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2章 誰が為の蛇

22 胡蝶の夢

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***


 子どもの頃、漠然と抱いていた夢というものはセルペンスにもあった。彼はそれを夢と憧れている自覚はしていなかったのだが、なんとなくそうでありたいという希望はあったのだ。

 彼女と一緒に生きたい。

 一緒に旅をして、一緒に食事をとって、他愛のない話を繰り返しては弟分たちがする口喧嘩を止め……そして彼女は微笑むのだ。
 まるで人々が恐ろしいと口にする精霊が住まう、白い城でありながら同時に牢獄の役割を果たしていたあの場所に閉じ込められていた時と同じように。ただ側に居て笑っていて欲しかった。
 記石により強制的に脳裏に過ぎる記憶の数々はセルペンスに一時の安堵をもたらし――そして悲しみの底へと叩き落とすこととなった。
 分かっていた。その夢はもう叶わないものであると。自分が無力だったが故に決して現実となり得ないことであると。
 そして――彼は漸く自分が彼女に向ける想いを自覚した。


***


 静まりかえった部屋の中、ソフィアは急に固まったセルペンスを見上げた。
 一時的であったとしてもその顔から邪気も狂気も何もかも消え失せ、ぼんやりと虚空を見ている。
 ソフィアはゆっくり立ち上がり、彼の手をそっととった。血の気のない指先は本当に人間なのか疑わしいほど冷えていた。

「さぁ、ここから出ましょう」
「……だった」
「え?」

 彼の手を引いて部屋から出ようとしたソフィアは足を止め振り返る。
 その視線の先、セルペンスは無表情のまま泣いていた。涙が頬にこびりついた血を僅かに溶かし濁っていく。

「好きだった。彼女に愛されたかった。できることなら……助けてあげたかった」
「セルペンス……」
「彼女は俺に手を伸ばしてくれたのに。俺は彼女になにも出来なかった」

 そんなことはない、とは言えなかった。
 それを言うにはソフィアは彼らの過去を知らなさすぎたのだ。話を少し聞いた程度の彼女には口を出す資格はない。
 冷えた大地に雪が降り積もるように、彼の中の悲しみは静かに積み上がり続ける。太陽が昇らないかぎり溶けることはない、永久の白がしんしんと。
 せめて涙くらいは拭おうと頬へ手を伸ばすと、セルペンスは力なくもしっかりとソフィアの手を拒絶した。

「駄目、これは精霊の血だから触ると――あ」
「――え?」

 突然視界が黒に染まり、小さな戸惑いの声が漏れる。
 ソフィアの顔面に黒い手が迫っていたのだ。危機が目の前に訪れたせいか、全ての動きがやけに遅く見える。
 どこから生えたのだろうか。セルペンスの心が落ち着きを取り戻しつつある今、あの手がこちらを襲ってくる可能性は低いと踏んでいた彼女が避けることは難しかった。
 手がもう少しで触れようとした直前、すんでのところでセルペンスがソフィアの両肩を強く押す。
 大きくよろめいたソフィアの頭があった位置を手が掠めていく。

「セルペンス……!」

 その腕は彼の背後、血池から生えていた。
 セルペンスの胸を貫く形でソフィアへと迫っていたのだ。実体を持たないためか、貫かれている部位に怪我は見当たらない。ただ、彼の顔はぐったりと項垂れて見えない。

(私を狙って……いいえ、違う)

 先ほどまではソフィアに触れて苦痛を奪い取ろうとしていたあの手だが、今は違うと感じる。
 あれは主であるセルペンスを守ろうとしているのだ。彼自身が感じる悲しみを奪おうとしているのだ。そのために彼の意志とは関係なく、勝手に動き出している。
 そこでふと疑問が浮かび上がった。
 触れた者の負の感情をセルペンスに流している手に彼自身が触れたなら。
 もし、彼自身の感情さえ吸い上げ還元しているのだとしたら。
 ソフィアは戦慄を隠せなかった。
 それこそセルペンスが本当の意味で壊れかねない。他人の感情と自分の感情が溶け合い、区別が付かなくなってしまうのではないか。
 そう考えるや否や素早く剣を抜き、彼を戒める腕をなぎ払う。
 痩身が傾ぐのを背で支え、ソフィアはじわじわと増え始めた禍々しい腕共を一瞥してその場を後にした。


***


 何かが足りない、と村を駆けながらラルカは感じていた。パズルのピースが一つ足りない時のような、そんな空白の焦燥が胸に降り積もる。
 それが何なのか分からない。
 手持ち無沙汰に周りをきょろきょろと見渡すも、ノアとセラフィが不気味な腕を切り裂いていく姿ばかりが目に映る。ノアの方はセラフィから借り受けた細身の剣を振るっている。イミタシアの能力を借りて操っていた大剣はやはり思ったように動かせなかったらしい。しかし、これまでの実戦による経験は失われていない。彼らはラルカを守ってくれていた。

「きりがないっての!」
「ソフィアは無事かな……でも」

 セラフィはノアが切り損ねた腕を薙いで消す。
 細身の剣に不慣れなノアを一人置いてソフィアの様子を見に行くことはできない。彼らに何かあったらそれこそソフィアやセルペンスに申し訳がつかない。
 今は村長家から徐々に押されて後退している。地下から追い出されてからというものの、勢いを増した瘴気の中どうすることもできなかったのだ。

「『誰か助けに来てくれないかなー。具体的に言えば超絶美人で有能なメイドさん』なーんて思った? 思ったよね? やだー、私ったらすっごい良いタイミングで来ちゃったみたい」

 そんな場違いな明るい声と共に、ラルカへ伸びていた一本が矢によって吹き飛ぶ。

「シェキナ!」
「ふふーん。流石にこんな沢山の獲物、一気に狩るのは難しいよね」
「なんか聞こえた気がしたけど助かった! ありがとう!」
「うわ、前口上を見事にスルーされた……どういたしまして!」

 間近に新しく生えてきた小さな瘴気の塊を豪快に踏んでもみ消す際、オレンジ色のスカートがふわりと揺れた。その光景は優雅と表すにはほど遠いが、頼もしいことに違いはない。
 肩まで伸びた茶髪を軽くかき上げてその場に現れたのはシェキナだ。

「村人たちは……」
「無理。諦めた。あの人達、引きずって逃がそうとしても強引に帰ろうとするんだよ? ならこの原因をなんとかした方が早いかなと思ってここまでなんとか来たの」
「そう。でもそれも難しそうで」
「みたいだね。セラフィ達の知ってること教えて」

 セラフィが簡潔に状況を説明すると、シェキナは唸る。

「ぐぬぬ……セルペンスのバカヤローめ、無理するなって言ったのに……」
「あ、あの!」

 くい、とワンピースの裾を引っ張られてシェキナは振り返る。
 シェキナよりも一回り以上は小さなラルカが控えめに彼女を見上げていた。

「貴女はラルカちゃんね。どうしたの?」
「探し物を手伝って貰いたいんです」
「探し物……」
「そうです。それは――」

「『ヘアピン』」

 その一言だけ、ラルカの声の裏に別の声が重なったように聞こえた。その場にいる全員がそう感じた。
 ラルカによく似ていて、けれど違う声だ。
 当の本人は一回瞬きをして、瞳を輝かせて両手を合わせた。ようやくパズルのピースが揃い、もやもやとした気分が晴れていく。

「そう! セルペンスさんのヘアピンです!」
「言われてみれば確かにつけてなかったね。いつも付けていたのに。でも、どこにあるか心当たりはあるの?」

 ふいに、彼女の身体から黄金の蝶が一匹ふわりと舞った。
 ラルカはきらきらと美しい光を纏いながら力強く頷いた。

「はい。彼女が教えてくれるみたいです」

 そっと伸ばした指先に止まった蝶を寂しげに見つめ、彼女は微笑む。
 不気味な暗闇の中、仄かに輝く少女の姿は幻想的で美しい。まるで夜空に浮かぶ月のようだ。
 一行がそんなラルカに魅入られかけたその時だった。
 強い悪寒と共に、瘴気が一層濃くなった。村長家から波紋となって伝わってくる邪気はどう考えても事態の悪化を予期させる。

「事は一刻を争うみたいだね。あのペアピンが鍵になってくれることを祈るよ。……悪いけど、僕はソフィア達を優先させて貰うよ。みんなはどうする?」
「私はラルカちゃんと一緒に行くね。ノアは?」

 一同の視線を受け、ノアは悩む。箍が外れた兄の元へ無策で向かうか、少女と共に兄の大切なものを探しに行くか。あの安物のヘアピンを兄がどれだけ大切にしているか、ノアは知っている。共に旅をしている片時も離さず、毎晩綺麗に磨いては微笑んでいることも見たことがある。あれは恐らく無意識なのだろうが、その微笑みが一番穏やかで自然なものだったことを覚えている。
 迷いは数瞬に留め、ノアはラルカの隣に立った。

「俺はこっち」

 セラフィは頷く。

「分かった。それじゃあ、みんなも気を付けて。武運を祈るよ」

 騎士らしく胸に手を当てて一礼をし、彼はその場を去って行く。
 その背を見守っている時間はない。シェキナとノアはラルカへ視線を向ける。
 彼女は頷き、そっと優しく蝶を空へ飛び立たせるのだった。
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