久遠のプロメッサ 第一部 夜明けの幻想曲

日ノ島 陽

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夜明けの幻想曲 3章 救国の旗手

29 プロメッサを再び

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 冗談だよ、と口では言いつつフェリクスはミセリアの方へ頭を擦り付ける。初めて感じられた彼女からの温もりに安心して、つい目を細める。そしてすぐに表情を曇らせた。その視線の先には、傷から真っ赤な血を流すミセリアの左腕がある。

「ミセリア、腕が……」
「あの時のお前とお揃いだな」
「そうじゃなくて。早く手当をしないと」
「確かに。それじゃあこれを借りてもいいか?」

 不安げに見上げるフェリクスの姿がなんだか新鮮でうっかり痛みを忘れてしまいそうなミセリアだったが、真新しく深い傷口は早く塞がなければならないだろう。ミセリアはフェリクスのマントを掴み、軽く持ち上げる。フェリクスは即座に頷くと、側に転がっていたナイフへ手を伸ばし、大きな布地を引き裂いた。上質な生地でできたそれをミセリアの左腕へあてがい、縛る。

「あの時と反対の状況だな」
「確かに。でももう君が傷つく姿を見たくはないよ」
「すまない。少しやりすぎたと自分でも思っている。……もう一つ、謝りたいことがある」

 しゅんとしたフェリクスに向かってミセリアは自分の気持ちを口にした。今まで悩んだ末の後悔とともに。

「私はお前に救われて、私は何をしたら良いのか考えていた。そして思ったんだ。お前の成したいことのために手助けができる存在になろうと。今回もお前の愛する街が襲われて――守らないと、と思って先走ってしまった。そのせいでお前を一人にしてしまった。そのせいでお前は苦しい思いをした。フェリクス、すまない。私は、私は」
「ミセリア」

 ゆるゆると首を横に振り、フェリクスはかすかな笑みを浮かべてミセリアの頬に手を添えた。美しい瞳に影を落とす長い睫毛が二度、三度瞬かれる。うっすらと濡れているように見える石榴石が夜空色のミセリアを映す。

「先走ってしまったのは俺もだよ。決してミセリアのせいなんかじゃない。俺の考えが甘かったからみんなに迷惑をかけるきっかけになってしまった。それは確かな事実だ」

 いつの間にか流れていた涙が拭われる。そしてその手はミセリアに向かって差し伸べられる。少し自信なさげに、しかし優しさを滲ませながら。

「俺にはこの状況を鎮める責任がある。おこがましい願いだとは分かっている。でも言わせてくれ――ミセリア。もし良ければ、一緒に来てくれないか?」

 お前というやつは、と微笑。

「当たり前だ。私からお前を助けるって約束したじゃないか」

 差し伸べられた手を取る。
 ほんの少しの間だったとは言え、フェリクスという太陽が陰るだけでこんなに不安になるとは思わなかった。暗殺組織から抜け出してからというものの、彼という存在が常に側にあってミセリアの存在を肯定し、本人の自覚はないかもしれないがミセリアを支え続けてくれたのだ。今になってミセリアはそう思う。
 そんなフェリクスを完全に取り戻すことができて心の底から安心する。
 あの日、あの夜明けの光を浴びながら交わした約束を今一度。

「今度こそ一緒に」

 互いの手のひらから発せられる確かな温もりを感じながら立ち上がる。
 この先待ち受ける壁を乗り越えるために。
 フェリクスは旗を、ミセリアはナイフを繋いでいない方の手で握りしめて、濃い煙の向こうを見た。百八十度白色に囲まれていても、見るべき方向はなんとなく分かっていた。
 くい、と先導したのはどちらだったか。二人が一歩ずつ歩んでいけば、対話をするべき人は白色の中に一人立ち尽くしていた。
 長いスカートを握りしめた両手は真っ白で、フェリクスと同じ石榴石の瞳はカタカタと震えている。噛みしめた唇はついに切れて、鮮やかな赤色が一筋垂れた。

「貴方は私だけの救世主じゃないの、フェリクス」
「――ごめん、姉さん」

 疑問のようにも言い聞かせのようにも聞こえる一言に、フェリクスは否定の意志を示した。今まで心配と家族愛を向けてきた姉へ向けた、初めての意志だった。

「俺は姉さんを救いたいよ」
「なら」
「今まで何も知らずにのうのうと生きてきてしまった。姉さんの苦しみを知らずに」
「そうよね」
「でも、外に出て分かったんだ。俺は――」

 ベアトリクスは恐怖に震えていた。
 今までひっそりとすがりついていた肉親、それも唯一自分への愛を向けてくれる弟がこの瞬間に口にしようとしているのは拒絶なのではないかと。そうしたら自分はどうして生きていれば良いのだろうか。生きている意味はあるのだろうか。あの塔から逃げるのに苦しみを味わった。正直死んでしまっても可笑しくはないと思うほどの激痛だった。
 それでも耐えていられたのは、自分だけの愛が向けられていると信じていたからだったのに。

「嫌よ。嫌」
「……姉さん?」
「私は何のためにここまで生きているの? あれほど読み続けた物語の王女は王子様に救われてハッピーエンドを迎えられたというのに、同じ王女である私は救われないのね? 何年も憧れて、憧れて、それから精霊の血にも耐えたのに私は否定されるのね? それならば私なんて、私なんて――」

 突然取り乱したベアトリクスの両目は大きく見開かれ、スカートを握っていた両手で今度は金赤色の髪を握りしめていた。頭を振って叫んでいた彼女はふいに動きを止めて、ふと表情に静かな陰りを見せた。

「死んでしまっていても、良かったじゃないの」

 白かった煙に黒が混じり始める。ベアトリクスを基軸にしてそれはじわじわと辺りを侵食していく。時折ちらつく不気味な赤い光がまるで火の粉のようだった。
 責め立てるかのように迫る煙から、フェリクスはミセリアを守るようにして腕に閉じ込めた。

「お、おい」
「駄目。これは触れちゃいけないものだ」

 フェリクスは思い出した。ベアトリクスによって飲み込まれていた時、白金の長い髪の少女に纏わり付いていたものと同じものだ。彼女は蹲って泣いていたように見えた。
 あの少女が女神であることはもう知っている。女神はこの黒い煙のような何かに嘆き、苦しみ、泣いているということだ。
 女神ですら蹲るほどの代物だ、ただの人間であるミセリアが触れてしまったらどうなってしまうことか。フェリクスはミセリアを抱きしめる手の力を強めた。腕の中のミセリアはフェリクスのただならぬ表情を見て大人しくする。しかし視線はすぐにベアトリクスへ戻した。黒い煙を生み出す主は、昏い顔を俯かせることなくフェリクス達を見据えていた。

「姉さん、話を聞いてくれ! 俺は姉さんを救いたくないわけではないんだ!」
「フェリクス……フェリクス……私だけの救世主」

 もう彼女にフェリクスの言葉は届いていない。心を閉ざしてしまっている。フェリクスと呼びはするものの、求めているのは救世主。弟の声は素通りしていく。
 白い腕が伸ばされ、それと共に黒い煙も靡いていく。反射的にミセリアを突き飛ばそうとしたフェリクスだが、ミセリアは赤銅色のマントをキツく握りしめて離れない。

「一緒に、だ」
「へへ、ごめん。ありがとうミセリア」

 二人は互いの存在を感じながら迫り来る黒に立ち向かった。間近に迫ったそれは、よくよく見れば黒と言うよりは暗い色の集合体とも言うべきなんとも言えない色を蠢かせていた。二人を飲み込んだそれに感触というものはない。そこにあるのかも定かではない。

『怖い』『助けて』『死ねばいいのに』『こんな世界に生きている意味はあるの?』『あいつさえ居なければ』『自分だけが幸せであれば良い』『他人の不幸は好ましい』『羨ましい』『妬ましい』『あれは私だけのもの』『どうして私は不幸なのだろう』『どうして』『未来なんてない』『くだらない』『馬鹿馬鹿しい』『愚かしい』『どうして私は』『どうしてあの子は』『あいつなんて』『私なんて』『我慢なんてしたくない』『今までやってきたことなんて無駄だったんだ』『奪いたい』『息をしていたくない』『狂っている』『狂ってしまえ』『嫌だ』『暗い』『寒い』『暑い』『痛い』『支配されたくない』『支配し尽くしたい』『私は救われたい』『独りでいたくない』『誰か側に居て』『明るい場所に行きたい』『私は、生きていたい』

 老若男女の声。無数の棘となって心を刺し貫く狂気的な言葉たち。誰が言っているのかは分からない。分かりようがない。ただ一つ理解できたのは、このうるさい有象無象の中にベアトリクスの声が確かに混じっているということだ。
 この騒音の中、たった一人きりでいれば気が狂ってしまうかもしれない。しかし、フェリクスもミセリアも負けることなど微塵も考えていなかった。
 なぜなら、心から信頼できるパートナーの温もりが側にあるのだから。
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