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998年目

19 波乱 ※エリサ

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 ※※※ エリサ ※※※



「牢屋に行けばいいのかな」

―――行かせない

無意識に身体が動いていた。
それが自分だけでなく、成り行きを見ていたこの屋敷の全ての人間だと認めて胸が熱くなった。

しかしチヒロ様はきょとんとした顔で言った。

「どうしたの、みんな」

―――チヒロ様っ!


「はは……面白い『空の子』様が降りていらしたものだ」


それまで黙していた王宮医師が静かに言った。
チヒロ様はドアの前に立つ屋敷の者達から、近くに立つ王宮医師へ視線を移した。

「……安心して下さい。貴女は確かに特効薬を飲んだ。だが、吐いてしまった。
その通りだ。私が証言しましょう。
《誤って》吐いた貴女を罪に問いはしません。
――もちろん《吐かれた》テオくんもね」

ひゅっと喉が鳴った。

チヒロ様が「吐いただけ」と言った意味を、ようやく正しく理解して背中が寒くなった。
そうだ。あの特効薬を平民が飲めば……。

見習い医師が何か言いかけたが、笑顔の師の前に黙った。

しかし王宮医師の続く言葉は鋭い。

「しかし思いきったことをなさいましたな。
これで貴女の分の特効薬は無くなってしまった。
もし貴女や、ここにいるどなたかに死病がうつっていても、もう特効薬はありませんよ?」

チヒロ様はうなずいて。それから周りをぐるりと見まわすと断言した。

「でも大丈夫。私にも、他の誰かにもうつってない」

ほう、と王宮医師の目が光る。

「何故言い切れるのですか?」

「……うーん……勘?」

「………勘……?」

「うん。でも多分、全員大丈夫」

チヒロ様の言葉が信じられないのだろう。
王宮医師は訝しげに目を細め、なおもチヒロ様に問う。

「……ではもしも、にしましょう。
もしもこの先、貴女が死病に罹ってももう特効薬をお渡しすることはできません。
それがどういう意味か、貴女はわかっているのですね?」

「はい」

王宮医師は首を傾げた。

「随分と簡単に頷かれますな。
……ご自分が死病に罹ったなら、貴女はどうするおつもりなのですか?」

「もちろん、また貴方に診て欲しいとお願いします」

けろりと即答された王宮医師は目を丸くし、そして苦笑した。

「軽く返答されるわけだ。まさか私にどうにかできるとお思いとは」

「どうにかしようとしてくれますよね。……貴方はとても優しくテオに触ったわ」

チヒロ様の言葉に王宮医師は一瞬言葉を失った。

そして今度は険しい表情で、厳しい言葉を紡いだ。

「……貴女はお若い。そしてこの世界に来られてからまだ僅か一年足らずだ。
ですので、はっきりと言わせていただきましょうか。
死病は滅多に罹らない病気で、うつることも稀です。
確かに今、貴女がうつっている確率も、今後、罹る確率も低いでしょう。
―――だが。
もし罹れば特効薬以外、効果のある治療法はありません。
残念ながら王宮医師の私でも……なす術がないのです。
特効薬を飲む権利のない者を死病から救うことは出来ません。
特効薬を飲ませれば助かるとわかっていながら……ただ、見送るだけだ。
……わかりますか、『空の子』様。
確かに今回のことを罪に問いはしません。
しかし貴女がおこした《奇跡》の代償は決して軽くない。
貴女は特効薬を飲む権利を《吐いた》のです。
いかに『空の子』様とはいえ《2本目》は渡せません。
この先、万一死病に罹った場合は……どうかお覚悟を。
それが貴女のなされたことの代償であり《罰》だ。よろしいですな?」

チヒロ様は身体の向きを変え、王宮医師をまっすぐ正面に据えると言った。

「それは《罰》じゃない」

「……」

「わかってる。特効薬を《吐いた》代償に、私はもし死病に罹れば助からない。
でもその代償は《罰》じゃない。
大切な友人を失わないために払った代償を《罰》だなんて誰にも言わせない」

「――」

「私が特効薬よりテオを望んだ。ただそれだけのこと。
傲慢だと言われてもいい。
それでも私は何よりも人を望む。
いつか私が旅立つ時、側にはあたたかな人にいて欲しいから。
テオにシンが、ここにいるみんなが、貴方たち医師がいたように」


王宮医師がその返事をどうとったかは知らない。

だけど私は知っている。

それはまだ若く、死というものが遠い少女の言葉ではない。

寝たきりで目ひとつ開けられなかった《自分》を知る人の言葉だ。

《自分》の、最期を知る人の言葉だ。



この人は、《前世》のことは幸せな記憶だと笑顔で言っていた。

思い出す光景の中の《自分》はたいてい笑っているのだと。

寝たきりだった人生の最期の時まで笑っていたと。

それを嘘だとは思わない。

けれど

《前世》の旅立ちの時。

側にはあたたかな人がいたのだろうか。

一人きりの、寂しい旅立ちだったのではなかったのだろうか。


求めているのだ。この人は。あたたかな人にかこまれた旅立ちを。

《自分》の、最期の時を知るこの人は。

私は、それを知っている―――――。


見開いた目から涙が溢れた。


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