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3章 寂しがり屋のかみさま
0 あってはならぬ邂逅
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あの少女の顔を見て思い出したことがある。
彼女とそっくりな姿形をした女。
自分をこの世界に連れてきた元凶。
そして、自由をつかみ取るべく動き出すきっかけとなった――美しき白金の女神。
その存在と邂逅したのは確か……自分にとって十年と少し前の記憶だ。
***
あの鳥は、どこへ行くのだろう。
それは少年がただ一人部屋で息をしている時のことだった。
課せられた宿題も終えて、運んできてもらった本も全て読み終え頭に叩き込み、何もすることがなくなった彼はただ座って空を眺めていた。どこまでも澄んだ蒼い空。白い――あれは鳩だろうか――鳥が二羽、並んで遠くへ飛んでゆく。
少年の知らない世界へ飛んでゆく。
自分はこの小さな部屋から動けない。外には流麗な甲冑を身に纏った大人たちが立っており、外に逃げ出すことを許さない。扉に触れでもした途端にこの手に枷をはめ、畏怖混じりの眼差しをもって詰るに違いない。「外出許可は出ていません」――つまり、勝手に逃げ出すことは許さないと。
言ってしまえば、少年はこの部屋に軟禁されていた。大人たちの思惑に利用されるためだけに一族虐殺の末に連れてこられ、よく分からない教育を受ける日々。一族の何人かは何らかの理由で命を拾われたと風の噂で聞いたが、どうせろくな扱いを受けていないだろう。
笑顔を浮かべろ。優秀であれ。
生き残ったのは、この血筋の中で最も優秀だったから。その優秀さを買われて生かされた。もしも少年が一族の中で落ちこぼれであったなら、すでにこの命はなかっただろう。
今となっては生きている意味こそあまり感じないものの、特別死にたいという感情もなかった。
ただ。
生涯の自由を奪われた少年が、こっそりと蒼い空の向こうに思いを馳せていているのは確かだった。
あの空の向こうには、きっと自分の求める自由がある。きっと自分を愛してくれるヒトがいる。
十にも届かない少年の、冷め切った表情の下には子どもらしい夢物語が渦巻いていた。
ふと気配を感じ、少年は扉の方を振り向いた。
そこに立っていたのは女性だ。扉が開けられた音は一切なかったのに、何故かそこに居る。
年は成人を少し超えた辺りか。膝よりも長い白金の髪と、柔らかそうな白いワンピース。全身が仄かに発光している点からただの人間ではないことが窺える。
幼い頃に母親が何度も語った神話の女神様を彷彿とさせる美貌であった。かつて世界の創世神と肩を並べ、今は対立している別世界の神々。そのうちの一柱は見たこともないほど美しい白金の髪と翡翠の瞳を持つ慈悲深き女神だという。
その神話通り、鮮やかな翡翠の双眸が真っ直ぐに少年を見つめていた。
「あなたが、この世界の大神子ですね」
「大神子?」
「えぇ。哀れな神の愛し子よ。わたくしは――」
澄んだ声音に、表情に、彼女の全てから憐憫が滲み出ていた。
「あなたを、連れ出しに来ました」
自分が、彼女の言う神――この世界を掌握する神と縁を持つ血を持っているからだろうか。
有無を言わさぬ強気な温情に、めまいを覚えた。
突然現れて名乗りもせずに手を差し伸べてくるこの女に、何故か腹の底から苛立ちが沸き起こる。軟禁状態になってから押し殺してきた怒りが何故か蘇る。
この女とはわかり合えないと、そう感じた。やりとりからではない。本能からだ。対立しあうという神々からの遺伝子なのか……視線を合わせただけで沸騰しそうになる心の内に、同時にささやかな驚きも抱いた。
――自分は、怒ることができるのだ、と。
相手がどう思っているか知らないが、女性はただこちらを見つめてくる。
「ここにいてはいけない。ここはやがて地獄と化す。貴方を媒介に、毒にまみれた世界となる。――それが、どうしても見過ごせなくて。ですから、あの空の向こうへ逃げましょう。わたくしの世界へ逃げましょう。 どうか、この手をとってください」
表情には出さないものの、怒りは収まらない。
しかし、癪だったとしても――この女性から与えられる自由であったとしても。
やはり、あの空に焦がれる心には、抗えなくて。
「神の都合で奪われても良い自由など、ありはしないのに」
小さく呟かれた言葉に首を傾げつつ、少年は吸い寄せられるように立ち上がり、小さな手を女性の手に重ねた。
久しく感じていなかった人の温もりが、その時ばかりは心地よく感じられた。
***
広がる夜の曇天を一人見上げて、レガリアは血赤の瞳を眇めた。
否、正確には一人ではない。心の内にもう一人、自ら望んで生み出した別の人格も視覚を共有しているはずだ。まぁ、築き上げた巨大な術式は綺麗ではあるものの、曇天は特段綺麗でもなんでもない。
夜が明ければ晴れてくれるだろうか。そうしたら彼も喜んでくれるだろうか。
「ねぇ、レイ。僕らの大仕事が終わったら、一緒に旅でもしようか。行き先は考えてないけれど」
答えはない。
期待してもいない。これはただの独り言だ。
「こっちに連れてこられてからさ、成り行きではあったけど神様の力を手に入れたんだ。これで自由に空を飛べる。空の向こうにだって行ける。ようやく自由を得られるんだよ」
結局のところ、あの女性に連れてこられた先では軟禁とは別の地獄のような日々が待っていた。どういうわけか目覚めた先に彼女の姿はなく、しばらくして知らされたのは彼女はこの世界のために姿を消したのだということ。瘴気とやらの浄化に尽力し、身体を焼かれ続けているらしい。
テラの口からそう語られて心が凪いでいった感覚を今でも鮮明に思い出せる。
彼女が言っていた毒の正体は分からないが、多分瘴気のことなのだろう。あちらの世界にいたら瘴気が満ちると言われて来たが、こちらでも結局同じではないか。
あぁ。やっぱり。
「うそつき」
どの世界でも自分の自由などありはしない。
ならばいっそのこと、自分でつかみ取ろうと思い立った。そのためならば人道に反することも画策して実行した。ようやくここまで来た。結果がようやく蕾から花開こうとしている最中。
それなのに、今になってあの女性を――女神を彷彿とさせる少女が立ちはだかるとは。
気を奮い立たせて、薄い唇をつり上げる。
「もう誰の手も借りない。僕は、僕らは自分であの空の向こうへ行くんだ」
これは、後に己の運命を呪って神に成り代わることを決意した少年の――ささやか過ぎる動機。
彼女とそっくりな姿形をした女。
自分をこの世界に連れてきた元凶。
そして、自由をつかみ取るべく動き出すきっかけとなった――美しき白金の女神。
その存在と邂逅したのは確か……自分にとって十年と少し前の記憶だ。
***
あの鳥は、どこへ行くのだろう。
それは少年がただ一人部屋で息をしている時のことだった。
課せられた宿題も終えて、運んできてもらった本も全て読み終え頭に叩き込み、何もすることがなくなった彼はただ座って空を眺めていた。どこまでも澄んだ蒼い空。白い――あれは鳩だろうか――鳥が二羽、並んで遠くへ飛んでゆく。
少年の知らない世界へ飛んでゆく。
自分はこの小さな部屋から動けない。外には流麗な甲冑を身に纏った大人たちが立っており、外に逃げ出すことを許さない。扉に触れでもした途端にこの手に枷をはめ、畏怖混じりの眼差しをもって詰るに違いない。「外出許可は出ていません」――つまり、勝手に逃げ出すことは許さないと。
言ってしまえば、少年はこの部屋に軟禁されていた。大人たちの思惑に利用されるためだけに一族虐殺の末に連れてこられ、よく分からない教育を受ける日々。一族の何人かは何らかの理由で命を拾われたと風の噂で聞いたが、どうせろくな扱いを受けていないだろう。
笑顔を浮かべろ。優秀であれ。
生き残ったのは、この血筋の中で最も優秀だったから。その優秀さを買われて生かされた。もしも少年が一族の中で落ちこぼれであったなら、すでにこの命はなかっただろう。
今となっては生きている意味こそあまり感じないものの、特別死にたいという感情もなかった。
ただ。
生涯の自由を奪われた少年が、こっそりと蒼い空の向こうに思いを馳せていているのは確かだった。
あの空の向こうには、きっと自分の求める自由がある。きっと自分を愛してくれるヒトがいる。
十にも届かない少年の、冷め切った表情の下には子どもらしい夢物語が渦巻いていた。
ふと気配を感じ、少年は扉の方を振り向いた。
そこに立っていたのは女性だ。扉が開けられた音は一切なかったのに、何故かそこに居る。
年は成人を少し超えた辺りか。膝よりも長い白金の髪と、柔らかそうな白いワンピース。全身が仄かに発光している点からただの人間ではないことが窺える。
幼い頃に母親が何度も語った神話の女神様を彷彿とさせる美貌であった。かつて世界の創世神と肩を並べ、今は対立している別世界の神々。そのうちの一柱は見たこともないほど美しい白金の髪と翡翠の瞳を持つ慈悲深き女神だという。
その神話通り、鮮やかな翡翠の双眸が真っ直ぐに少年を見つめていた。
「あなたが、この世界の大神子ですね」
「大神子?」
「えぇ。哀れな神の愛し子よ。わたくしは――」
澄んだ声音に、表情に、彼女の全てから憐憫が滲み出ていた。
「あなたを、連れ出しに来ました」
自分が、彼女の言う神――この世界を掌握する神と縁を持つ血を持っているからだろうか。
有無を言わさぬ強気な温情に、めまいを覚えた。
突然現れて名乗りもせずに手を差し伸べてくるこの女に、何故か腹の底から苛立ちが沸き起こる。軟禁状態になってから押し殺してきた怒りが何故か蘇る。
この女とはわかり合えないと、そう感じた。やりとりからではない。本能からだ。対立しあうという神々からの遺伝子なのか……視線を合わせただけで沸騰しそうになる心の内に、同時にささやかな驚きも抱いた。
――自分は、怒ることができるのだ、と。
相手がどう思っているか知らないが、女性はただこちらを見つめてくる。
「ここにいてはいけない。ここはやがて地獄と化す。貴方を媒介に、毒にまみれた世界となる。――それが、どうしても見過ごせなくて。ですから、あの空の向こうへ逃げましょう。わたくしの世界へ逃げましょう。 どうか、この手をとってください」
表情には出さないものの、怒りは収まらない。
しかし、癪だったとしても――この女性から与えられる自由であったとしても。
やはり、あの空に焦がれる心には、抗えなくて。
「神の都合で奪われても良い自由など、ありはしないのに」
小さく呟かれた言葉に首を傾げつつ、少年は吸い寄せられるように立ち上がり、小さな手を女性の手に重ねた。
久しく感じていなかった人の温もりが、その時ばかりは心地よく感じられた。
***
広がる夜の曇天を一人見上げて、レガリアは血赤の瞳を眇めた。
否、正確には一人ではない。心の内にもう一人、自ら望んで生み出した別の人格も視覚を共有しているはずだ。まぁ、築き上げた巨大な術式は綺麗ではあるものの、曇天は特段綺麗でもなんでもない。
夜が明ければ晴れてくれるだろうか。そうしたら彼も喜んでくれるだろうか。
「ねぇ、レイ。僕らの大仕事が終わったら、一緒に旅でもしようか。行き先は考えてないけれど」
答えはない。
期待してもいない。これはただの独り言だ。
「こっちに連れてこられてからさ、成り行きではあったけど神様の力を手に入れたんだ。これで自由に空を飛べる。空の向こうにだって行ける。ようやく自由を得られるんだよ」
結局のところ、あの女性に連れてこられた先では軟禁とは別の地獄のような日々が待っていた。どういうわけか目覚めた先に彼女の姿はなく、しばらくして知らされたのは彼女はこの世界のために姿を消したのだということ。瘴気とやらの浄化に尽力し、身体を焼かれ続けているらしい。
テラの口からそう語られて心が凪いでいった感覚を今でも鮮明に思い出せる。
彼女が言っていた毒の正体は分からないが、多分瘴気のことなのだろう。あちらの世界にいたら瘴気が満ちると言われて来たが、こちらでも結局同じではないか。
あぁ。やっぱり。
「うそつき」
どの世界でも自分の自由などありはしない。
ならばいっそのこと、自分でつかみ取ろうと思い立った。そのためならば人道に反することも画策して実行した。ようやくここまで来た。結果がようやく蕾から花開こうとしている最中。
それなのに、今になってあの女性を――女神を彷彿とさせる少女が立ちはだかるとは。
気を奮い立たせて、薄い唇をつり上げる。
「もう誰の手も借りない。僕は、僕らは自分であの空の向こうへ行くんだ」
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