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3章 紅炎の巫覡

15 契りの日

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 その日は良く晴れており、日も優しく大地を照らしていた。
 城の門は大きく開け放たれて、シャーンスの住民達が庭園へと集まっている。
 フェリクスの意向もあり、一般の住民たちも新たなシアルワ王と女王の誕生の瞬間を見守ることが出来るのだ。流石に城内には城側から呼んだ来賓くらいしか入れないのだが、それでも充分熱気が伝わってくる。
 昨晩は緊張にげっそりとしていたミセリアだが、今日はしっかりと切り替えてきたようだ。侍女達とフェリクスの姉ベアトリクスが楽しげにウエディングドレスを飾っている間、ソフィアは部屋の隅で剣の柄を撫でていた。

(――レガリアによれば、宝物庫は戴冠式が行われる広間から行けるようね。彼らには悪いけど、何か騒ぎを起こして……それで……)
「ソフィアさん、そろそろお時間よ。……あら、どうなさったの? 顔色が悪いわ」
「少し、頭が痛くて。私は邪魔になるので、部屋で休んでいようかと」
「邪魔ではないわ。でもそうね、体調が悪いなら休むべきね」

 ベアトリクスが微笑んだ奥には、凜とした佇まい――のように見えつつ、照れの表情が見え隠れするミセリアが立っている。
 夜空色の髪は緩く編み込まれ、金木犀だろうか――小さな花を模した髪飾りが散りばめられている。所々に青が入ったボリュームたっぷりのドレスの中でも引き締まった腰の部分には、金色の蝶の飾りが輝いていた。彼女が姉と慕う人を連想させる。
 部屋にいる一同の視線が集まった刹那、こほんと咳払いをひとつした彼女は完璧な微笑みを浮かべる。これから正式に王妃となる女の顔だ。

「正直既に疲れたが……みんな、準備を手伝ってくれてありがとう。それでは、行こうか」


***

 会場は、ステンドグラスで飾られた礼拝堂だ。
 中に入れるのは貴族たちとフェリクスの知人達、それと選ばれた騎士。それぞれが緊張した面持ちで時を待っている。しかし、全員が来ている訳ではない。


 白い花の飾りをつけた王太子は、ステンドグラスから差す光を背に最愛の人を待っていた。
 広間の扉が開かれて、花嫁が歩いてくる。自分と揃いの衣装を身に纏う彼女を見て、少しばかり照れくさい気分になる。
 フェリクスの隣まで訪れたミセリアは、顔を見合わせてから前を向く。
 二人の目の前には現王ゼーリッヒが立っている。その手には精緻な冠が乗っている。
 いつの日だったか、フェリクスが既に頭で輝かせたことがある冠だ。あの頃は正式な王ではなかったため、所有権が正式に移るのは今これからだ。
 荘厳な空気の中、二人は静かに跪く。

「フェリクス。精霊と対話をし、破滅の系譜を阻止した英雄よ。汝こそシアルワの――世界の未来を委ねるに相応しい。どうか、皆を導いてやってくれ」
「はい――必ず」

 金赤色の髪へ、冠が乗せられる。
 今この時より、シアルワの王は正式にフェリクスとなった。
 広間で見守る人々は、歓声をあげようとしてぐっと堪える。ドキドキと心臓が高まる音と、ごくりとつばを飲み込む音があちこちで聞こえてくるかのようだ。
 これは、戴冠式を兼ねた結婚式なのだ。
 つまり、本番は――。

「ミセリア。女神の神子たるフェリクスを救い、愛を勝ち取った乙女よ。汝こそフェリクスの伴侶に相応しい。どうか、我が国の希望をこれからも助けてやってほしい」
「はい。この身が滅ぶまで」

 ゼーリッヒは頷く。

「誓いを」

 フェリクスが立ち上がり、ミセリアの手を取る。彼女が引かれて立ち上がり、二人は向き合う形になる。
 夜空色の頭にかけられた薄いヴェールをそっと手に取り、フェリクスは口を開く。

「……出会ったあの日から、君から目が離せなかったよ」
「まぁそうだろうな」
「勘違いしてないよね? もちろん好きだからって意味だよ」
「ふふ、ホントの最初は違うかもしれないな?」
「うーん反論できない」

 小さく会話をした二人だが、その意味を知る者はほとんどいない。
 ミセリアが暗殺者としてフェリクスの前に現れたことは、国民には永遠に秘密だ。
 くす、と微笑んだミセリアへ、再び愛の言葉を告げる。

「――誓いをここに。我が名はフェリクス。汝、ミセリアを我が妃として向かい入れ、その権限を与えよう。いかなる時もこの国を、世界を想い、伴侶と共に心身を捧げることを誓えるか?」
「はい。我が名はミセリア。ただのミセリア。この国、世界をより良き未来へ導けるよう、貴方と共に生き、支え――全てを捧げることをここに誓います」

 ミセリアは口上の後でフェリクスの耳元へ顔を近づけ、小さく囁く。

「愛の証として、お前にだけ伝えるよ。私の本当の名は……ルーナ。太陽に照らされる月だ」
「照らすよ。これからもずっと、俺たちは対の存在だ」

 “ミセリア”とは故郷から引き離された後、暗殺組織から勝手に与えられた、いわばコードネームのようなもの。故郷の思い出を断ち、自らを律するために名乗り続けていた。
 しかし、母親から授けられた名を捨てたわけではなかった。
 ミセリアとしてフェリクスと出会った彼女だが、生涯ずっと“ミセリア”を名乗り続けるだろう。
 なぜなら、彼女はルーナではなくミセリアとして自分の運命に出会い、幸せと強さを勝ち取ることが出来たのだから。

 フェリクスは嬉しそうに目を細め、ミセリアの顔を両手で掬い上げる。そして、触れるだけのキスが落とされる。
 二人の視線が絡み合い、静かに溶けていく。


 セラフィは式場の後ろで儀礼用の槍を背に、その光景を見守っていた。
 静謐な美しさに、周囲と共に刹那の息を呑み――そして、祝いの拍手をしようと手を持ち上げた瞬間。

 ドン、と低く重い爆発音と同時に地が揺れた。

 ある者は椅子から転げ落ち、ある者は悲鳴をあげ、華やかな会場は一瞬にして騒乱に飲まれる。主役である二人へ視線を向ければ、フェリクスがミセリアを支えている様子が確認出来る。内心ホッとしつつ、セラフィは何が起きたのかと思考を巡らせた。
 音の出所は会場ではない。恐らくは外だ。しかし、城が揺れるほどの衝撃からしてかなり大きな爆発があったようだ。

 その時、コンと涼やかな音が悲鳴を上書きしていく。フェリクスだ。
 その手に大きな旗がある。実体を持たない幻影の旗。響いたのは、その石突を床に叩きつけた音だ。
 フェリクスは慌てることなく、よく通る声で呼びかける。

「みんな、落ち着いて聞いてくれ。――今から城の者に何が起きたか調査させる。無闇に外に出ず、ここで待っていて欲しい。騎士団は外の民衆を安全な所へ誘導するように。襲撃されたのが城ならシャーンスの教会へ、街なら一階の広間へ。何か分かったらすぐに報告を。安全を第一に考えて行動してくれ」

 強力な精神干渉能力を駆使してだろうか、空気が切り替わっていく様をセラフィは肌で感じた。水面に落とされた水滴が円状に波を広げるように、大丈夫だという心強さが伝播する。

「セラフィお兄ちゃん……!」

 そこへ、客席にいたはずのシャルロットが駆け寄ってくる。彼女の側にはレイも控えている。

「シャルロット、で……陛下の話を聞いただろう? 君はここにいてくれ。レイ君もいるから大丈夫」
「う、うん。それはそうなんだけど。……あのね、嫌な予感がするの」

 翡翠の目が不安に揺れた。

「私自身を拒絶してくるみたいな、そんな寒気がして……。前にシャーンスが襲われた時よりもずっとずっと怖いの。今までに感じたことがないこの感じ……どうしてもセラフィお兄ちゃんに伝えないとって思って、それで」
「ありがとう。僕も気を付けるよ。でも何があるか分からない。君はどうか殿下と、ここにいるみんなを守ってやって」
「……うん。気を付けて」

 妹の頭を撫でつつ、次はレイへと向き直る。

「レイ君、大丈夫だとは思うけど……万が一に備えて、シャルロットから離れないでやって。君がきっと一番の精神安定剤だからね」
「精神安定剤……は、はい。もちろんです」
「頼んだよ」

 シャルロットはまだ何か言いたげだったが、今は緊急事態。仕事を遂行するべきだ。
 にこ、と妹とその相手に笑いかけた後にセラフィは会場を後にする。あの爆発音の後は特に何も聞こえないし、揺れもしない。
 しかし、窓から外を覗き見ると中庭からどす黒い煙が立ち上っている様子が見えた。爆発事故か、それとも事件か。こんな大事な日に城で爆発が――しかも爆発物は置いていないはずの場所で火の手が上がることはないはずだ。後者の可能性が高い。
 周囲に気を配りつつ現場へ向かおうとした時、ふと淡藤色が脳裏をちらついて立ち止まる。
 体調が良くないと部屋で休んでいると聞いたが、彼女は無事だろうか。
 もう一度窓の外を見る。真っ先に動き出した騎士仲間の何人かがもう現場に辿り着いている。

「……」

 数瞬考えた後、セラフィは現場とは違う方向へ歩みを進めた。
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