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2章 誰が為の蛇

17 嫌悪

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 ノアの攻撃は大剣使いだけあって非常に大ぶりだ。
 対するヴェレーノは主に体術を扱う。ナイフはおまけのようなものだ。
 そしてお互いに素早い動きを得意とする。攻撃をしかけても大剣に防がれるか、身軽な動きに避けられるかの二択が多い。
 二人の喧嘩を見守りつつソフィアはそう思う。
 彼女たちがなぜ参加しないのかと言えば、万が一ノアが暴走を始めた時にすぐに対処するためだ。
 ヴェレーノがノアの暴走を止める手助けをしてくれるという可能性は切り捨てている。ソフィアたちも戦闘に参加すれば、ヴェレーノの攻撃対象として認識されてしまう。邪魔がある中でノアの暴走を止められるかと問われれば、できると断言はできない。

 ノアの一閃を避けたヴェレーノが転がり込んだ廃墟の瓦礫が、次の瞬間叩き潰される。耳に痛い轟音を響かせ、砂塵が舞い上がる。
 その中から飛び出してきたナイフをノアは身を屈めることでやり過ごす。すぐさま大剣を真上に向ければ、今度は上からナイフが夕陽を帯びた赤い軌跡と共に振ってくる。
 キイン、と金属同士がぶつかり合う音と振動が空気を震わせる。
 互いに飛び退って距離を取る。
 一瞬の呼吸の乱れすら許されない緊張の中、ノアの心は今にもはち切れてしまいそうだった。

(だめだ、だめだ)

 この細い糸を切ってしまってはいけない。ぷつん、と切れたその瞬間……彼は正当な怒りをヴェレーノに向ける権利を失う。そんな予感がした。

 ノアにとってヴェレーノは、嫌悪の対象だ。それは向こうも同じだろう。
 この男がノアと出会う以前、どんな生活をしていたのかは分からない。でも、彼はその苦さをノアの大切な兄貴分にぶつけていたように思う。溜め込んだストレスを言葉や暴力に形を変えて――。ぶつけられた張本人がなんとも思っていなかったとしても、弟分であると自負している自分にはそれを許すことができなかった。
 止めさせなければ。兄から全てを奪いつくさんとする、この狂った男の凶行を。

 その時、ノアは見た。
 ヴェレーノの胸元で怪しく輝きを放つそれを。
 ノアがその存在を認識したとき――頭の中がかき回されるような不快感に襲われた。
 大鍋でへらをゆっくり回すように、丁寧に、丁寧に。

「ぅ、あ――」

 呻いて立ちすくんだノアを見逃すヴェレーノではない。
 すぐさま背後に回り込み、自分よりも小柄な体躯を羽交い締めにしつつ喉元にナイフを押し当てる。このまま横に腕を動かせば、よく研がれた刃は薄い皮膚を切り裂き血管をも切断するだろう。そうしたらもう助かる術はない。誰もが見て分かる光景だ。

「う、嘘!? 止めなさい、ヴェレーノ!」

 思ってもみなかったところで不覚を取ったノアだが、身の危険を感じることはなかった。驚きに動き出したソフィア達の気配すら感じない。
 脳内を支配するのは、ヴェレーノとの記憶だ。
 何度もループしていく記憶の数々が脳内を駆け巡る。椅子に拘束され、瞬きができぬよう抑え込まれたまま見たくもない映像を見せられているかのような感覚が襲う。

 自分の兄貴分やその大切な人が傷を負う。
 鮮血が流れる。
 殴打痕が見える。
 それでも兄は笑っている。
 これが自分の役目なのだと笑っている。
 そんな顔を見たくない。
 見たくない。
 許せない。
 許せない。
 そんな顔をさせてしまう、あの男を許すことができない。




「あ、あ――」
「?」

 流石のヴェレーノも、ノアの異変を感じ取ったらしい。
 最期に一言くれてやろうと唇を震わせる前に、少年の喉を切り裂こうとしたその時だった。

「――!?」

 恐ろしいほどの速さでノアの手がヴェレーノの手首を掴んだ。残像すらも見えないほどだった。
 めき、と嫌な音がして骨が砕けた。熱と共に激痛が走る。

「っあ!」

 思わず悲鳴が漏れた。少年らしい華奢な背中を力任せに蹴り飛ばし、あまりにも強すぎる拘束から急いで逃れる。

(なんだ、あの握力は。あんなに強かったか?)

 右手はすでに使い物にならない。辛うじてナイフを放さずにいるだけ上々だ。無傷である左手に持ち替え、ヴェレーノは視線を前に戻した。
 鬼がそこにいる。
 砂塵の中でも鈍く輝く赤い瞳が、やけに不気味に見えた。
 真っ赤に燃える中で緑色の光がちらちら瞬いている。あの少年の、柔らかそうな髪に覆われた脳みそは彼に何を見せているのだろうか。ヴェレーノにとって想像しやすいことだ。

「何が何だか分からんが――お前の考えていることなんてお見通しだよ、ノア」

 ノアが自身に殺意を抱いている事実は変わらないのだ。ならば、こちらも変わらず対応すれば良い。少しばかり注意すれば良いだけだ。

「ヴェレーノ、その石を捨てなさい!」

 煩い外野の声が聞こえる。

「その石があの子を暴走させているの!! 早く!!」
「黙れよ。お前には関係のないことだ」

 近寄ってきた煩い女を声だけで一蹴する。女が苛立ちを顕わにする気配がした。次いで、目の当たりにしたノアの異様さに息を呑む気配も。
 そうだ。今は本気を出した憎たらしい鬼を殺したい。
 ヴェレーノは左腕を覆う包帯を取り去る。
 ひゅうひゅうと聞こえるのは鬼の息づかいだ。

「ヴェレ……ノ……」
「あぁ、そうだ。ちゃんと殺してやる、安心しろ」
「許さない」
「俺もだ、醜い鬼め」

 女を置き去りにしたまま、殺したいほど嫌う二人の死闘が再開した。


***


『あれは記石。ちょっとまずいね』
(記石……なんなの、それ)

 いつでも動けるよう警戒したまま待機していたソフィアに、レガリアが鈴のように軽やかな忠告をしてくる。まるで肩に寄りかかられているかのごとく重圧感だ。知らず知らずのうちに冷や汗が流れていく。

『ラエティティアの神器だよ。人間、精霊問わず記憶を操作できる代物さ』
「……」
『嫌な記憶が繰り返し繰り返し頭の中に流れたら――人間はどうなるんだろうね?』

 彼がにこやかに笑ったような気がした。
 つまり、彼はこう言いたいらしい。
 ノアは嫌な記憶――恐らくはセルペンスやヴェレーノにまつわるものだろう――を何度も脳裏に思い浮かべているのだ。それも、無理矢理という形でだ。
 それにより、ただでさえ切れてしまいやすい理性の糸が切れてしまったに違いない。

「ソフィア」
「セラフィ、ラルカを見ていてちょうだい。いつ飛び火が来るか分からないわ」
「でも」
「私なら大丈夫だから」

 うっすらと笑むと、ソフィアは返事を待たずに駆けだした。
 レガリアの声はもう聞こえない。今回の助言はここまでのようだ。
 ふと、ひと月ほど前のクロウの様子を思い出す。あの時の彼がそうであったように、ノアが怒りのまま暴走していれば瘴気が可視化してしまう恐れがある。そうなってしまえば、瘴気はノアやヴェレーノごと傷つけてしまうだろう。
 その前に記石とやらを奪い取らなければならない。これだけはセラフィに譲るわけにいかない。
 ノアの猛攻をヴェレーノが受け流すという流れがしばらく続いていたが、いつその均衡が崩れてしまうか予想が付かない。
 白刃で軌跡を描きながらソフィアは二人の間に割り込む。
 刃をヴェレーノに向けて振りかざし、地を蹴ったばかりの足を大剣の平にかけた。ヴェレーノが後ろへ退き、ノアの注意がこちらへ向いたことを確認する。

「悪いわね、ノア!」

 少年の両手が強く握りしめている大剣の柄を狙い、思い切り蹴り飛ばした。
 奇襲に対処できなかったノアは、声をあげることもせず弾き飛ばされる。蹴られた反動で大剣が鈍い音を立てながら地に倒れ込んだ。すかさずソフィアがそれを持ち上げようとするが、思った以上に重い。
 これでは遠くに投げ飛ばすこともできない。

「そういう重労働を君だけに任せるなんてできるわけないだろ」

 ソフィアから強引に大剣を奪い去り、廃墟の向こうへと投げ捨てたのはセラフィだ。相変わらずの馬鹿力にため息をついて苦言を呈そうとすれば、彼は悪びれた様子もなく軽い足取りでソフィアと背中を合わせた。

「セラフィ、貴方ね……」
「心配されなくても平気だ……よ!」

 正確に投擲されたナイフを白銀の槍で華麗に弾き飛ばし、セラフィはノアを狙うヴェレーノを見据える。集中を切らさずとも、その口には淡い笑みが浮かんでいる。

「正直に言うとね、以前城で君と戦った時ほど『あ、これだめだ』って思ったことはないよ」
「その時の貴方、本調子じゃなかったでしょう。手応えがないにも程があったわ」
「へへ。でもそう思ったのはホント。だからそうじゃない今は――平気」

 ソフィアも微笑で返す。見えずとも伝わるだろう。
 良くない方向へと進みつつあるこの対決の軌道修正をするべく、二人は同時に武器を構え治した。
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