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1章 記憶海の眠り姫

7 リコの選択

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 その夜。
 なるべく音を立てないように、と開いた扉だったが立て付けが悪かったために鈍い音をたてる。外に出れば曇っていた空も晴れ、寒々しい月明かりが静謐な夜の城下を照らしている。
 クロウは一人、その場を離れようとした――その時だった。

「どこへ行くの?」

 銀糸を月光に梳かしながらリコが扉を開いた。

「もう夜遅いよ? クロウは明るい時間からずっと働いていたんでしょう? 少しでも寝ないと身体に悪いよ」

 くい、と控えめに袖を引く。もう片方の腕には一冊のノートが抱えられている。
 能力を使わなくても分かる、純粋な心配の感情が少女の顔にありありと浮かんでいる。
 クロウは苦笑しつつ緩くその手を振り払う。そしてそのままリコの丸い頭に大きな手を乗せた。ぽんぽんと叩いてやれば不満げに睨み付けてくる。

「もう、心配しているのに」
「分かっているさ。でもな、俺のことは気にしなくてもいいんだ」

 一歩後ろへと下がる。リコが負わないよう制し、クロウはいつも通りの胡散臭そうな笑みを浮かべる。

「寝ないんじゃない。寝ることができなんだよ、俺は。――俺はこの身体を利用して仕事をしているんだ。いや、仕事をしたいんだ。使えるモンは使わないと」
「え……?」

 ノートを抱きしめる力が強くなる。
 リコは知っている。クロウと自分が“イミタシア”と呼ばれる存在であり、精霊の血を取り込むことで能力と代償を背負っていることを。
 リコ自身の力も代償も、もちろん最初のリコからしっかり伝わっている。しかしクロウはどうだ。クロウの能力について最初のリコはノートに書き記していただろうか、と思考を巡らせる。
 返ってきた答えは“否”だ。

 大切だ、心配をかけないようにしなきゃ、と思ってきた相手が抱えるものをリコは知らなかったのだ。そのことに思い至り、一瞬にして頭が真っ白になる。

「だから何も心配することはないさ。お前こそ寝てろ、一応成長期なんだから」
「……」

 クロウはもう一度リコの頭を撫でて、そして背中を向けた。ただ一人分の足音が遠ざかっていく。
 何も言えなかったリコは家に入ることしか出来なかった。

(……書き加えておかないと)

 カラスの仕事場にてペンを手にする。次の自分へこの失態を繰り返さないよう伝えなければならない。どこかぼんやりとしながら書き記そうとしたその時だった。
 ぎぃ、と再び扉の開く音が響く。
 クロウが帰ってきたのだろうか……忘れ物でもしたのだろうか……と顔を上げれば、そこには見覚えのない少年が一人。ちらちら辺りを確認して、その少年はリコを捉えた。

「リコか」
「だ、誰? お店はもう閉まっているよ?」

 少年は深くため息をついて首を横に振る。

「はぁ。やはり記憶がないのか、哀れだな。……良いだろう、何度でも教えてやる。俺はヴェレーノ。店に用はない。今日はお前に提案があって来た」
「私に提案……?」
「そうだ。乗れば、お前が望む生活を手に入れられる」

 リコの望みは一つ。
 カラスの仲間達と毎日仲良く暮らすこと。誰も離れない、誰も不幸にはならない幸せな世界でみんなの夢を叶えること。その上でクロウやリコ自身の体質を治すことが出来れば文句一つない。
 しかしそれは難しい問題であることは分かっていた。だからこそ甘んじて受け入れて、一人閉じ込められる生活を送っていたのだ。それが一番の妥協案だと信じていた。

「誰もお前を一人にしない。代償に苦しむことも忘れられる」
「ほ、本当に?」
「俺たちに協力してくれるのならば、な」

 包帯に覆われた手が差し伸べられる。
 迷いつつも手を伸ばしかけたリコだったが、その細い腕は後ろから伸ばされたもう一人によって掴まれ、ヴェレーノの手を取ることはなかった。
 リコが後ろを向けば、そこには淡藤の髪が美しい女性が一人。ソフィアだ。

「ヴェレーノ」
「なんだ。お前もいたのか、厄介な」

 小さくもはっきりと聞こえた舌打ち。
 その言葉を聞いたソフィアは確信する。ヴェレーノはこの建物に余所者――ソフィア、セルペンス、ノア、ラルカがいることを知らない。以前マグナロアで人を捜していた様子のヴェレーノだったが、この中にその人物がいることをソフィアは知っている。
 眠っている彼らを起こさないようにするためにも迅速に彼を追い出す必要がある。
 リコを後ろへ下がらせつつヴェレーノへ近づく。
 じっと動かないままソフィアを睨んでいた彼だが、ふいに右腕を前に突き出した。むき出しの指先はソフィアの顔面へと向かう。
 反射的に避けたソフィアだが、掠めた指先が頬を僅かに焼く。

「――っ。貴方、毒性が……」
「昔に比べれば、な」

 ヴェレーノは他人に擬態する能力を持つイミタシアだ。その代償として全身が生物を溶かす毒と化している。
 ソフィアが知る八年前の彼は、触れた生物の肌をかぶれさせる程度の毒性しか持ち合わせていなかったはずだ。それが、火傷……否、長く触れれば完全に溶かしてしまうであろう強さになっている。

「知っているか? この世には見えていないだけで何もかもを蝕む毒――瘴気があることを。そしてそれは人間が絶えず生んでいることを」
「初耳ね」
「他人に擬態するほど、俺はそいつが持っている瘴気までそっくり取り込んでいるらしい。はは、このままだといつか俺自身をも殺す毒になるかもな?」

 これは挑発か。ソフィアの心を乱すことが目的か。
 ヴェレーノは饒舌に続ける。

「ああそうだ。聞いたよ、ソフィア。お前、シアルワの城で暴れ回ったんだって? お前のことだ、それも代償あってのことなんだろう――俺と同じ、いつか自滅するための」
「やめて」

 思わず声を荒げて制止する。
 これ以上は聞きたくない。

「あ、あのあの! 喧嘩はだめ!!」

 ついに耐えきれなくなったのかリコが飛び出してくる。ソフィアの前に立ち、ヴェレーノに向き合う。可愛らしい瞳にちっとも怖くはないものの、牽制の意志をこめて睨み挙げる。

「誰かを追い詰めるようなことを言ったら駄目」
「はぁ。めんどくさい」
「もう!」

 リコは憤慨する素振りを見せつつ続ける。

「ヴェレーノさん、だったよね。私、貴方に着いていきます」
「リ、リコ……!? 何を言って……」
「ソフィア。私は本気だよ」

 手にしていたノートを開き、もう片手に持っていたペンを素早く走らせる。
 何が起こるのか察する前に事は動き出した。
 ソフィアの周りに光の渦が湧きだし、動きを封じ込めるように囲む。逃げようとソフィアだが、光が形を変える方が早かった。黒い――鉄だ。優美な檻と化した光は鳥かごのごとく彼女を閉じ込める。

「私が頑張ればきっとみんな幸せになる世界が作れるんだよね。この力をもっとちゃんと使えれば――世界そのものを塗り替えることだって、できるかも。そうしたら私たちの夢だって叶えられるかも」

 さっさと立ち上がるべきだったんだ、とリコは微笑む。
 鳥かごから抜け出そうとソフィアが剣を振るっても新たな鉄が即座に生み出されるため、抜け出すことが出来ない。小さく舌打ちを一つ。
 このまま出られないというなら仕方がない。あまり使いたくはなかったイミタシアの力を使うしかない。
 ソフィアの力は液体を自由自在に操るもの。神子の炎は建物を焼きかねない。
 しかし、この場に水辺はなく、操れるものがない。
 ならば。

「血のニオイ」

 水がないのならば、身体に流れる血を利用すればいい。
 腕に薄く刃を滑らせ、流れるその赤色を武器とする。狙うべきはヴェレーノ。彼さえ追い出せばリコの説得はできるだろう。

「チッ。面倒な……」
「え……きゃ!!」

 これから自分が襲われることを察知したヴェレーノは包帯を巻いた手でリコを抱え上げる。そしてドアを蹴破って月明かりの差す方へと逃げていく。

「待ちなさい!」

 追いかけたい。しかしリコ自身の手によって阻まれるとは思っていなかった。ここは屋内。壁が邪魔で目標が見えない。目標が見えなければ、遠隔で操れる血も上手く扱えない。
 早く彼らを追いかけなければならない。
 ヴェレーノが裏で繋がっている存在は知らないが、嫌な予感がする。リコは力を酷使して命を落とす可能性だってあり得る――ケセラがそうであったように。
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