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3章 紅炎の巫覡
0 君へ送る愛の言葉
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なんてことのない日のなんてことのない夜更けのことだった。
二人はこっそり寝室を抜け出して、展望室へと訪れていた。お椀をひっくり返したかのような天井に宝石が埋め込まれた絵画の下、並んで外の景色を眺めていた。二人が出会った初夏から少しばかりの時が流れ、随分と冷え込む季節になっている。
どうしてここに来たのだろうか。彼女は厚手のケープを胸元へ手繰り寄せながらふと疑問に思う。
隣にいる彼に呼ばれたからなのだが、普段ならばきっぱりと断っていただろう。「睡眠時間削るな馬鹿」と遠慮なく頬をつねっていたに違いない。もちろん高貴な身分である顔を腫れさせるわけにはいかないため、手加減は怠らないようにしているのだが。心配しているのはもちろん彼の睡眠時間、そして健康である。ここ最近は忙しかったせいもあり、彼の部屋に明かりが灯っている時間が多いような気がする。
しかし、今日はなんだかそう叱る気分にならなかったのだ。
「着いてきてくれないか」
少し緊張した面持ちでそう声をかけてきた彼に、彼女はすぐに頷いた。
どうして即答したのか、彼女自身不思議な気分だった。
普段は城のメイド達に身体を磨かれ、髪を梳かれ、宛がわれた高級な衣装を着込みあれこれ仕事や勉強をしている彼女だが、今は夜更けということもありネグリジェと寒さを凌ぐためのケープを纏っているだけである。
対する彼はまだ寝る準備が出来ていなかったのか、普段着のままそわそわと両手を組んで視線をあちこちへ飛ばしている。
「その……俺たちが出会ってからさ……色々あったよな」
「そうだな。最初から大変だった」
おもむろにそう言い出した彼に向かい苦笑する。
「今でもそう思うことはあるが、初めて出会った時も相当馬鹿だと思った。よぉく覚えてる」
「えぇ……」
「不本意だったとはいえ、私はお前を殺すために来たんだぞ? それなのに罰を与えないどころか服を買うなり祭りに行くなり。挙げ句の果てに一目惚れだと。本気で馬鹿だと思ったよ」
「て、手厳しい……」
彼がもしも普通か若しくは王家にありがちな冷徹な人間だったのなら、今頃彼女はここにいなかったに違いない。国の宝を害そうとした大罪人として処刑され、酷ければ首が晒されていたかもしれない。今考えるとぞっとする話だ。度が過ぎるくらいに――時に狂っていると思うくらいに優しい彼のおかげで彼女はここに立って幸せを謳歌している。
項垂れた彼に昼間の威厳は欠片もない。
彼女は吹き出し、楽しげに笑った。今この瞬間を見ているのは自分だけ。そのような優越感も気分を良くしている一因かもしれない。
「ふふ。そんなお前に出会えたことが私の人生において最大の幸運だったのかもな」
「これからも不幸にさせないよ」
「なりたくてもなれないよ、きっと」
その言葉に彼は不安そうに眉を下げた。
「……俺の元から離れたいとか、そう思うことはある?」
「いや、ない」
ズバリと鋭い即答だ。
彼は呆気にとられたように口を半開きにしている。彼女は意地の悪そうな笑みを浮かべて彼の肩を小突いた。
「私はお前に助けられてから――あの夜明けを見て誓ったんだ。言っただろ? お前を助けると。それは今でも変わらないよ。お前がどんな茨の道を歩もうと私はお前を助けるために動こう。お前が道を踏み外したのなら無理矢理にでも引きずり戻そう。それは私が私に課した使命だ」
彼女の金色の瞳が一際強く輝いた。
月よりも強く美しい輝きに彼は見とれかけ、そして破顔する。
「やだ……かっこよすぎる……俺、自信なくしちゃう」
「なくすな」
目の前にいるのは近いうちに正式に国を背負う身となる男だ。自信を無くしてしまっては困る。
彼は照れくさそうに笑い、ふと外を見た。
空が少し白んでいる。夜明けが近いのだ。
「――この時間にどうしても伝えたいことがあったんだ」
今までのなよなよとした雰囲気が消え、どこか荘厳な雰囲気が彼の横顔に宿る。
王だ、と隣に立つ彼女は思う。
この顔にどれだけ焦がれ救われてきたことだろう。国と、そして世界の頂に立つに相応しい顔。その中でも一番印象的な石榴石の瞳がするりと動き、慈愛を込めて彼女を捉えた。
彼はおもむろに羽織っていたジャケットから同じ色の小箱を取り出した。手のひらにぴったりと収まるくらいの大きさだ。表面はビロードで覆われ、金糸で文字が刺繍されている。
――太陽から月へ。
彼は音を立てず膝をつく。
流れるような仕草で小箱の蓋を開け、彼女に向かって差し出した。
それと同時に夜明けの太陽が二人を包み込む。白い輝きが二人と、小箱に収められた一つの指輪を照らし出す。
「ミセリア。どうか、俺と結婚してください」
微かに声が震えていた。
よく見れば、小箱を包む手も震えている。
刹那、彼女は驚きに身を固め――それからふっと微笑んだ。
そういうことを夢見た日があったかと問われれば、あると答えるしかない。
強くあろうと思っていても彼女は普通の乙女なのだ。
彼に強く惹かれ、共にありたいと願い、それが重荷になっていないかと不安に駆られる日もあった。
しかし、それも杞憂だったようだ。
もう何も恐れることはない。
安心して、彼女は本心から答えを告げた。
「――喜んで」
二人はこっそり寝室を抜け出して、展望室へと訪れていた。お椀をひっくり返したかのような天井に宝石が埋め込まれた絵画の下、並んで外の景色を眺めていた。二人が出会った初夏から少しばかりの時が流れ、随分と冷え込む季節になっている。
どうしてここに来たのだろうか。彼女は厚手のケープを胸元へ手繰り寄せながらふと疑問に思う。
隣にいる彼に呼ばれたからなのだが、普段ならばきっぱりと断っていただろう。「睡眠時間削るな馬鹿」と遠慮なく頬をつねっていたに違いない。もちろん高貴な身分である顔を腫れさせるわけにはいかないため、手加減は怠らないようにしているのだが。心配しているのはもちろん彼の睡眠時間、そして健康である。ここ最近は忙しかったせいもあり、彼の部屋に明かりが灯っている時間が多いような気がする。
しかし、今日はなんだかそう叱る気分にならなかったのだ。
「着いてきてくれないか」
少し緊張した面持ちでそう声をかけてきた彼に、彼女はすぐに頷いた。
どうして即答したのか、彼女自身不思議な気分だった。
普段は城のメイド達に身体を磨かれ、髪を梳かれ、宛がわれた高級な衣装を着込みあれこれ仕事や勉強をしている彼女だが、今は夜更けということもありネグリジェと寒さを凌ぐためのケープを纏っているだけである。
対する彼はまだ寝る準備が出来ていなかったのか、普段着のままそわそわと両手を組んで視線をあちこちへ飛ばしている。
「その……俺たちが出会ってからさ……色々あったよな」
「そうだな。最初から大変だった」
おもむろにそう言い出した彼に向かい苦笑する。
「今でもそう思うことはあるが、初めて出会った時も相当馬鹿だと思った。よぉく覚えてる」
「えぇ……」
「不本意だったとはいえ、私はお前を殺すために来たんだぞ? それなのに罰を与えないどころか服を買うなり祭りに行くなり。挙げ句の果てに一目惚れだと。本気で馬鹿だと思ったよ」
「て、手厳しい……」
彼がもしも普通か若しくは王家にありがちな冷徹な人間だったのなら、今頃彼女はここにいなかったに違いない。国の宝を害そうとした大罪人として処刑され、酷ければ首が晒されていたかもしれない。今考えるとぞっとする話だ。度が過ぎるくらいに――時に狂っていると思うくらいに優しい彼のおかげで彼女はここに立って幸せを謳歌している。
項垂れた彼に昼間の威厳は欠片もない。
彼女は吹き出し、楽しげに笑った。今この瞬間を見ているのは自分だけ。そのような優越感も気分を良くしている一因かもしれない。
「ふふ。そんなお前に出会えたことが私の人生において最大の幸運だったのかもな」
「これからも不幸にさせないよ」
「なりたくてもなれないよ、きっと」
その言葉に彼は不安そうに眉を下げた。
「……俺の元から離れたいとか、そう思うことはある?」
「いや、ない」
ズバリと鋭い即答だ。
彼は呆気にとられたように口を半開きにしている。彼女は意地の悪そうな笑みを浮かべて彼の肩を小突いた。
「私はお前に助けられてから――あの夜明けを見て誓ったんだ。言っただろ? お前を助けると。それは今でも変わらないよ。お前がどんな茨の道を歩もうと私はお前を助けるために動こう。お前が道を踏み外したのなら無理矢理にでも引きずり戻そう。それは私が私に課した使命だ」
彼女の金色の瞳が一際強く輝いた。
月よりも強く美しい輝きに彼は見とれかけ、そして破顔する。
「やだ……かっこよすぎる……俺、自信なくしちゃう」
「なくすな」
目の前にいるのは近いうちに正式に国を背負う身となる男だ。自信を無くしてしまっては困る。
彼は照れくさそうに笑い、ふと外を見た。
空が少し白んでいる。夜明けが近いのだ。
「――この時間にどうしても伝えたいことがあったんだ」
今までのなよなよとした雰囲気が消え、どこか荘厳な雰囲気が彼の横顔に宿る。
王だ、と隣に立つ彼女は思う。
この顔にどれだけ焦がれ救われてきたことだろう。国と、そして世界の頂に立つに相応しい顔。その中でも一番印象的な石榴石の瞳がするりと動き、慈愛を込めて彼女を捉えた。
彼はおもむろに羽織っていたジャケットから同じ色の小箱を取り出した。手のひらにぴったりと収まるくらいの大きさだ。表面はビロードで覆われ、金糸で文字が刺繍されている。
――太陽から月へ。
彼は音を立てず膝をつく。
流れるような仕草で小箱の蓋を開け、彼女に向かって差し出した。
それと同時に夜明けの太陽が二人を包み込む。白い輝きが二人と、小箱に収められた一つの指輪を照らし出す。
「ミセリア。どうか、俺と結婚してください」
微かに声が震えていた。
よく見れば、小箱を包む手も震えている。
刹那、彼女は驚きに身を固め――それからふっと微笑んだ。
そういうことを夢見た日があったかと問われれば、あると答えるしかない。
強くあろうと思っていても彼女は普通の乙女なのだ。
彼に強く惹かれ、共にありたいと願い、それが重荷になっていないかと不安に駆られる日もあった。
しかし、それも杞憂だったようだ。
もう何も恐れることはない。
安心して、彼女は本心から答えを告げた。
「――喜んで」
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