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3章 紅炎の巫覡

5 母娘

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***

 あれは何年前の事だったか。

 磨かれた墓石の前から立ち去り、喪服の如き黒衣を揺らしながらレオナは歩いていた。あの墓の下には先日亡くなったばかりの子どもが眠っている。彼らの最期は不運で、とても悲惨なものだった。顔を思い出そうにもまずは死体の有様が蘇ってきてしまう。

 せっかくマグナロアの長として認められたのに。
 自分の子どもを守れなくて何が長だ。母親としても失格だ。
 ――双子を身ごもったレオナを庇って亡くなった愛しい男にも顔向けができないではないか。

 知らず知らずのうちに噛んでいた唇から血が滲み、鉄の味が口内に広がった。
 大通りへ戻るための道をたった一人で歩く。
 周りに人がいないわけではないが、レオナに気を遣って話しかけたり近づいてきたりする者はいない。今はそれが有り難かった。

「だから、帰れって言ってるだろ」
「帰りません。この街で一番強い人と会わせてください」

 普段とは違い、ゆっくりと地を踏みしめ、風を感じながら歩いていると何やら言い争う声が聞こえてくる。
 いくら気持ちが沈んでいるからといって、諍いを放っておくことはできない。
 レオナはため息をついて声がする方へと近づいていく。
 墓地は外周沿いにあり、レオナが歩いてきた道は街の正門にも繋がっている。言い争いは正門で行われているようだった。
 誰かが検問に引っかかったのだろうか。

「ちょっと、そこまで声が聞こえてきたけど何かあったのかい? ――子ども?」
「あ、レオナさん……」

 正門で仁王立ちしていた門番の男が一瞬気まずそうに視線を逸らす。屈強な体格に似つかわしくない仕草だ。
 そんな彼の影からひょこ、と顔を出す小さな存在が一人。
 あまり手入れがされていないように見える淡藤の髪に、薄汚れたワンピース。履いた靴もボロボロだ。どこをどう見ても旅慣れたようには見えない。
 しかし、レオナを見上げる紫色の眼光は驚くほど強かった。

「私はソフィア。貴女は?」
「あぁ、失礼。アタシはレオナ。マグナロアの長を務めさせてもらっている」
「じゃあ、この街で一番強い人ですか?」
「アタシは……」
「レオナさん、そこで詰まってちゃだめでしょ。アンタが先代の長を打ち倒して認められた、一番強い女だろ?」

 先日子どもを失ったばかりだ。強くあることを疑問に思い始めたレオナへ、呆れたように門番の男がツッコミを入れる。そしてハッとした顔をして横の少女を見下ろした。

「一番強い人……!」

 少女はホッとしたように薄い胸をなで下ろした。
 そして居住まいを正し、淡藤のつむじがしっかり見えるくらいに深々と頭を下げた。

「お願いします、私を強くしてください!」

 愛しい子供たちの年齢とほぼ同じだったからだろうか。それとも、単に彼女の意志に負けたからだろうか。
 レオナは、この少女をどうにもはね除けることができなかったのだ。


***


 レオナは懐かしく思う。
 ちょうど今レオナの腕にすっぽりと収まっている娘を撫でながら、ゆっくりと彼女の言葉を待つ。
 強がりで、可愛いソフィアは慣れないようにたどたどしく声を紡ぎ出す。

「私は……怖い。一人になるのが、とても怖い」
「うん」
「私が守りたかった人、大切な人、みんな私を置き去りにして先にいってしまう。私はひとり取り残されて、逃げたくても逃げられない」
「……うん」

 薄々感じ取っていたことではあるが、ソフィアは何かとんでもないものを一人で抱え込んでいるらしい。
 彼女がイミタシアと呼ばれる、精霊の犠牲者であることは知っている。そのせいで苦しい思いをしてきたことも、ときどき我を忘れて暴れてしまうことも。
 しかし、それ以上に……何かがあるのだろう。レオナにすら話せないような、そんな何かが。

「楽しかった。この非日常が、とても楽しかった。怖いことも少しだけ考えずに済んだ――だから、終わるのが嫌。怖い、怖いの」
「……うん」

 泣いてはいない。全てを打ち明けてくれるわけでもない。
 でも、これでも精一杯の甘えなのだろう。レオナはそれに応えるため、胸の内に秘めていた提案をようやく口にした。
 今がそのタイミングであると感じたから。

「なら、終わらせるのを遅らせよう」
「……え?」

 ソフィアが顔を上げた。
 普段大人びた表情が仮面のように貼り付いている彼女の、本当に珍しい顔だ。
 くすくすと笑いつつ、白く滑らかな額をちょんと突いてやる。

「どういうこと?」
「あの子達と一緒に旅をしたらどうだ、ってこと。これから各地を巡るんだろ? 楽しそうじゃないか」
「でも、城から何か言われるんじゃ……」
「そりゃあ、城で暴れた記録は消されないからね。観察するようには言われているけど、旅をさせるなとは言われてないよ。それに、殿下もアンタを閉じ込める意図でそう言ったわけじゃないと思うし」
「……!」

 紫水晶を思わせる綺麗な瞳に輝きが増す。
 微笑ましく思いながら、レオナは娘の背を軽く叩いた。激励だ。

「行っておいで。きっと楽しいことがあるはずだよ。たまには観光がてらのんびりしたっていいじゃないか」

 あと、ともう一つ付け加えることを忘れない。

「帰りたくなったらいつでも帰ってきてくれよ。ここはアンタの居場所、そのうちの一つなんだから」


***


 翌日。気持ちの良い朝だ。
 旅の一員、見送られる側にしれっと混ざっている紫色を認めてミセリアは苦笑した。その手には例によって聖火が燃えるランプが握られている。

「なんとなくそんな気はしていた」
「あら、迷惑かしら。少なくとも足手まといになるつもりは一切ないから安心して」
「そういうわけじゃないが……。この中じゃ一番頼りになることは間違いないからな」

 恐らくミセリアは、あらかじめレオナから話を聞いていたのだろう。だからミセリアは驚いている様子もなく、使者たちもすんなり受け入れてくれている。レイとシャルロットは「来てくれるの!?」と嬉しそうに顔を見合わせていた。
 レオナはソフィアへ旅に出るか、と質問をしたわけなのだが、どうやら拒否されるという選択肢はなかったらしい。彼女らしいことだ。
 そんな彼らにソフィアはホッとする。同行を拒否されたら、と考えなかったわけではない。これは母に――レオナに感謝しなければならない。

「それじゃあ、そろそろ。レオナさん、色々と世話になった。また落ち着いたらそちらへ窺うよ。今度はフェリクスも一緒に。その前に戴冠式――いや、結婚式が先か」
「あぁ、心待ちにしているよ。それと、アタシの娘をどうぞよろしく。有能だから、どんどんこき使ってくれて構わないよ」
「こき使うって……」
「あっはっは」

 見送る側の代表であるレオナは朗らかに笑い飛ばしながら冗談を言ってのける。
 半目になりつつ反論しようとすれば、横に控えていたレイに先を越される。

「ソフィアが頼りになることは充分知ってます」

 蒼穹の瞳を優しげに細め、笑顔でそう言い切る彼。
 レイが優しいのは今に始まったことではないが、こんな人前で堂々と恥ずかしいことを口にするタイプだっただろうか。少し離れている間にその辺り、随分と成長したらしい。
 シャルロットの影響も大きいのかもしれない。

「あはは、その通りだ。それじゃ、気を付けて行ってくるんだよ、女王一行さま」
「あぁ。また会う日まで、互いに励むとしよう」

 こうして女王一行の、聖火を運ぶための旅が再開した。
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