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中学生編
潮騒
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ブオオオオオオン…………。
雄叫びのような力強いエンジン音が、アスファルトを這う。
人の気配すら感じられない静寂の中、その音だけがやけに響いていた。数十メートルおきに置かれた街路樹が、あっという間に過ぎ去っていく。
僕は今、町の臨海部に位置する県道を走っている。正確に言えば、健一さんが運転している原付バイクの荷台部分に乗せてもらっている。県道といえど、車通りは少なく、ぽつぽつと街灯が灯っているだけで辺りには目立った明かりも見当たらない。バイクに付属しているハロゲンライトを頼りに、連綿と続く夜の帳を掻き分けていた。
健一さんと二人きりになるのは初めてで、これがまた中々に気まずい。ただでさえ友達と言っていいのか分からない能天気な女との会話に苦労するのに、さらにその兄ともなると、話題を作ろうにも共通するものが見つからない。第一、僕はまだ健一さんのことを高校生で漁師を目指している良い人、くらいのことしか理解していないのだ。
一体この沈黙を埋めるにはどうすればいいのか、そんなことを考えながらかれこれ十五分は経過していた。
ふと見渡せば、右側にはいつか彼女と行った海岸が見えた。琥珀玉のような満月が、海面を淡いグラデーション色に照らしている。夜の海というのはまだ見たことがなく、僕はその新鮮さと美しさに目を奪われていた。
視線の向こうで、ウミネコが鳴いている。
すると、まるでそれに呼応するかのように、耳元から音の低い鼻歌が聞こえてきた。
押し寄せては引くさざ波のようなジャズ調のゆったりとしたメロディと、健一さんの優しく落ち着いた声音が、ゆるやかな潮風に乗って静寂の夜を漂う。
曲名こそ知らないものの、眼前に広がる景色とそれは見事にマッチしていて、さながら映画のワンシーンのようだった。
心地良い夜風に吹かれながら、のめり込むように、それを聞く。いっそこのまま眠ってしまいたかった。
やがて曲はサビを越え、クライマックスへと移る。歌声は単調に伸びていき、ゆったり、ゆったりと空気に溶け込むように消えていった。
月夜に再び沈黙が訪れる。だがこれは沈黙と言っていいのだろうか、どちらかといえば、コンサートを見た後のような、感動ゆえに起こる空虚感、寂寥感に近い。
しばらく余韻に浸っていると、静寂を拾い上げるように、健一さんが口を開いた。
「今日はありがとうな。彩恵に付き合ってくれて」
「……いえ、とても楽しかったです。けど……」
「けど?」
健一さんが尻目にこちらを見やる。
「死ぬほど疲れました……」
「だろうな」
冗談交じりに吐いたため息に、健一さんはハハハッと微笑んだ。
「あの祭りを初めて経験する人は皆そう言うよ。俺も最初はそうだった。何年も経験していくうちに自然と慣れていって、ようやくその地ならではの楽しさが分かってくるんだ。山車なら尚更な」
「……なんか、ちょっと分かる気がします」
現に、あの時僕が抱いていた感情はそれに近いものだ。疲労感の裏に、初めて経験する愉悦感を、身をもって感じた。それは祭りだけではなく、どんなことにも言える。食べ物や文化、人間関係。きっと人間はそうやって変化していきながら、今いる環境に慣れていくのだろう。
「……僕は、うまくやっていけるでしょうか」
気づけば、自嘲気味な笑みが漏れていた。
憂いを含んだ吐息が、健一さんの背中に触れる。
「もう十分出来てるよ。あの彩恵と仲良くやれてる奴なんてそうそういないぞ」
「別に仲良くないですよ。あいつが一方的にくるだけで。そもそも、何であんなに僕にこだわろうとするんですかね」
「……なんだ気づいてないのか。……まぁ、そうだよな」
ボソッとこぼした愚痴に健一さんは意外そうに目を丸めると、どこか腑に落ちたのか、虚空を見つめてフッと微笑を湛えた。その笑みの真意が分からず、僕は小首を傾げる。
「璃都、お前彩恵から何か聞いたか?」
「何かって、何をですか?」
「彩恵自身のことについて」
「いや、特には……」
そういえば、彩恵が自分の話をしているのをあまり聞いたことがないなぁと記憶を巡らせる。彼女が話すとすれば、いつも家族のことや中学の友達、食べ物の話題ばかりだった。僕はまだ、彼女の素性について知らないことが多すぎるのだ。今までうん、とか、はぁ、とか適当に話を聞き流してきたから全然気がつかなかった。本当は、ただ単に興味がないだけかもしれないけど。
「そうか……彩恵の奴、話してないのか……」
「……あの、何かあったんですか?」
「……」
僕の問いに、それきり健一さんは黙り込んでしまった。
対向車線から車が一台通り過ぎる。白銀色のライトのあまりの眩しさに、思わず目を瞑った。震動が遠ざかっていくのを耳で聴いて、恐る恐る目を開ける。視界にはまだ白っぽい残像が残っていたが、そこにはすでに静寂が満ちていて、再び二人だけの空間になった。
目の前で健一さんの背中が小さく揺れる。
「璃都、彩恵と仲良くしてくれてるお前だから、伝える」
表情こそ窺えないが、その声音はどこか寂しい響きを含んでいて、ほんの少し覚悟に満ちているようにも思えた。
僕は息を呑んで、健一さんの次の言葉を待った。
すうーっと息を吸って、吐く。
そして、重々しく発せられた一言。
「俺と彩恵は、本当の家族じゃないんだ」
雄叫びのような力強いエンジン音が、アスファルトを這う。
人の気配すら感じられない静寂の中、その音だけがやけに響いていた。数十メートルおきに置かれた街路樹が、あっという間に過ぎ去っていく。
僕は今、町の臨海部に位置する県道を走っている。正確に言えば、健一さんが運転している原付バイクの荷台部分に乗せてもらっている。県道といえど、車通りは少なく、ぽつぽつと街灯が灯っているだけで辺りには目立った明かりも見当たらない。バイクに付属しているハロゲンライトを頼りに、連綿と続く夜の帳を掻き分けていた。
健一さんと二人きりになるのは初めてで、これがまた中々に気まずい。ただでさえ友達と言っていいのか分からない能天気な女との会話に苦労するのに、さらにその兄ともなると、話題を作ろうにも共通するものが見つからない。第一、僕はまだ健一さんのことを高校生で漁師を目指している良い人、くらいのことしか理解していないのだ。
一体この沈黙を埋めるにはどうすればいいのか、そんなことを考えながらかれこれ十五分は経過していた。
ふと見渡せば、右側にはいつか彼女と行った海岸が見えた。琥珀玉のような満月が、海面を淡いグラデーション色に照らしている。夜の海というのはまだ見たことがなく、僕はその新鮮さと美しさに目を奪われていた。
視線の向こうで、ウミネコが鳴いている。
すると、まるでそれに呼応するかのように、耳元から音の低い鼻歌が聞こえてきた。
押し寄せては引くさざ波のようなジャズ調のゆったりとしたメロディと、健一さんの優しく落ち着いた声音が、ゆるやかな潮風に乗って静寂の夜を漂う。
曲名こそ知らないものの、眼前に広がる景色とそれは見事にマッチしていて、さながら映画のワンシーンのようだった。
心地良い夜風に吹かれながら、のめり込むように、それを聞く。いっそこのまま眠ってしまいたかった。
やがて曲はサビを越え、クライマックスへと移る。歌声は単調に伸びていき、ゆったり、ゆったりと空気に溶け込むように消えていった。
月夜に再び沈黙が訪れる。だがこれは沈黙と言っていいのだろうか、どちらかといえば、コンサートを見た後のような、感動ゆえに起こる空虚感、寂寥感に近い。
しばらく余韻に浸っていると、静寂を拾い上げるように、健一さんが口を開いた。
「今日はありがとうな。彩恵に付き合ってくれて」
「……いえ、とても楽しかったです。けど……」
「けど?」
健一さんが尻目にこちらを見やる。
「死ぬほど疲れました……」
「だろうな」
冗談交じりに吐いたため息に、健一さんはハハハッと微笑んだ。
「あの祭りを初めて経験する人は皆そう言うよ。俺も最初はそうだった。何年も経験していくうちに自然と慣れていって、ようやくその地ならではの楽しさが分かってくるんだ。山車なら尚更な」
「……なんか、ちょっと分かる気がします」
現に、あの時僕が抱いていた感情はそれに近いものだ。疲労感の裏に、初めて経験する愉悦感を、身をもって感じた。それは祭りだけではなく、どんなことにも言える。食べ物や文化、人間関係。きっと人間はそうやって変化していきながら、今いる環境に慣れていくのだろう。
「……僕は、うまくやっていけるでしょうか」
気づけば、自嘲気味な笑みが漏れていた。
憂いを含んだ吐息が、健一さんの背中に触れる。
「もう十分出来てるよ。あの彩恵と仲良くやれてる奴なんてそうそういないぞ」
「別に仲良くないですよ。あいつが一方的にくるだけで。そもそも、何であんなに僕にこだわろうとするんですかね」
「……なんだ気づいてないのか。……まぁ、そうだよな」
ボソッとこぼした愚痴に健一さんは意外そうに目を丸めると、どこか腑に落ちたのか、虚空を見つめてフッと微笑を湛えた。その笑みの真意が分からず、僕は小首を傾げる。
「璃都、お前彩恵から何か聞いたか?」
「何かって、何をですか?」
「彩恵自身のことについて」
「いや、特には……」
そういえば、彩恵が自分の話をしているのをあまり聞いたことがないなぁと記憶を巡らせる。彼女が話すとすれば、いつも家族のことや中学の友達、食べ物の話題ばかりだった。僕はまだ、彼女の素性について知らないことが多すぎるのだ。今までうん、とか、はぁ、とか適当に話を聞き流してきたから全然気がつかなかった。本当は、ただ単に興味がないだけかもしれないけど。
「そうか……彩恵の奴、話してないのか……」
「……あの、何かあったんですか?」
「……」
僕の問いに、それきり健一さんは黙り込んでしまった。
対向車線から車が一台通り過ぎる。白銀色のライトのあまりの眩しさに、思わず目を瞑った。震動が遠ざかっていくのを耳で聴いて、恐る恐る目を開ける。視界にはまだ白っぽい残像が残っていたが、そこにはすでに静寂が満ちていて、再び二人だけの空間になった。
目の前で健一さんの背中が小さく揺れる。
「璃都、彩恵と仲良くしてくれてるお前だから、伝える」
表情こそ窺えないが、その声音はどこか寂しい響きを含んでいて、ほんの少し覚悟に満ちているようにも思えた。
僕は息を呑んで、健一さんの次の言葉を待った。
すうーっと息を吸って、吐く。
そして、重々しく発せられた一言。
「俺と彩恵は、本当の家族じゃないんだ」
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