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夜明けの幻想曲 3章 救国の旗手
32 人間と精霊
しおりを挟む良く晴れた展望室は静謐な空気に満たされていた。そこへ、涼しい風がそっと吹き込む。
フェリクスが一度瞬くと、そこには体格の良い男の姿が現れていた。青漆の髪と瞳、長い耳。胸に埋め込まれた宝石。大精霊ビエントが、そこに立っていた。ゆったりと整った顔に笑みを浮かべて、腰に手を添えてリラックスしている様子だ。
「まったく、アクアに何を吹き込まれたことやら。まぁいいさ、この場でお前達との決着をつけるとしよう」
ビエントはやれやれ、と肩をすくめる。アクアが介入していることは察しているらしい。それでも何も焦ってはいないようだ。
フェリクスは一歩前に歩み出る。それとともにふわ、と大きな旗が揺れた。
「アクアに聞いたよ。人間が知らなかった、この世界の真実を」
「そうか。……で? それでお前達はどうするんだ?」
ビエントは自嘲気味に笑う。
「瘴気を消すことはできない。あのお方ですら抑え込むことで精一杯だ。人間がいる限り瘴気はどんどん増え続けるだけ。いずれあの方が限界を迎えて溢れれば世界を蝕んで滅ぼすことだってあり得る。それでお前達に何ができるというんだ?」
怒りを滲ませた問いかけに、フェリクスも希望を滲ませた言葉で返答する。
「確かに人間は感情に揺さぶられやすい生き物だ。時に醜い感情を抱くことだってある。それが積み重なって瘴気になるというのなら、止める手段はないだろう。だって、それが人間なんだから」
ビエントの顔から笑みが消える。それでもフェリクスは続ける。
「それでも。それでも人間は醜い感情だけで生きているワケではない。俺は今まで綺麗で尊いものも見てきたよ」
「……」
「それならば、さ」
言い淀むことはない。
昔からそうだった。無謀な言葉であったとしてもそれは真っ直ぐで、みんなの太陽であり続ける。
「希望に満ちた感情を増幅させることができたなら、醜い感情を少しずつでも減らすことができるんじゃないかな」
まるで夢物語だ。この世界の人間全てを幸せにしてやる、というのだ。あまりにも無茶で無謀すぎる言葉――今の世界でそんなことを口にする人間がいようとは。
一度は冷めかけていたビエントも、これには笑うしかない。
小さく肩を震わせてくつくつと笑む。こんな変な人間と初めて出会ったかもしれない。
「面白いな、お前。ここ数千年の間、誰も達成することができなかった――それでも夢に描いたものをそういとも簡単に口にするとは。本当の馬鹿だ。……良いだろう、俺を笑わせたお前にチャンスを与えてやる」
ビエントは指を鳴らす。パチン、という音と同時に黄緑色の光を纏った風が集まり、一本の剣と化す。柄をしっかりと握りしめて、切っ先をフェリクスへと――人間へと向けた。
馬鹿にしたからといって視線は逸らさない。精霊に向かって戯れ言を言ってのけた勇気に対する敬意は示すべきだろう。
「お前がそんな世界を創ると言うのなら、人間達をそう導けると言うのなら。俺にその覚悟を見せてみろ、人間」
フェリクスの後ろでミセリアとベアトリクスがひっそりと顔を見合わせ、頷き合う。二人併せて軽くフェリクスの背中を小突く。フェリクスが振り向けば、確かな信頼をその表情から感じ取ることができた。
「私たちはお前を信じるよ、フェリクス。好きにぶつかれ。私も……」
「ミセリアは姉さんを頼むよ。ここは喧嘩を売った俺が行く」
「……任された」
「フェリクス、貴方の語った言葉は嘘偽りにはならないわ。でもどうか無事でいて」
嬉しくてフェリクスは頷いた。こうして信じてくれる人がここにいるのだから、なんだってできる気がする。
手にした旗をビエントへと向ける。そして視線もまた、かの精霊へと。
人間と精霊が対等に向き合った、初めての瞬間だったのかもしれない。
「ビエント。俺は、俺たちはお前に示してみせる。お前が望む覚悟ってやつを」
「せいぜい足掻けよ」
二人の視線の鋭さが増す。ミセリアがひゅ、と息を吐き出した時には既に始まっていた。
深いことは考えずに本能で動いているのだろうか。それとも、マグナロアでレオナに教わった動きが身に染みているのだろうか。フェリクスは迷うことなくビエントへと向かっていく。まるで戦いなれていない箱入りの王子とは思えない動きだ。
長い旗を槍のように握りしめてビエントの懐へと間合いを詰める。
一方のビエントは薄く笑んだまま剣で旗の攻撃を防ぐ。魔法による遠距離攻撃はしないつもりなのか、そういった気配はない。薄緑の残像が弾け、金属同士がぶつかり合う甲高い音が展望室に響き渡った。空気さえも震えているような気がする。
ビエントが攻撃する対象はフェリクスだけのようだった。ナイフを握りしめてベアトリクスを守るように立つミセリアへ視線と殺気が飛んでくることはない。それでも警戒は怠らないようにする。いつでもフェリクスの助けになれるよう、細心の注意を払いながら。
黄金に輝く光の粒子を辺りにまき散らしながらフェリクスは旗を突き出した。純銀で出来た旗頭は鋭利で武器にもなる。姿勢を低くしてそれを避けたビエントはフェリクスの足下を狙う。横に凪ぐ剣の軌跡がフェリクスの脚を切断することはない。その代わり地面に突き立てられていた旗の竿にぶつかり、再び音を立てる。
フェリクスは咄嗟に立てた旗を支えに上へと跳躍していた。長いマントがふわりと舞い、ビエントの身体を影で覆う。
ふと上を見上げたその先で爛々と輝く石榴石に、意図的に鎮めていた気分が高揚してしまいそうだった。この対峙に楽しさを感じるべきではないと分かってはいるが。
――ここまで真っ直ぐにビエントを睨み付けてきた人間は過去にいなかった。
人間がビエントを見るときは崇拝していたか、恐怖に歪んでいたか、憎しみに染まっていた時だけで。こんなに純粋に向かい合った人間なんて記憶にはない。
だからこそ、正々堂々と向かい合ってみたかった。
ビエント本来の性質が無意識のうちに引き出されていく。
「――感謝するぜ、人間」
上を舞うフェリクスを待ち構えながらビエントはただただ笑う。
「自分で言うのも可笑しいかもしれないが……お前、本当に昔の俺にそっくりだなぁ」
何度も何度も剣戟の音が響く。何度も何度もぶつかり合う。対等な関係で、互いに卑怯な真似をすることもなく。
それがしばらく続いていた。――そして。
再び金属音。
それと同時に世界が歪んだ。ゆらゆら、ゆらり。アズ湖の地下遺跡やラエティティアの花畑で見た光景とまったく同じ、過去に引きずり込まれる感覚。
それを感じたのはフェリクスとビエントだけだ。普段は交わったりぶつかったりすることがないはずの二種族が生み出した波紋が、視界を歪めていく。世界を映し出していく。
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