぱり筆が進まない病はまだまだ治ってくれず……皆さんのお暇な時間に楽しんで貰えるようなお話をたくさん書きたいという気持ちだけは山盛りなのですがなんとも……(TT)
ですが、ゆっくりでも書き進めていきます!
エリアスの胡散臭さもそろそろ最高潮。ハロルド〜早く帰っておいで〜って言いながら書いてます笑
更新ありがとうございます♪
何だかこの王子が、某鬼娘がヒロインの漫画に出てくる“◯星あたる”にしか見えなくなってきた……(-ω-;)
(ヤル為なら弁がたつ所とか……(^◇^;))
sivaress様こんばんは(*´꒳`*)
“ヤル為なら弁が立つ……”に爆笑させていただきました笑 確かにエリアス、その通りかもしれません。
最近更新もお返事も遅れてばかりで申し訳ありません。実はこの連載当初コ○ナウイルスに罹患しまして……高熱でも根性で連載止めずになんとか治したのですが、治ってからというもの文章がさっぱり頭に浮かばなくて。コレ、後遺症のブレインフォグとかいうやつなのかなと。まだ咳も続いており、体調の悪い日々です。
なるべく早く次話もお届けできるよう頑張りますね!