花は咲く

柊 仁

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中学生編

風薫る

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 数週間経つだけで、ここまで暑くなるものなのだろうか。
 今朝見た天気予報では最高気温は二十五度前後だと言っていたのに、肌を浸すようなこのジメジメとした暑さ、下手すれば三十度を超えてるのではないかと思う。

 というのも無理はない。何故ならここは盆地のど真ん中。いくら東北といえども夏は村中に熱気が溜まり蒸し風呂状態、冬は乾燥した冷風が押し寄せて外に出ることさえ出来ないという、気温の高低差に敏感な僕には最も合わない気候帯なのである。

 そんな地獄の日差しが照り付ける炎天下の中、僕は広大に広がる田畑を抜けて、山中にあるトンネルを一人歩いていた。
 トンネルといっても、東京とかで見るようなキロメートル規模の巨大で真新しいものではない。
 道幅は大人が三人横並びでやっと入れるかくらいの狭さで、周りを囲う赤レンガにはもうすっかり老朽化してしまったからか、緑色の苔がびっしりと生えていた。しかも、日中なのにも関わらず数十メートル先の出口が暗がりのせいで見えにくく、辺りを照らす照明さえも無い有り様だった。
 もはやトンネルというより「抜け穴」と言った方が似つかわしいこの道、普段なら通りたくも無いのだが、これから向かう目的地に着くにはここを通るのが一番の近道だと、幾ばあに教えてもらった。



 ザッザッザッと、地面を擦るスニーカーの音だけが暗闇の中で響く。
 何も見えない視界の中進むのは僕にとって憂慮で、少し怖かった。何故かこの光景が、普段の自分を見ているようで、出口のない一本道をただ彷徨っているだけな気がした。
 ここに来てやっと掴みかけていた答えにあの時僕の中の黒い何かが再び覆いかぶさったように、やっぱりこの道に終わりなんて無いのではないかと、そう思ってしまう。

 それなのに、何で僕はまたこうして歩いているのだろう。別にわざわざ外に出なくたっていいじゃないか。クーラーの効いた部屋で寝っ転がりながら本を読んで、お腹がすいたら幾ばあが作ってくれた料理を食べて、こんな風に汗なんかかくことのない怠惰な生活を送っていれば良かったじゃないか。思えば、外に出る度そんなことを思いながら後悔しているような気がした。それでも結局全てが終わって家路に着く頃には、後悔なんてすっかり消えて、代わりに心が少し温かくなっている。どうしてだろう。その時、虚空の中にふと彩恵の顔が浮かんだ。

 ……あぁ、そうか。こんな風になったのも、全部彼女と出会ってからだったなぁ。
 山に行ったり、海に行ったり、会う度に振り回されてきたけど、なんだかんだで僕のことを気にかけてくれていて、どんな時でも無邪気に笑うあの純粋な性格には少なからず勇気をもらっていた。口には出さなかったけれど、僕にとって彩恵は他とは違う、何か特別な存在になっていたんだ。
 それでも、彼女の口からあの四文字が出てきた時、僕の中で一つの疑念がちらついた。

 ——彩恵も、あいつらと同じなのだろうか。

 こんなこと、感謝している人に対して疑ってはいけないのは勿論分かっている。分かっているけど、あの四文字は誰もが思ってるより怖くて、残忍で、意味のないものだと僕はもう知っている。彩恵はそんなに深い意味を持たず、誤魔化しの為に言ったんだと思うけど、僕にとっては彼女の口から最も聞きたくない言葉だった。もうこれ以上、彼女のいるこの町で、「トモダチ」というたった四文字に縛られたまま過ごす訳にはいかなかった。それなのに……。

 強く擦り付けられた奥歯と奥歯の間から、ギシリという嫌な音が鳴る。それに無理矢理混ざり合うかのように、頭の中で古いレコードが流れた。

『俺達、”トモダチ”……だよな』

 ……もう、あんな思いはしたくない。
 どうか彩恵だけは違っていて欲しい。そう自分に言い聞かせて、今はこの感情を胸の中にしまった。

 そうこうしているうちにようやく出口に辿り着いた僕は、外に出る既すんでの所で足を止めた。
 ずっと暗闇の中にいたせいで、外から差し込んでくる日差しが異様に眩しい。僕は額に手を当てながら、辺り一帯をギラギラと照らす太陽を見上げた。
 やかましいほどに視界を遮ってくるそれに後悔こそ覚えていたが、突如目の前に広がった景色に、思わず感嘆とした声が漏れた。

「うわぁ……」

 それはまるで、絵画を上から眺めているような光景だった。
 大きな町の中に色とりどりの小さな米粒みたいな家が集まって、それを四方八方囲むように壮大な山々がどすんとそびえ立っている。そのさらに向こうでは、太陽の光に当てられて燦然と輝く大海原が、顔を覗かせていた。

 高い場所から見ると、こんなにも色んなものが小さく見えるのか……。なんか、一国の支配者にでもなった気分だ。
 僕は視界いっぱいに映る絵画に向かって、何度も瞼でシャッターを切った。

 ……それでも、一見静かなあの町にも、ちゃんと人は住んでるんだよなぁ。米粒みたいな集まりの中に、何千何万と人はいて、それぞれが何千何万通りの人生を送っている。仕事に行ったり、学校に行ったり、家事をしたり。もちろん僕もその何千何万の内の一人な訳で、他の人から見たらただの一般市民でしかないのだ。僕の素性なんて、誰も分かりはしない。でも、そんな素性もわからない人が集まって、この社会は成り立っている。その社会の中で、友達だとか、恋人だとか、僅かなつながりを見つけて、ようやく自分の居場所を確保する。今まで人間はそうやって何回も歴史を繰り返してきたのだ。

 そう考えると、この世界は僕が思ってるよりずっと広くて、まだまだ知らないことばかりだ。
 空も、海も、山も、川も、そして、自分自身の醜さも。

 僕は目の前の景色に、自分という存在がいかにちっぽけなのか思い知らされた気がして、何とも言えない気持ちになった。

「……っ」

 すると不意に、どこかで嗅いだことのあるような、懐かしい香りが鼻腔を抜けた。

 新緑の葉や湿った黒土、甘い木の実の匂い。目の前の自然が全て空気に溶け込んだような、そんな香りだった。こんなふうに風を感じる時、どんな匂いか言葉には表しづらいのが煩わしい。

 でも何故か、季節や場所が変わると、あぁ……今日はこんな匂いがするのかと感覚的に分かってしまう。今がちょうどその時だった。
 この大自然でしか味わうことの出来ない香り、九戸ここでしか味わえない香り。今までこんな匂い嗅いだはずも無いのに、懐かしいと思えてしまうのは何故だろう。

 僕はトンネルを吹き抜ける湿った風に押されながら、大きく深呼吸をした。

「……よし、あと少しだ」

 あちこちに生い茂るコナラの木が織りなす並木坂を降りながら、視線の遥か先に見える町を目指して僕は再び歩き出す。
 新緑に染まる山の中を、アブラゼミがやかましくその声を響かせる。それを中和してくれるかのように、遠くで微かに聞こえる川のせせらぎが心地よい。青々とした空には、雲よりも白い鳥が家族連れで羽を優雅に羽ばたかせていた。

 歩を進める度にワクワクが昂っていくこの感情。様変わりする山々。
 この時、僕はようやく気がついたのだ。移ろいゆく季節は、いつも身近にあるということに。
 東京にいた頃は気にも留めなかった周りの景色、僕は今まで過去にばかり囚われて、何も見えていなかったのかもしれない。
 ピントを合わせていなかっただけで、もうすぐそこまで来ていたのだ。
 夏は、僕をとっくに迎えていたのだ——。
 
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