久遠のプロメッサ 第二部 誓約の九重奏

日ノ島 陽

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1章 記憶海の眠り姫

17 片翼の烏

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 喉のつっかえたような不快感とともに煙も薄れていく。どのように材料をどのような分量で調合したのか、意外と長く消えなかった煙に悪態をつきつつソフィアはもう一度様子を窺う。
 壁の一部が破壊されている以外は特に変化は見当たらない。あの穴からルシオラとリコが逃げたと見るべきだろう。

「してやられたわ」
「うん。それに、いない……か」

 セラフィの言葉にソフィアは頷く。あの二人はもちろん、クロウもその場にいなかったのだ。姿を消してしまったことに不安を覚える。多少安定しているようには思えたが、何かの拍子でたがが外れてしまったら――リコの目の前でルシオラを殺そうとしてしまったら。それは避けなければならないことだ。

「仕方ないわ。進みましょう」
「それしかないね」

 二人はボロボロに崩れた穴をくぐり、その奥へと足を踏み入れる。
 精緻な彫刻が施された通路がずっと続いている。どうやら一本道のようだ。

「しばらくは迷わなくて済みそう。急ぎましょう、セラフィ」
「言われなくても」


***


 追いかけるのは容易だ、とは思ったものの。

「また行き止まりだね」
「……」

 少し進んだ先、一階分下った空間は――迷路になっていた。少し進めば分岐、間違えれば行き止まり。
 女神よ、何故こんなややこしい神殿を造ったんだと文句を言ってやりたいくらいに。

「クロウなら分かってそうだけどね、いないものは仕方ない。戻ろう。左に来て行き止まりだったから次は右だ」
「えぇ、そうね、そうですとも。……でも、壁を壊して強引に進んじゃだめなのかしら」
「駄目だって。僕らは建築系の知識なんてないんだから、下手に壊しちゃ遺跡が崩壊、下敷きになるだけだって」

 ただでさえ呪いのような体質で生まれて女神を恨めしく思っているというのに、こんな場所でも不愉快に思うなんてソフィアも予想外だ。少しむすっとした顔をする程度の反応しか見せなかったが、セラフィは彼女がイライラしていることを感じて苦笑いをするしかない。

「冗談よ。――待って」

 ふいにソフィアが立ち止まる。
 どうしたのかと尋ねようとしたセラフィを制し、静かにさせる。僅かな水の音の中、異質な音――否、声が遠くから聞こえた。シェキナのような特殊な聴覚がなくとも聞こえる。今は小さくしか聞こえないが、近づけば耳をつんざくほどの大きさなのだろう、と想像ができる。

 が、あぁああああああぁあああああああああ……

 まるで獣の咆哮。でも獣ではない。確かな人間の絶叫。
 聞いているだけで不安になる。なぜなら、聞き覚えのある声だったから。

「これは……まさか」
「走るわよ! 耐えられなかったら休んでいてもいいから!」

 ソフィアは駆け出す。遠くからの声で確信とまではいかないが、あの声の主がクロウである気がしてならなかった。短い間で失踪した彼に何があったのか。
 慌ててセラフィも追いかける。

「僕は軟弱じゃないよ? 殿下のお付きなんだから体力はある方だよ。今はちょっとお休み中だけど」
「そう。でも無理はしないで」
「了解。お気遣いどうも」


***


 少しだけ肌寒くなってくる。
 先ほどまでは叫び声だけだったのが、地響きのような音まで増えてきた。幸い大きな音ではなく、遺跡が崩れる様子はない。
 ソフィアとセラフィは迷いつつも、音という手がかりを頼りになんとか進んでいった。
 そしてその先のこと。少しだけ開けた空間にて。
 二人は見知った人影を視界に入れ、目を見開いた。

 その長身は地に頽れ、彼は自らの身体を抱きしめている。何かが内から溢れるのを抑えているように、長い指には力が入っている。その彼を取り囲む黒い霧。赤や黄色の粒子が混ざったそれは不気味に渦巻いている。
 口から漏れる絶叫は耳に痛く、聞いているだけで心が張り裂けそうなほどの苦痛がソフィアを襲う。

「――クロウ!」

 ごうごうと嵐のように煩い霧が邪魔をしているのか、叫び脂汗を垂らす彼は答えない。
 霧の中へ進もうとするソフィアを、セラフィが腕を掴んで引き留める。

「セラフィ、何をするの。クロウの様子が……」
「駄目だ」

 緊張に強張ったセラフィは首を横に振る。

「これが何かは分からないけど――触れちゃ駄目だ」

 ソフィアとセラフィ本人には知る由もなかったが、恐らくは大神子の血を引く者の勘だ。
 人から生まれ、全てに害をなす瘴気。その恐ろしさを本能で感じているのだ。

「でも!」

 セラフィの腕を振り払おうとしたその時だった。
 ちり、と肌を焼くかの如き痛みが一瞬。刹那、霧がはじけ飛ぶ。
 反射的にソフィアを腕の中に抱え込んだセラフィが「うわっ」と驚きの声をあげつつ膝をつく。そうでもしないと吹き飛ばされてしまいそうだったのだ。
 一瞬の嵐、その後。セラフィの腕から離れたソフィアは息を飲んだ。

 ゆっくりと立ち上がる黒い影。青かったその髪の半分は黒く染まり、ハシバミ色だった瞳は見開かれたまま深紅に輝いている。散々自傷したであろう肌は傷にまみれ、服も一部が破れている。
 何よりも特異なのはその背中。――右側だけから生えた、真っ黒な翼。
 ぼろぼろと羽根を散らしながらピクリと震える。

「あらあら。中途半端ですわね」

 背後から聞こえた声にソフィアは剣を凪ぎつつ距離をとる。セラフィも同じように武器を構えつつ、突如表れた声の主へ警戒を向けた。変貌したクロウへの注意も怠ることなく。
 声の主――大精霊アクアは優雅に微笑みながら青いルージュの引かれた唇の端をつり上げる。

「貴女方とは八年ぶりくらいでしょうか。ふふ、ご心配なく。今のわたくしは観察しているだけですから――第二の精霊、その血を取り込んだイミタシアの末路を」
「それは、つまり」
「彼にはわたくしの血を取り入れて頂きました。一度では足りない様子でしたので、先ほどもう一度。神の子レガリア壊れた人間セルペンスのように耐えきってみせるか、はたまた異形の怪物となって死にゆくのか。耐えきってみせたならレガリアの予備として扱う予定でしたが――これではテラの血までは耐えられそうにありませんね、残念です。やはり傍観に徹するべきでしたか」

 やれやれ、と肩をすくめてアクアはそのまま姿を消す。瘴気から逃れるかのように、ふわりと白い霧になって溶けていく。

「なんてことを。それじゃあ、クロウの様子がおかしかったのはアクアの血を取り入れていたからなの?」

 リコが連れ去られた夜。どこか様子のおかしかったクロウ。一度別れて、再会したその時、全身傷だらけだったのは身体の内側から襲い来る痛みに耐えかねてしまったが故の自傷だったのか。無理矢理飲まされたのか。理性が吹き飛びかねない程の痛みが襲ってくると分かっていながら血を飲んだのか。
 ぼんやりと佇むクロウを見つつソフィアは歯がみする。

「これが精霊の血を取り入れたから起きた現象だというのなら……僕の血を使えば、助かるかもしれない」
「試してみる価値はあるけれど、大丈夫なの?」
「シェキナが取り入れた僕の血はたいしたことのない量だったから、そんなに多くなくて良いはず。体調に関しては気にしないでくれていいよ。今は調子良いから」

 クロウが大人しい今のうちに動かないと、とセラフィが腕まくりをした矢先のこと。
 させないと言わんばかりに瘴気による衝撃波がもう一度襲い来る。今度はソフィアも直にくらい、チリチリとした痛みと吐き気を催す不快感に顔をしかめることとなった。けれど、耐えられないほどではない。

「そうね。貴方に無理をさせてしまうことは申し訳ないけれど……お願いするわ」
「任せて」
「私も手伝う」

 不気味に輝く深紅の瞳が焦点を定める前に。
 二人のイミタシアは慎重に一歩を踏み出した。
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