上 下
194 / 197
1000年目

86 終わり ※チヒロ

しおりを挟む



 ※※※ チヒロ ※※※



前の世界では、何と言っただろう。


黄昏時
ゴールデンアワー
ゴールデンタイム
マジックタイム

《この時》を表現する言葉がいくつもあったのは、《この時》が人を魅了してやまないからだろうか。

日が沈むまでのほんの一時。
世界の全てが黄金色に染まる《この時》。

わけもなく胸が締めつけられて
何処へともなく帰りたい、と思うのは何故だろう。


王宮の森、それに連なる山々、海へと続く川。
それらを見渡せる平地には一面、稲に似た植物《ウィバ》。

《西》の、実りの季節の今。
首を垂れた《ウィバ》の穂が風に揺れている。

あと少しで地平線に沈む日が天と地、全てを金色に染める。

私を惹きつけてやまない光景。
この、ほんの数分の、黄金色だけの世界に酔う―――


いつからいたのだろう。
ふと、すぐ隣に人の気配を感じた。


ジルも気がついて私の側を離れて《その人》に向かった。
『彼』を一周し、頭をひとつ撫でてもらうと満足したように『彼』の足元に座った。


内心では、とても驚いていた。


人ではないことはすぐにわかった。
最初は木だと思ったくらいだ。

見上げるほどに高い背。
細長い身体に、細長い手足。

ぴたりと身体に密着した空色の薄い服が、余計にその人――『彼』を細く見せている。

今は陽で黄金色に染まっているが、肩で切り揃えられた髪は私と同じ漆黒に見えた。
高い位置にある顔はよく見えない。
ただ、薄い唇は穏やかな笑みを浮かべている。

「座りませんか?」

私はそう言って少しずれ、ベンチに一人分のスペースを作った。
『彼』は頷くと、私の隣に座った。

目を疑った。
私は内心また、とても驚いていた。

細いままではあったが隣に座った『彼』は普通の大人くらいになっていたのだ。
……伸縮自在なのかもしれない。

見ると、髪はやっぱり漆黒だった。瞳も漆黒。
私と同じだ。

私は嬉しくなった。

「来てくれたんですね」

私が言えば『彼』は頷いてくれた。
胸がいっぱいになった。

「あなたもこの景色が好き?」

今度はそう聞くと、『彼』は困ったように少し首を傾げた。

おかしくて笑った。
何だそれ。でもいい。

「泣きたいほど綺麗な景色でしょう?」

『彼』はまた頷き、そして言った。


「旅立ちにいい景色だ」

その声を聞いた瞬間、息が止まった。


会えたら言おうと思っていた山のような言葉は全て消えていた。

私は聞き返した。声の震えを抑えられなかった。

「……旅に出るのですか?」

「うん」

「長い旅ですか?」

「うん」

「……もう……戻られないのですか……?」

「……うん」

「……いつ……出発されるのですか……?」

「……今日。この陽が落ちたら」


自分の顔が歪んだのがわかった。

少しの沈黙のあと、『彼』は言った。


「見送ってくれないか」


私は言葉を失った。

今日まで私は、空には『空』たちが――空の住人たちが住んでいるのだろうと思っていた。

でも違う。
わかってしまった。


空にいたのは『彼』、ひとりだ。


そうでなければ。
『彼』に仲間がいたならば、
最期の時に地上に来て、私に見送りを頼む必要もない。


――― 『彼』は、たったひとりで空にいたのだ ―――


いつから?

どうして、そんな―――――


私は一度うつむくと言葉を飲み込んだ。

それから顔を上げて――笑顔を作ると、『彼』の爪のない手を取った。
『彼』は一瞬、躊躇ったようだったが私の手を握り返してくれた。

体温がひとつになる。
私たちを黄金色の陽が包んでいる。

「ありがとう……来てくれて。私を《生んで》くれて」

ほんの僅かな時間しか一緒にいられない。
どうしても言いたかった言葉だけを伝える。

そしてそのまま『彼』と黄金色の景色の中にいた。
日が落ちてしまうまでの、短い時間を二人で過ごす。

笑って見送ろうと思った。

残り時間はほんの僅かだ。

悔いのないようにしたい。
最期に、『彼』に未練を残させてしまうのも嫌だ。


ううん。


違う。
見送りたくなんかなかった。

触れあう手の、ひとつになった体温がたまらなく愛しい。
失くしたくない。

いってなんか欲しくない。
でも、もう―――――

痛いほどに湧き上がる焦燥をどうにも出来なくて
『彼』の手を握る手に力が入る。

このままとけてしまえたらいいのに。
ーーーひとつになれたらいいのに。

叫びたいのを必死にこらえる。


それでも時は残酷で

すぐに《その時》はやってきた。


地平線に日がのみこまれる瞬間、私はたまらず口を開いた。



肩に『彼』の頭が乗り

『彼』が私に囁いた。

「幸せに」

「―――――」

『彼』と目が合う。

白目のない瞳。
私と同じ漆黒の瞳は凪いでいた。

私は―――

日が地上に溶けて消える瞬間、私は最期のひとことを伝えた。


「良い旅を」


私の中の、ありったけの想いを込めて。


『彼』に触れていた手は支えを失い力なく落ちた。

落ちた日を追うように立ちあがろうとして……地面に膝をついた。
そのまま崩れるようにしゃがみ込む。

私は……笑えていただろうか。




記憶の中の、声を、言葉を思い出す。


おはよう
今日はいい天気だよ
今日はね……
おやすみ


あれは前世の記憶だと思っていた。
前世の《私》の《終わりごろ》の記憶だと思っていた。


おはよう
今日はいい天気だよ
今日はね……
おやすみ


何度も何度も
動けない私に向けて繰り返される言葉。


……柔らかい声。


とても幸せな記憶。
私は、とても、好きだった。


そして

《最期》の時に贈られたのだと思っていた。
《看取り》の言葉だと思っていたのだ。


――「良い旅を」――


あれは多分、三年前。
私を《王家の森》の祭壇に降ろす時に贈ってくれた言葉だったのだろう。


今日、『彼』の声を聞いてようやくわかった。


あれは前世の《私》――《千尋》の最期の記憶じゃ、ない。

今の、私の――『チヒロ』の、一番はじめの記憶だったんだ。


とんだ勘違いだ。


前世の《私》がとても幸せな生涯だったと思えた理由は、あの声の存在が。
記憶が、とても大きかったんだけどな。


ふと、ストールがないことに気づく。
『彼』が持っていってしまったのだろう。

けれど代わりのようにジルがやってきて私の身体を包んだ。
まるで抱きしめるように。

ジルの柔らかな毛の感触。

そうだよね。
ジルも彼を知っている。


「……おいていかれちゃったね」

そう言って手を伸ばすと、ジルが私の肩に頭を乗せた。

私は苦笑する。

これは一体、はじめは《誰》の癖だったのだろう。


それにしても……


笑えてきた。

なんて勝手な人なのだ。

いつから私と一緒だったの?

どのくらい私の側にいてくれたの?

――何故、私を起こしてはくれなかったの?

どうして私を地上に降ろしたの?


何も言ってくれなかった。

ようやく会えたと思ったらお別れで

最期の言葉は


――「幸せに」――


幸せに?

……なにそれ


――― なら、どうして私を一人にしたの? ―――


あの人が『空』だと知っていたのなら―――――



ジルが私の顔を見つめていた。

私はたまらず、震える手でジルにしがみついた。

ジルは温かかった。
多分、『彼』と同じ《温度》なのだろう。

いくつもの涙が頬をつたって落ちる。

たったひとり空にいた『彼』の孤独を思う。


1年でも、1日でも、1時間でも、1分でも

たとえ1秒でも良かったのに


寄りそう時間を、私に与えてはくれなかった『彼』を想う。


幸せな記憶を

そして、この命を私に与えてくれたくれた『彼』を想う。


許されたほんの短い逢瀬。
ほんの少しのやりとり。


『彼』に想いは届いただろうか。


日が落ち、夜の青に染まりはじめた空に、私は祈る。


言えなかった言葉を、
いつか『彼』に届けられる日がきますように、と。


しおりを挟む

処理中です...