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2章 誰が為の蛇

18 受容

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「ノアは僕が叩き起こすから。ヴェレーノは頼んだよ」
「えぇ」

 純粋な力では、ソフィアはノアに勝てない。彼に与えられたイミタシアとしての補正――高い身体能力のせいだ。奇襲という形を取らなければどうしようもない。
 意識をヴェレーノへと向ける。
 彼は骨の砕けた手を興味なさげに一瞥して、それからようやくソフィアを見た。
 何の感情も感じられない顔の下、首にさげられた石が怪しい輝きを放っていた。

(あれを目の当たりにしてはいけない……)

 ノアが急変したのはどう考えてもあの石のせいだ。嫌な記憶を繰り返し見せつけられるという迷惑な代物だ。
 ヴェレーノは何やら思案した後、ナイフを片手にゆっくりと歩み寄ってくる。ソフィアの後ろではセラフィとノアが取っ組み合いを初めて何やら問答をしている。

「ソフィア」
「何かしら」
「お前も難儀な人生を歩まされているよな。アイツが言っていたよ、お前の血には色々混ざっているって。気持ち悪いくらいに絡まり合って、わけの分からないことになっているって」

 ヴェレーノの言う「アイツ」がシトロンのことであることはなんとなく分かった。ソフィアの血を採取できた人間は彼ぐらいしか心当たりがない。
 自分の血が勝手に採取され調べられていたことに嫌悪を感じつつ、ソフィアは冷静であれと意識して受け答えをする。

「そうね。我ながらもう少し楽な道を歩いてみたかったわ」
「可哀想に。今までどんなことがあったんだろうなぁ。さぞかし辛い思いも沢山してきたんだろうなぁ」
「さぁ? 想像にお任せするわ」

 話の方向性が見えてきた、とソフィアは眉を寄せた。ヴェレーノはあの石と自身の言葉を利用して心を揺さぶる気でいるのだろう。
 彼は知っているのだ。ソフィアの内面は酷く脆弱で、少し突いてやれば簡単に崩壊することを。
 そんな手には乗ってやらない、と剣の柄を握る手に力を込める。

「苦しいならそう言えば良いのに。強情なことで」
「貴方こそ苦しいでしょう? そういう顔をしているわ」
「はは、どうだか」

 ふいに、苛立ちを含んだ蹴りが飛んでくる。挑発をしている自覚のあったソフィアは難なく後ろへ飛び、次いで迫ってくるナイフを自身の剣で受け止めた。

「あぁそうだよ、俺は俺自身の事が嫌いさ。それを苦しいと感じることもある」

 絶え間なく続く剣戟による衝撃は軽いものだ。まるで修行のために打ち合いをしているような、そんな感覚。
 いつ飛んでくるか分からない本気の一撃を警戒しつつ、ソフィアはヴェレーノの言葉を待つ。

「なぁ、確かめさせてくれよ。俺があいつと同類なのか……」

 桃色の光が強くなった。
 ヴェレーノが自らの意志で神器を操ることができるのだという予想外のことにソフィアは驚き、飛び退りながら目を腕で覆う。しかし、間に合わなかった。しっかりと視界の真ん中に桃色の石を捉えてしまっていた。

 脳内が揺れるようだ。
 周囲に火の手はないはずなのに、焦げたニオイがする。
 嗤う赤髪の女。告げられる神子の宿命。
 次いで精霊どもの顔。
 そしてイミタシアと呼ばれる仲間たちの顔。皆でソフィアを囲み各々の笑みを浮かべている。
 次の瞬間――一人、一人と金色の光に塗りつぶされていく。見たことのある粒子だ。
 あれはイミタシアの命。その灯火。

『先にいってる』

 誰がそう言ったのかは分からない。
 ただ、全員がソフィアを置いていく。

「っ!」

 噛みしめた唇が切れ、鉄の味が口に広がった。
 すっと視界が晴れて、元の廃墟が視認できるまで戻る。ソフィアは乱れかけていた呼吸を整える。
 分かっていた。これは記憶を弄る神器による幻覚であると。意識を強く持ってさえいれば抜け出せるようだ。ヴェレーノが扱いに慣れていないせいもあるだろうが、今はそれで戻ってこられた。
 それでも意識を少し飛ばしてしまった。その隙に迫られているとばかり思っていたのだが、ヴェレーノはただ立ってこちらを見つめているだけだ。

「……?」

 彼の目はソフィアをぼんやりと見据えている。
 怪訝そうな表情を浮かべれば、彼は白く血の気のない顔に自嘲するように笑みを貼り付けた。敵意は一切感じられない。
 薄く色のない唇が震え、そこから絞り出したかのごとき枯れた笑い声が漏れ出した。

「あは、あはは。やっぱりかぁ、やっぱり血は争えないんだな」
「何? どういうこと?」

 しばらくの逡巡の後、吐息と共に吐き出されたのはソフィアにとって予想外な返答だった。

「さっきお前が浮かべた顔、とっても良かったよ」

 底知れぬ悪寒が背を駆け抜けたかと思えば、次の瞬間ヴェレーノはその場に頽れた。まるで糸が切れた人形のように砂塵を舞上げながらうつ伏せに倒れ込む。
 急いで駆け寄ると、呼吸は安定している。ただ気絶しただけのようだった。顔色が悪かったことも踏まえるとこれまでソフィアの知らぬところで疲労が蓄積していたのかもしれない。おまけにノアに負傷させられていたのだ、無理はない。
 そのノアはというと、まだ落ち着きを取り戻していないようだった。
 自分よりは体格の良いヴェレーノをなんとか安全な場所まで引きずって移動させる。その首に輝く石をそっと触れると、瞬く間に砕け散り、前回がそうであったようにソフィアの体内へと僅かな熱とともに吸収されていく。ほんのり身体を包み込む光が消えた頃、彼女は閉じていた瞼を開いた。
 近くに縄も何もないため、ヴェレーノを拘束することはできなさそうだ。彼が気絶している間にもう一人――ノアを鎮めなければならない。ソフィアは白い顔のヴェレーノを一瞥して、まだ戦闘の終わらぬ場へと向かった。

「いい加減落ち着いてってば」
「邪魔をするな!」

 大剣という獲物がなくともノアは強い。本気を出せば先のヴェレーノのように掴まれた部分の骨は砕かれ、殴られれば失神は免れないだろう。
 唯一の弱点と言えるのが、ノアの単純さだ。怒りが爆発している今でも、彼は目の前のことで精一杯になっており視野が狭い。そこを利用するしかない。
 廃墟の影を利用してそっと近づく。
 槍を用いつつノアの攻撃を受け流しているセラフィは目敏くソフィアに気がついた。自然な動きでソフィアの隠れる場所へとノアを誘導していく。
 丁度良い距離感だ。ノアがソフィアへ背を向けた瞬間、内心謝りつつその背に向かって飛び込んだ。全体重をかけて背中を押し込み、うつ伏せになるよう押し倒す。ソフィアが素早く身体を起こして場所を譲れば、すかさずセラフィが両手両足に体重をかけて拘束する。

(あの石……ヴェレーノが使えたのなら、私にだって使えるはず)

 ソフィアの体内へと溶けていった石だが、おそらく力は使えるはずである。どうやって使えば良いのかは理解していないが、使えると信じてソフィアはノアに語りかけた。

「ノア。貴方は何をしたいの? どうなりたいの?」
「俺は……!」

 セラフィの拘束から逃れようと暴れるノアの両頬を手で包み込み、顔を覗き込む。怒りに飲まれた血の赤を連想させる瞳がソフィアを睨みあげた。
 しかしそれも一瞬のことで、ノアは桃色に輝くソフィアの瞳を凝視して言葉を途切れさせた。

「……こんなのじゃ駄目だって。迷惑掛けちゃいけないって思っていたのに。兄ちゃんは――きっと悲しむよな」

 少年の体中に籠もっていた力が抜けていく。
 ノアは一般の人間と同じような倫理観を持ち合わせていない。彼の行動、感情は全て兄であるセルペンスがどう反応を見せるかによって決まる。彼が笑顔を見せればそれが正しいと。彼が困ったような表情を浮かべればそれが間違っていることだと。
 今ノアが考えていること――感情のまま暴れ他人を傷つけ殺すことは迷惑な行為であるということも、彼自身が駄目だと感じているわけではないのだ。彼がイミタシアとして背負った代償だ。必ず思考がズレてしまうという、恐ろしく悲しい代償なのだ。
 それでもいい、とソフィアは思う。
 誰かを慕えるのならば、誰かを大切に思う気持ちがあるのならば、それはもう人間だ。化け物なんかじゃない。

「ノア。貴方はどうしたい? セルペンスに迷惑をかけたくないと思う? 例え大剣を握れなくなったとしても……それが貴方の兄が望むのならば、それを受け入れる?」
「思う。だって、俺は兄ちゃんに沢山助けられてきたんだ。兄ちゃんに迷惑をかけたくないよ……」

 ソフィアは頷いた。

「私は貴方が冷静に考えられるようになる術を持つ人を知っている。そうしたらその気持ちが楽になるかもしれないわ。ただし、それを受け入れるのならば貴方はこれまでのような重い物を持ったり速く動くことが出来なくなる。また一から鍛え直さなければならない。それでも良いのなら、受け入れると応えてちょうだい。貴方は自分をどうしたい?」

 二人には知る由もないが、ノアの脳裏には兄との旅路が輝かしい記憶として流れていた。

 自分を助けてくれた兄に何かしてあげられることはないか。自分が兄の重荷となるくらいなら、力は捨てても良いと思えた。

 ノアは頷く。

「俺、また頑張るから、また強くなるから……だから、兄ちゃんを助けるために考える力をください」
「考えるのは貴方自身よ」
「分かってる。でも、今のままじゃいけない」
「そう」

 大人しくなったノアの拘束が解かれる。全て聞いていたセラフィが自分のなすべきことをなすため、動き出したのだ。

「ごめんなさい、セラフィ」
「いいんだよ。コレは僕にしか出来ないことだから。さ、ノア。目を閉じて口を開けて。苦いかもしれないけど、我慢して」

 そう微笑んでセラフィは槍で自らの腕に薄く傷をつけた。
 赤い血が、沈みゆく太陽に照らされて鈍くも蠱惑的な輝きを放っているように見えた。
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