久遠のプロメッサ 第一部 夜明けの幻想曲

日ノ島 陽

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夜明けの幻想曲 1章 黄金蝶の予言者

12 似ていたから

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 ここに実体は存在していないと頭では理解できている。何らかの機械が違う場所の映像を映し出しているだけだ。
 理解はしているのに、ミセリアは手を伸ばした。そうすれば八年共に過ごした姉のような存在である彼女に触れられるとでもいうように。
 その手はやはり届くことなく、虚空を切るだけになった。
 そんなミセリアを嘲笑うかのように、映像越しの不鮮明な足音が近づいてくる。
 ミセリアは目を見開きながら、フェリクスは睨みつけながら、その足音の主がケセラの前に立つ動きを見届けた。
 細身の、しかし背の高い男だ。露出の一切ない衣装を身に着けている。それはかつてミセリアが身に纏っていたものと似たものだった。頭部はフードで覆われ、顔は鈍く光る銀の仮面が装着されており、表情は伺えない。

「ようこそ、フェリクス殿下。わざわざこんな場所にまで来ていただいたというのに、茶のもてなし一つもなくて申し訳ない」

 男は仮面に阻まれて僅かにくぐもった声を発する。声の抑揚はないに等しく、感情はほぼほぼ感じられない。

「あなたは、この場所の長なのか」

 努めて冷静に、フェリクスは問いかける。この男の威圧感はさほどないが、只者ではないということくらいは分かっている。

「ふむ、正確にいえば君たちのいる地下施設を預かる者の一人、と言ったところか。生憎我々だけが管轄しているわけではないのでね」

 さらりとフェリクスの質問に答えた後、男はミセリアの方を向く。

「そしてミセリア。お前は確かに役割を全うした。賞賛に値することだ」
「え……」

 パチパチと手を叩き始めた男に、ミセリアは訳が分からないとばかりに言葉を失う。
 この男は何と言った? ミセリアに「フェリクスを暗殺しろ」などと言い、ミセリアが追い詰められれば始末しようとしてきたのに。任務を果たさずここまでフェリクスを守ってきた、守ろうと思ったミセリアに対してあるのは侮蔑の言葉だけだと思っていた。

「お前は我々の望み通り殿下をお連れした。お前が城の近くで殿下を殺すことが不可能なことくらい想定済みだ。いや、お前だけではないか。我が部下たちもできなかったであろうな。殿下には天才と謳われる騎士がついていたのだから」

 この男は第二王子であるソルテにつけた暗殺者たちでさえ捨て駒だとみなしていた、ということだ。
 なんて卑劣な男だろう、とフェリクスは睨みつける眼光を鋭くする。恐怖はあるものの、それよりも怒りの方が勝っていた。

「しかし……」

 ミセリアには、少し疑問が残る。

「何故だ。何故、そんな風にまでしてフェリクスの命を狙うんだ。王族からの依頼とはいえ、多くの同胞を犠牲にすることなんて今まで聞いたことがない」

 震える声で、ミセリアは問う。
 フェリクスを連れてくる、という任務が陰であったことが事実だったとしても、その理由が分からなかった。あまりにも無駄な行為なのだ。暗殺するだけならば、隙などいくらでもあったはずだ。セルペンスやノアが傍にいたとはいえ、物陰から矢のひとつでも放つことができたはずだ。遠距離専門の暗殺者もいたはずだ。

「そこまで答える義理があると思うか」

 空気が冷え込む。抑揚のない口調はそのままだが、びしびしと感じ取れた。

「さあミセリア、仕上げの時間だ」
「……今更、何をしろと言うんだ」

 男はフェリクスを指さす。声だけでなく、向こうにはこの部屋の様子も見えるらしい。

「フェリクス王子の暗殺」

 告げられたのは、ミセリアがかつて聞いた任務の内容と同じものだった。

「できるだろう? ここには邪魔者もいない。王子は抵抗する術を持たない。絶好の機会だ」

 少しの間、ミセリアは肯定も否定もできなかった。

「意味が、分からない……」

 声に出すことができたのは、それだけで。
 ミセリアが入り口で決意したことを自ら打ち砕け、と言うのか。よりにもよって、これまで人を殺めたこともない、王子暗殺もできなかった自分に。

「できないのか?」

 男はそう言うと、後ろを向いた。男に隠れていたケセラが再び画面に映る。

「あ……」
「おい! 何をするんだ!!」

 男は立ち位置をずらした。

「予想はできるだろう?」
「やめろ……」

 男はゆっくりと手をあげた。もったいぶっているのか、のろのろとした動きだ。ミセリアの反応を楽しんでいるかのようにすら見える。

「……やめろ!!!!」

 ミセリアの絶叫が届くことはなく、男の指先が天を刺す。
 その瞬間に、ぐったりとしていたケセラの身体が大きく跳ねた。

「うあっ!!! あああ!!!」

 うつむいていた顔が持ち上がり、緩んでいた包帯がはらりと落ち、瞳が露わになる。
 画面越しでも分かる、黄金の目。

「やめろ……やめてくれ……お姉ちゃんが、お姉ちゃんが死んじゃう!!!」

 ミセリアが画面にしがみつくかのように駆け寄る。声が枯れそうなほどの絶叫を迸らせながら。
 フェリクスは何もすることができなかった。
 それでも理解せざるを得なかった。ミセリアが助けたいと言っていたケセラと、彼女が置かれた境遇を。

「酷い」

 自然と口から洩れたのは、驚愕と怒りがごちゃごちゃと入り混じった感情だった。

「さあ、ミセリア」

 杭で穿つような呼び声に、ミセリアは手にしたナイフを落としそうになった。カタカタと震える手になんとか力を入れて、ナイフを胸元まで持っていく。落とさないようにするだけでも精一杯で。今はこのナイフが重く感じる。
 人の命を奪ったことのないそのナイフの、純粋な銀色が胸を抉ってくる気さえした。
 ぐらぐら、と天秤が揺れる。均等に釣り合っていたはずの思いが二つ、ぶつかり合う。

 殺せ。殺さないで。殺せ。殺さないで。殺せ。殺さないで。――殺したくない。

 ケセラの悲鳴が更に痛々しくなる。声を出すことも辛いだろうに、全身を蝕む痛みに逆らえないのだろう。このまま力尽きて、消えてしまうのではないかと思ってしまうくらいに。それは確信に近いと言ってもいい。あの美しい黄金の蝶と共に、どこかへ。

「ああ――」

 ミセリアはフェリクスを見た。
 ただ巻き込まれただけの王子は、戸惑いの光を揺らす瞳でミセリアを見つめ返した。

「フェリクス――」

 胸にナイフを抱いて、一歩踏み出した。カツン、と硬質な足音がやけに響いて感じられた。
 フェリクスは動かない。
 よろよろと近寄って、ナイフが左胸に突き刺せる位置に立っても、フェリクスは動かなかった。ミセリアが近づくにつれて瞳には静けさが宿り、ぼんやりとミセリアを捉えている。

「ごめん――」

 ナイフを握りしめる力を強める。

「私、お姉ちゃんを助けたいんだ」

 天秤が大きく傾いた。傾いてもなお大きく揺れている。決して消えることはない。
 それでも、腕を前に伸ばした。銀色のナイフの切っ先が、濃い赤色のジャケット――その奥に脈打つ心臓に向けられる。
 フェリクスは、ぼんやりとミセリアを見つめたままだ。

「ミセリアは」

 薄い唇が動き、フェリクスが反応を見せた。
 一度瞬きをする。瞼が開いた時にはガーネットの瞳に戸惑い、怯えの感情はなかった。

「お姉さんを、助けたい」

 フェリクスは眩しそうに目を細める。

「そうだ」
「そっか」

 朝と立場が逆だ、とミセリアは思う。
 ミセリアはぐちゃぐちゃになっているのに、フェリクスは何故か落ち着いている。夕暮れを思わせる堂々とした静けさをも感じさせる立ち姿だった。
 ミセリアはその理由も考える余裕はない。ぐ、と狙いを定める。終わらせれば、お姉ちゃんを助けることが――少なくともあの地獄から解放することができるのだ。たとえ一時だったとしても。

「フェリクス」

 にこ、と笑うフェリクスへ、自分はどんな顔を向けているのかも分からない。

「うわああああああ!!!」

 ミセリアは感情を溢れさせたままナイフを振り上げた。

「ミセ……リア……」

 画面の先にいるケセラがか細い声を発したことも気づかぬまま、ミセリアはナイフを勢いよく振り下ろした。



 一瞬の出来事だった。



「俺、あの時ミセリアが言いたかったこと分かったんだよ」

 あたたかな手がミセリアの手を包む。グローブ越しにも分かる、優しい温もりだった。
 ナイフに鮮血が伝う。柄からポタ、と雫になって落ちていく赤をミセリアは見開いた目で見ていた。

「王子としてじゃなくて、俺自身としての想いを聞きたかったんだよな」

 王子は、フェリクスはすっきりとした笑顔を浮かべていた。国民のことを想う張りつめていた表情は見当たらない。
 フェリクスはミセリアの手を包んでいた手を離し、彼女の頬に伸ばそうとして諦めた。自身から流れる血で汚れていたからだ。

「あああ……」

 ミセリアはナイフから手を離した。フェリクスに突き刺さったナイフは落ちることなく銀色を赤く染めていた。

「助けたいって思ったんだよ」

 そのナイフは心臓を貫くことはなかった。
 ミセリアの恐怖が切っ先をずらし、刺さったのは左の二の腕だった。
 それでも深々と刺さり、血を流させているのだから痛いのだろう。こんなにも血が流れている。薄汚れた床に水たまりのように溜まっていく。広がっていく。

「ミセリアをさ」

 フェリクスは迷うことなくナイフを抜き取った。ミセリアが止める間もなく、勢いよく。流石に顔をしかめたが、それを引っ込めて映像を映し出す機械へ歩み寄る。

「もう少し待っていてくれ。すぐそっちに行くからな」

 そう言うと、返事を待たずにフェリクスは自らの血に濡れたナイフを機械に突き刺した。ガッと柄まで刺さり、ざあざあと耳障りな音と少々煙臭いにおいを漂わせて機械は沈黙する。その途端、ケセラの悲鳴も、苦しむ様子も画面から消え失せる。
 ミセリアは崩れ落ちた。膝にフェリクスの血が付く。

「ミセリア」

 フェリクスが機械から離れて近寄ってくる。膝をついてミセリアと目線の高さを合わせる。

「ごめんなさい――」

 ミセリアの口から出てきたのは謝罪の言葉。傷つけてしまったフェリクスに対してなのか、助けられていないケセラに対してなのか、任務を果たすよう命じたあの男に対してなのか、あるいは全員か。フェリクスは分からなかったが、答えることにした。

「俺は、今のミセリアを見て確信したんだ。自分がどうしてここまで来てしまったのかを」

 フェリクスはスラックスで右手についた血を拭うと、ミセリアの頬に触れた。
 ケセラを、姉を助けたいと口にしていたミセリアを、助けたいがためにナイフを振り上げたミセリアを見て思ったのだ。一般的に見れば狂っているかもしれないその想いを自覚したのだ。

「俺、ミセリアのことが好きみたいだ」

 ミセリアのことを放っておけないと感じたのも恋心からくるものだったのだろう、と今なら言える。

「なんで……。私は、お前を殺そうとしたんだぞ。今こうして傷つけたんだぞ。それに会ってそんなに時間も経っていないじゃないか」

 今のミセリアはか弱い少女のように見えた。
 フェリクスは笑顔のままはっきりと伝える。

「一目惚れってやつだよ、きっと」

 それに、とミセリアの髪を梳きながら続ける。

「似ていたから」

 その声だけはごく小さなものだったが、ミセリアはぼんやりと聞いていた。

「似て……?」

 フェリクスは照れたようにミセリアから手を離し、自分の頬を掻く。深い傷を負っているのを忘れているかのように。

「そう、俺はミセリアに自分を重ねていた。それだけ」

 今のミセリアには分からない台詞ではあったが、フェリクスが本気であることはなんとなく分かった。
 熱い涙が溢れるのを感じた。
 フェリクスの大胆な告白に返事を返すこともできなかった。姉を助けることもできていない。何もできない自分が腹立たしくて、悲しくて。
 おずおずと伸ばされた手を拒絶することもできなかった。もっともそれは、拒絶する気はなかったが。
 背中に回された手が温かい。血に濡れた左腕全体はミセリアに触れないようにしながらもふわりと包み込んでくれる。とても温かかった。
 ミセリアは目を閉じた。
 この温もりの中にいれば、何もかも救ってくれるような気がして。

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