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2章 誰が為の蛇

21 蛇の口裂け

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 階段を一段下るごとに瘴気が濃くなっていくのが痛みとなって伝わってくる。ちくちくと刺されるようなそれは我慢できないほどではないが、煩わしいことに違いはない。
 ずっしりと重い扉を開けたのは年長のソフィアとセラフィだ。二人の間でラルカとノアが固唾を呑んで見守る。
 その部屋の印象は依然と気味が悪いまま変わらない。
 違うのは黒い手の数が増えていることくらいだ。
 血の池の中、瘴気の黒と血の赤を纏った青年がゆっくりと振り返った。
 彼は血で濡れた顔で微笑んでいた。これまでの穏やかで優しい笑みではない。静かに、しかし確実な狂気を孕んでいる笑みだ。
 悲嘆か。諦観か。絶望か。後悔か。
 全てがぐちゃぐちゃになって最早笑うしかないのだろう、とソフィアは感じた。
 隣でラルカとノアが息を呑む音が聞こえる。二人は瘴気を溢れさせた人間を見るのは初めてなのだ。無理もない。

「……セルペンス」
「その顔。全部知っちゃったんだね」

 そう言って彼は血池に沈んでいた片手を持ち上げた。その手には濡れたナイフが握られている。
 ソフィアには見覚えがあった。ありすぎるくらいあった。なぜなら、そのナイフを持つ人物と対峙したばかりなのだから。

「貴方、それは……」
「あの子は言っていたよ。俺は誰も救えないんだと。実際その通りだ。俺はあの子を助けてあげられなかった。あんなに近くにいたのに」

 瞬時、悟ってしまった。
 ヴェレーノはここに来たのだ。そしてセルペンスの目の前で死んだのだろう。
 イミタシアが死ぬとき、遺体は残らない。狭間の者は生きた痕跡を残してはいけないという世界の理があるのだろうか。ヴェレーノがここに居たという証はセルペンスの記憶とそのナイフしか残っていないらしい。

「ねぇ。俺のことを哀れだと思う?」
「え?」
「可哀想だって。泥にまみれた現実から這い上がれない惨めな存在だって思う?」
「……」

 彼は謳うようにそう問うた。
 その場に居た誰もが何も答えることが出来なかった。
 彼の人生が惨憺たるものであることは否定できない。しかし、そこで「可哀想だ」と言ってしまえば……彼のこれまで積み上げてきた全てを否定することにもなってしまう気がしたのだ。

「いいよ、別に答えなくても。どうせ俺は救われるべき人間じゃない。なら俺は俺がやるべき使命を果たすだけ――生まれた理由をなぞるだけ」

 彼はにこにこと微笑みながら両腕を広げた。
 それと同時に揺らめいていただけの腕が、その動きを変えた。
 地面からどんどんと伸び、部屋をぐるぐると回り始めたのだ。まるで無数の蛇が同じ場所でとぐろを巻いているかのようだ。

「目障りな苦痛なんて忘れてしまえばいいんだよ。その方がきっと楽しく生きていられる……みんなの苦しみは、俺が食べてあげる」
「!!」

 どこか楽しそうに語っていたその声音が低くなった瞬間、ソフィアはセラフィの槍を奪った。突然のことに驚く彼に内心謝りながら、槍を横に持ち長い柄を利用して三人を後ろへ追いやった。
 意図を汲んだセラフィが次いで少年少女二人を部屋の外へ後退させ、残った彼女へ手を伸ばしかけたその時だった。
 ソフィアの姿が黒一色に呑まれて見えなくなる。

「ソフィア!!」

 あと一歩のところで間に合わなかったのだ。
 彼女は瘴気が満ちるあの部屋へと閉じ込められてしまった。
 助けに行こうと一歩踏み出したセラフィだが、部屋から更なる瘴気が溢れそうになっていることに気がつく。
 このまま後ろの二人を放っておくことはできない。
 セラフィは逡巡に表情を歪めつつ、二人を小脇に抱えて来た道を引き返すことにした。


***


 ずるり、ずるりと何かが抜き取られるような気持ちの悪い感覚にソフィアは目を覚ます。
 彼女は冷たい床に横たえられていた。
 瘴気の波に呑まれ、頭に叩き込まれる砂嵐のような怨嗟の声に耐えきれず気絶していたのだ。それを思い出して吐き気を堪えつつ身体を起こした。
 そして気がついた。
 彼女の頭をあの手が撫でていたのだ。起き上がってもなお触れようとする手を振り払い、ソフィアは部屋の主を探した。
 彼は錆びた鎖を弄びながら池の縁に腰掛けていた。ソフィアの覚醒に気がついた彼は無邪気に笑う。

「あ、起きた? 気分はどう?」
「最悪よ。貴方、私に何をしたの?」
「あれ……まだ足りないか」
「質問に答えて」

 少し強めに問えば、彼は自慢げに目を細めた。

「ソフィアの『苦しみ』を取り除いてあげようと思って。君は俺が助けてあげたいってずっと思ってたんだ」
「どういうこと?」

 セルペンスは近くで蠢く手の一つを撫でた。

「これ、触れた人間の『苦しい』といった感情を吸い出す力があるみたいでね。悲しみも、怒りも、嘆きも、後悔も……嫌な気持ちは全部忘れられる」

 抜き取られたのはそれか、とソフィアは冷や汗をかく。
 ソフィアが感じてきた負の感情……そのどれかが黒い手によって奪われたということか。ここに来るまでの間、彼女に多く手が寄ってきたのはそういうことなのだろう。
 ふと疑問が湧き起こる。

「その吸い出された感情はどこへゆくの?」
「……」

 彼は薄い胸に手を添えた。

「つまり……黒い手が吸い取った負の感情は全て貴方まで運ばれているということ? それじゃあ、貴方の心はどうなって……」
「全部慣れているから平気平気。世界から嫌な感情が全部消えればきっと優しい世界になる。誰も傷つかなくて良くなる。そのためなら俺一人が受け皿になるくらいどうってことはないよ。この村の人々の感情を食べてみても、俺はこうして何事もなく無事だよ。今はもっと規模を広げようと思っているところ」

 平気なわけがない。
 ソフィアは彼が先ほどよりもどこかふわふわとしている理由に察しがついた。
 彼は食べ過ぎてしまったのだ。
 痛みの形は人それぞれだ。無数の痛みを食べては飲み込み、食べては飲み込み……一度に沢山の料理を口に放り込んでしまえば元々食べていたものの味が分からなくなってしまうように、彼は自分自身の痛みが分からなくなってしまっている。
 この小さな村でこうなっているのだから、規模を広げたら『セルペンス』という心は掻き消えてもおかしくない。今でさえ不安定になっている。
 そこへ更に追い打ちをかけるように彼は謳った。

「俺はね、誰かの傷を治すとその人の感じた痛みを吸収しちゃうみたいで。シェキナと違って全く痛くないわけじゃないけど、なんかもう慣れちゃってたから特に気にしてはなかったんだけどね……あぁ、でも舌をかみ切って自殺しようとしていた人を治療したら後遺症で味覚全部なくなったのには驚いたな……」
「なんですって?」

 今語られているのは、これまでずっと彼がひた隠しにしてきたイミタシアの代償だ。
 他人の傷を癒やすこと。その代償は、傷の痛みを受け入れなければならないことのようだ。
 彼はノアと共に医者もどきとして各地を巡っていたという。怪我や病気を能力で癒やしては感謝されるか気味悪がられていたようだが……その裏でそんなことがあったとは。ソフィアはしばらく言葉を発することが出来なかった。
 彼が他人の苦しみを肩代わりしていたのはこれが初めてではなかったのだ。
 おまけに味覚までないという。彼が痩せている原因だろう。

「……」
「ソフィア、苦しそう。大丈夫だよ、全部俺が食べるから」
「駄目よ……これ以上は貴方が壊れてしまう」
「とっくの昔に壊れてる。精霊のお墨付き」
「……」

 何故彼の事を知ろうとしなかったのだろう。ソフィアは俯いた。
 話を聞く限り、彼は自分が救われることに対して興味を持っていない。始めから諦めている。そのように生きるしかなかったのだ。

『あいつだけだったんだ。兄ちゃんのことを知りながら無謀にも干渉しようとした奴……ケセラなら兄ちゃんを救える可能性があった』

 アングの言葉が蘇る。
 ケセラだけだったのだ。本当の意味で彼を理解し、救おうと願っていたのは。
 運命は残酷だ。
 彼女の死を、彼がどう感じたのか今は想像に難くない。

 ソフィアは顔を上げる。
 ここで諦めるわけにはいかないのだ。
 ラルカやノアの願いを、ケセラの残した願いを叶える術は残されているはずだ。そう信じるべきだ。

「セルペンス、私の目を見て」

 まずは彼の自我を強く支えてやる必要があるだろう。
 力業だが、彼自身の記憶を揺さぶる方法が手っ取り早いはずだ。得たばかりの石の力を利用すればそれもたやすい。
 彼は素直にソフィアと視線を合わせる。
 桃色に輝く瞳をじっと見つめて――そして。

「あ……」

 彼は、紫紺の瞳に光を宿した。
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