92 / 115
夜明けの幻想曲 3章 救国の旗手
29 プロメッサを再び
しおりを挟む冗談だよ、と口では言いつつフェリクスはミセリアの方へ頭を擦り付ける。初めて感じられた彼女からの温もりに安心して、つい目を細める。そしてすぐに表情を曇らせた。その視線の先には、傷から真っ赤な血を流すミセリアの左腕がある。
「ミセリア、腕が……」
「あの時のお前とお揃いだな」
「そうじゃなくて。早く手当をしないと」
「確かに。それじゃあこれを借りてもいいか?」
不安げに見上げるフェリクスの姿がなんだか新鮮でうっかり痛みを忘れてしまいそうなミセリアだったが、真新しく深い傷口は早く塞がなければならないだろう。ミセリアはフェリクスのマントを掴み、軽く持ち上げる。フェリクスは即座に頷くと、側に転がっていたナイフへ手を伸ばし、大きな布地を引き裂いた。上質な生地でできたそれをミセリアの左腕へあてがい、縛る。
「あの時と反対の状況だな」
「確かに。でももう君が傷つく姿を見たくはないよ」
「すまない。少しやりすぎたと自分でも思っている。……もう一つ、謝りたいことがある」
しゅんとしたフェリクスに向かってミセリアは自分の気持ちを口にした。今まで悩んだ末の後悔とともに。
「私はお前に救われて、私は何をしたら良いのか考えていた。そして思ったんだ。お前の成したいことのために手助けができる存在になろうと。今回もお前の愛する街が襲われて――守らないと、と思って先走ってしまった。そのせいでお前を一人にしてしまった。そのせいでお前は苦しい思いをした。フェリクス、すまない。私は、私は」
「ミセリア」
ゆるゆると首を横に振り、フェリクスはかすかな笑みを浮かべてミセリアの頬に手を添えた。美しい瞳に影を落とす長い睫毛が二度、三度瞬かれる。うっすらと濡れているように見える石榴石が夜空色のミセリアを映す。
「先走ってしまったのは俺もだよ。決してミセリアのせいなんかじゃない。俺の考えが甘かったからみんなに迷惑をかけるきっかけになってしまった。それは確かな事実だ」
いつの間にか流れていた涙が拭われる。そしてその手はミセリアに向かって差し伸べられる。少し自信なさげに、しかし優しさを滲ませながら。
「俺にはこの状況を鎮める責任がある。おこがましい願いだとは分かっている。でも言わせてくれ――ミセリア。もし良ければ、一緒に来てくれないか?」
お前というやつは、と微笑。
「当たり前だ。私からお前を助けるって約束したじゃないか」
差し伸べられた手を取る。
ほんの少しの間だったとは言え、フェリクスという太陽が陰るだけでこんなに不安になるとは思わなかった。暗殺組織から抜け出してからというものの、彼という存在が常に側にあってミセリアの存在を肯定し、本人の自覚はないかもしれないがミセリアを支え続けてくれたのだ。今になってミセリアはそう思う。
そんなフェリクスを完全に取り戻すことができて心の底から安心する。
あの日、あの夜明けの光を浴びながら交わした約束を今一度。
「今度こそ一緒に」
互いの手のひらから発せられる確かな温もりを感じながら立ち上がる。
この先待ち受ける壁を乗り越えるために。
フェリクスは旗を、ミセリアはナイフを繋いでいない方の手で握りしめて、濃い煙の向こうを見た。百八十度白色に囲まれていても、見るべき方向はなんとなく分かっていた。
くい、と先導したのはどちらだったか。二人が一歩ずつ歩んでいけば、対話をするべき人は白色の中に一人立ち尽くしていた。
長いスカートを握りしめた両手は真っ白で、フェリクスと同じ石榴石の瞳はカタカタと震えている。噛みしめた唇はついに切れて、鮮やかな赤色が一筋垂れた。
「貴方は私だけの救世主じゃないの、フェリクス」
「――ごめん、姉さん」
疑問のようにも言い聞かせのようにも聞こえる一言に、フェリクスは否定の意志を示した。今まで心配と家族愛を向けてきた姉へ向けた、初めての意志だった。
「俺は姉さんを救いたいよ」
「なら」
「今まで何も知らずにのうのうと生きてきてしまった。姉さんの苦しみを知らずに」
「そうよね」
「でも、外に出て分かったんだ。俺は――」
ベアトリクスは恐怖に震えていた。
今までひっそりとすがりついていた肉親、それも唯一自分への愛を向けてくれる弟がこの瞬間に口にしようとしているのは拒絶なのではないかと。そうしたら自分はどうして生きていれば良いのだろうか。生きている意味はあるのだろうか。あの塔から逃げるのに苦しみを味わった。正直死んでしまっても可笑しくはないと思うほどの激痛だった。
それでも耐えていられたのは、自分だけの愛が向けられていると信じていたからだったのに。
「嫌よ。嫌」
「……姉さん?」
「私は何のためにここまで生きているの? あれほど読み続けた物語の王女は王子様に救われてハッピーエンドを迎えられたというのに、同じ王女である私は救われないのね? 何年も憧れて、憧れて、それから精霊の血にも耐えたのに私は否定されるのね? それならば私なんて、私なんて――」
突然取り乱したベアトリクスの両目は大きく見開かれ、スカートを握っていた両手で今度は金赤色の髪を握りしめていた。頭を振って叫んでいた彼女はふいに動きを止めて、ふと表情に静かな陰りを見せた。
「死んでしまっていても、良かったじゃないの」
白かった煙に黒が混じり始める。ベアトリクスを基軸にしてそれはじわじわと辺りを侵食していく。時折ちらつく不気味な赤い光がまるで火の粉のようだった。
責め立てるかのように迫る煙から、フェリクスはミセリアを守るようにして腕に閉じ込めた。
「お、おい」
「駄目。これは触れちゃいけないものだ」
フェリクスは思い出した。ベアトリクスによって飲み込まれていた時、白金の長い髪の少女に纏わり付いていたものと同じものだ。彼女は蹲って泣いていたように見えた。
あの少女が女神であることはもう知っている。女神はこの黒い煙のような何かに嘆き、苦しみ、泣いているということだ。
女神ですら蹲るほどの代物だ、ただの人間であるミセリアが触れてしまったらどうなってしまうことか。フェリクスはミセリアを抱きしめる手の力を強めた。腕の中のミセリアはフェリクスのただならぬ表情を見て大人しくする。しかし視線はすぐにベアトリクスへ戻した。黒い煙を生み出す主は、昏い顔を俯かせることなくフェリクス達を見据えていた。
「姉さん、話を聞いてくれ! 俺は姉さんを救いたくないわけではないんだ!」
「フェリクス……フェリクス……私だけの救世主」
もう彼女にフェリクスの言葉は届いていない。心を閉ざしてしまっている。フェリクスと呼びはするものの、求めているのは救世主。弟の声は素通りしていく。
白い腕が伸ばされ、それと共に黒い煙も靡いていく。反射的にミセリアを突き飛ばそうとしたフェリクスだが、ミセリアは赤銅色のマントをキツく握りしめて離れない。
「一緒に、だ」
「へへ、ごめん。ありがとうミセリア」
二人は互いの存在を感じながら迫り来る黒に立ち向かった。間近に迫ったそれは、よくよく見れば黒と言うよりは暗い色の集合体とも言うべきなんとも言えない色を蠢かせていた。二人を飲み込んだそれに感触というものはない。そこにあるのかも定かではない。
『怖い』『助けて』『死ねばいいのに』『こんな世界に生きている意味はあるの?』『あいつさえ居なければ』『自分だけが幸せであれば良い』『他人の不幸は好ましい』『羨ましい』『妬ましい』『あれは私だけのもの』『どうして私は不幸なのだろう』『どうして』『未来なんてない』『くだらない』『馬鹿馬鹿しい』『愚かしい』『どうして私は』『どうしてあの子は』『あいつなんて』『私なんて』『我慢なんてしたくない』『今までやってきたことなんて無駄だったんだ』『奪いたい』『息をしていたくない』『狂っている』『狂ってしまえ』『嫌だ』『暗い』『寒い』『暑い』『痛い』『支配されたくない』『支配し尽くしたい』『私は救われたい』『独りでいたくない』『誰か側に居て』『明るい場所に行きたい』『私は、生きていたい』
老若男女の声。無数の棘となって心を刺し貫く狂気的な言葉たち。誰が言っているのかは分からない。分かりようがない。ただ一つ理解できたのは、このうるさい有象無象の中にベアトリクスの声が確かに混じっているということだ。
この騒音の中、たった一人きりでいれば気が狂ってしまうかもしれない。しかし、フェリクスもミセリアも負けることなど微塵も考えていなかった。
なぜなら、心から信頼できるパートナーの温もりが側にあるのだから。
0
あなたにおすすめの小説
婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない
柴田はつみ
恋愛
伯爵令嬢セシリアは、王宮の舞踏会で王太子レイヴンから公開の場で婚約破棄を言い渡され、その場で倒れた。
目覚めた彼女は、礼儀も常識も覚えているのに――ただ一つ、レイヴンだけを思い出せない。
「あなたは、どなたですか?」
その一言に、彼の瞳は壊れた。
けれどレイヴンは何も語らず、セシリアを遠ざける。彼女を守るために、あの日婚約を捨てたのだと告げられないまま。
セシリアは過去を断ち切り、王宮の侍女として新しい生活を始める。
優しく手を差し伸べる護衛騎士アデルと心を通わせていくほど、レイヴンの胸は嫉妬と後悔で焼けていった。
――守るために捨てたはずなのに。忘れられたまま、他の男に笑う彼女を見ていられない。
一方、王宮では“偽聖女”の陰謀と、セシリアの血に眠る秘密が動き出す。
記憶を取り戻せば、彼女は狙われる。取り戻さなければ、二人は永遠に届かない。
これは、忘れてしまった令嬢と、忘れられてなお愛を捨てられない王太子が、もう一度“選び直す”恋の物語。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました
いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。
子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。
「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」
冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。
しかし、マリエールには秘密があった。
――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。
未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。
「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。
物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立!
数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。
さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。
一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて――
「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」
これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、
ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー!
※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。
公爵令嬢は結婚式当日に死んだ
白雲八鈴
恋愛
今日はとある公爵令嬢の結婚式だ。幸せいっぱいの公爵令嬢の前に婚約者のレイモンドが現れる。
「今日の結婚式は俺と番であるナタリーの結婚式に変更だ!そのドレスをナタリーに渡せ!」
突然のことに公爵令嬢は何を言われたのか理解できなかった。いや、したくなかった。
婚約者のレイモンドは番という運命に出逢ってしまったという。
そして、真っ白な花嫁衣装を脱がされ、そのドレスは番だという女性に着させられる。周りの者達はめでたいと大喜びだ。
その場所に居ることが出来ず公爵令嬢は外に飛び出し……
生まれ変わった令嬢は復讐を誓ったのだった。
婚約者とその番という女性に
『一発ぐらい思いっきり殴ってもいいですわね?』
そして、つがいという者に囚われた者の存在が現れる。
*タグ注意
*不快であれば閉じてください。
生きるために逃げだした。幸せになりたい。
白水緑
ファンタジー
屋敷内に軟禁状態だったリリアは、宝物を取り戻したことをきっかけに屋敷から逃げ出した。幸せになるために。体力も力もない。成り行きに身を任せる結果になっても、自分の道は自分で選びたい。
2020/9/19 第一章終了
続きが書け次第また連載再開します。
2021/2/14 第二章開幕
2021/2/28 完結
悪役令嬢になるのも面倒なので、冒険にでかけます
綾月百花
ファンタジー
リリーには幼い頃に決められた王子の婚約者がいたが、その婚約者の誕生日パーティーで婚約者はミーネと入場し挨拶して歩きファーストダンスまで踊る始末。国王と王妃に謝られ、贈り物も準備されていると宥められるが、その贈り物のドレスまでミーネが着ていた。リリーは怒ってワインボトルを持ち、美しいドレスをワイン色に染め上げるが、ミーネもリリーのドレスの裾を踏みつけ、ワインボトルからボトボトと頭から濡らされた。相手は子爵令嬢、リリーは伯爵令嬢、位の違いに国王も黙ってはいられない。婚約者はそれでも、リリーの肩を持たず、リリーは国王に婚約破棄をして欲しいと直訴する。それ受け入れられ、リリーは清々した。婚約破棄が完全に決まった後、リリーは深夜に家を飛び出し笛を吹く。会いたかったビエントに会えた。過ごすうちもっと好きになる。必死で練習した飛行魔法とささやかな攻撃魔法を身につけ、リリーは今度は自分からビエントに会いに行こうと家出をして旅を始めた。旅の途中の魔物の森で魔物に襲われ、リリーは自分の未熟さに気付き、国営の騎士団に入り、魔物狩りを始めた。最終目的はダンジョンの攻略。悪役令嬢と魔物退治、ダンジョン攻略等を混ぜてみました。メインはリリーが王妃になるまでのシンデレラストーリーです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる