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第二十八話 後悔 -2
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空を飛び、人を殺すことがシグルドの職務だ。シグルドが少しでも迷えば仲間が死ぬ。だから、迷わずに引き金を引いた。
その結果として、ルインを守れたのだからそれはシグルドにとって、とても幸福なことだ。シグルドはそうやって何度も自分に言い聞かせた。ルインが生きていて――駆けつけるのが間に合って、本当によかったと心から思う。
だからこそシグルドは敵の兵士を殺したことに対して、後悔など欠片もしていなかった。むしろ、もっと早くもっと多くの敵兵を殺していれば、ルインをあんな目に会わせなくて済んだのに、と理性では思っていた。
それでも心のどこか深い部分では、ルインの前で人を殺したくないと思っていたのだろう。心臓のあたりが冷たく凍り付いたようで、戦闘で高揚した感情とは乖離したような感覚があった。
戦闘があった日の夜、いつものようにシグルドは一睡もできなかった。それどころか強い孤独感に苛まれ、何もする気が起きなかった。返り血塗れの戦闘服を着たまま、ぼんやりと虚空を見ていた。
そういう夜をこれまでシグルドは幾度も経験していた。その度に娼館に行き、娼婦を買っていたのだ。けれどもどういうわけか、今のシグルドは娼婦を買う気になれないのだ。
別に、ヴィンターベルクにいい娼館がないというわけではない――はずだ。ヴィンターベルクは帝国内でも屈指の城塞で、そこに所属する兵士は多い。そういう場所には娼婦が集まり、結果娼館の質も上がってくるものだった。
同僚たちからもそういった不満は聞かないから、まあ悪くはないのだろう。とはいえ、ヴィンターベルクの娼館街には一度も行っていないから、判断はつかないのだけれども。
シグルドはそんな自分の変化に戸惑いつつも、そう思ってしまうのも仕方がないことだと諦めてもいた。
何故ならば、ここにはルインがいる。これまでどこに行っても、誰に会っても動かなかったシグルドの心を惹きつけてやまない青年。
これまでルインにそういうあからさまな欲を抱いたことはなかったけれど、それでも抱きしめて眠るのはルインがいいと思ってしまったのだ。
だからこそ、差し出された手をシグルドは拒むことが出来なかった。
あの日、あの夜。シグルドはルインを抱いた。
冷え切った身体を抱きしめてくれたルインは、明らかにシグルドを慰めるためだけに身体を許してくれたのだ。寝台に押し倒すまで、シグルドは間違いなくルインに情欲を抱いたことはなかった。なかったはずなのに、痩せた身体を見てひどく興奮する自分がいた。
初めての行為に戸惑うルインは、煽情的で男の劣情を煽るには十分すぎるほどだった。何度もその甘い唇に口付けて、夢中になってその身体を味わった。
温かい腕がシグルドを抱きしめてくれて、泣きたくなるほど幸せだった。
まるで欠けていた何かが満ち足りていくような感覚。
あの夜はシグルドの人生において、間違いなく最も幸福で優しい夜だった。
おそらく、自分はルインのことが好きなのだろうと思う。これまで誰かに恋をしたことがないシグルドにとって、その感情を認識することはなかなか難しいことだった。けれども、一度自覚してしまえば、それ以外には適切な言葉は見つからなかった。むしろ、「好き」だなんて言葉では足りないくらいに、彼のことを想っていた。
――そんなルインを、こんな中途半端な関係のまま抱いてしまった。
その事実は、冷静になったシグルドに強い後悔を齎した。
シグルドはずっと夢の中の彼を探している。もちろんヴィンターベルクでだって娼館には行けなかったけれども、街には足を運び金髪碧眼の人物を探していた。
彼に会うことを諦めることは出来ない。もう何年も会いたいと思い、探し続けていたのだ。
ルインを愛しながらも、夢の中の誰かにも会いたいと思う。それは、とても不誠実なことだった。
翌日、朝日の中で眠るルインを見たとき、シグルドは自分の愚かさに愕然としたのだ。
ルインを愛しているから、ルインだけは絶対に抱いてはいけなかった。
隠しきれない後悔を滲ませたシグルドに、ルインはひどく優しかった。
全てをなかったことにして、今まで通りに振舞うことを提案してきたのも彼だ。
――忘れてください。あんなの、大したことじゃない。
そう言った彼の瞳が微かに揺れていたのは、シグルドの都合のいい勘違いなのだろうか。
シグルド・レーヴェはルイン・ネルケを愛している。
けれども、取り返しのつかない間違いを犯してしまった。
あの夜、ルインが何を考えていたのかは分からない。シグルドは聞かなかったし、ルインも何も言わなかった。
大切なものを置き去りにしたまま、シグルドとルインは一線を越えてしまったのだ。
だから、これまでの関係を壊さないために、なかったことにする他なかった。
シグルドには――いや、おそらくルインも同じように――それより先の未来を得るために、ふたりで進む覚悟がないままだったから。
その結果として、ルインを守れたのだからそれはシグルドにとって、とても幸福なことだ。シグルドはそうやって何度も自分に言い聞かせた。ルインが生きていて――駆けつけるのが間に合って、本当によかったと心から思う。
だからこそシグルドは敵の兵士を殺したことに対して、後悔など欠片もしていなかった。むしろ、もっと早くもっと多くの敵兵を殺していれば、ルインをあんな目に会わせなくて済んだのに、と理性では思っていた。
それでも心のどこか深い部分では、ルインの前で人を殺したくないと思っていたのだろう。心臓のあたりが冷たく凍り付いたようで、戦闘で高揚した感情とは乖離したような感覚があった。
戦闘があった日の夜、いつものようにシグルドは一睡もできなかった。それどころか強い孤独感に苛まれ、何もする気が起きなかった。返り血塗れの戦闘服を着たまま、ぼんやりと虚空を見ていた。
そういう夜をこれまでシグルドは幾度も経験していた。その度に娼館に行き、娼婦を買っていたのだ。けれどもどういうわけか、今のシグルドは娼婦を買う気になれないのだ。
別に、ヴィンターベルクにいい娼館がないというわけではない――はずだ。ヴィンターベルクは帝国内でも屈指の城塞で、そこに所属する兵士は多い。そういう場所には娼婦が集まり、結果娼館の質も上がってくるものだった。
同僚たちからもそういった不満は聞かないから、まあ悪くはないのだろう。とはいえ、ヴィンターベルクの娼館街には一度も行っていないから、判断はつかないのだけれども。
シグルドはそんな自分の変化に戸惑いつつも、そう思ってしまうのも仕方がないことだと諦めてもいた。
何故ならば、ここにはルインがいる。これまでどこに行っても、誰に会っても動かなかったシグルドの心を惹きつけてやまない青年。
これまでルインにそういうあからさまな欲を抱いたことはなかったけれど、それでも抱きしめて眠るのはルインがいいと思ってしまったのだ。
だからこそ、差し出された手をシグルドは拒むことが出来なかった。
あの日、あの夜。シグルドはルインを抱いた。
冷え切った身体を抱きしめてくれたルインは、明らかにシグルドを慰めるためだけに身体を許してくれたのだ。寝台に押し倒すまで、シグルドは間違いなくルインに情欲を抱いたことはなかった。なかったはずなのに、痩せた身体を見てひどく興奮する自分がいた。
初めての行為に戸惑うルインは、煽情的で男の劣情を煽るには十分すぎるほどだった。何度もその甘い唇に口付けて、夢中になってその身体を味わった。
温かい腕がシグルドを抱きしめてくれて、泣きたくなるほど幸せだった。
まるで欠けていた何かが満ち足りていくような感覚。
あの夜はシグルドの人生において、間違いなく最も幸福で優しい夜だった。
おそらく、自分はルインのことが好きなのだろうと思う。これまで誰かに恋をしたことがないシグルドにとって、その感情を認識することはなかなか難しいことだった。けれども、一度自覚してしまえば、それ以外には適切な言葉は見つからなかった。むしろ、「好き」だなんて言葉では足りないくらいに、彼のことを想っていた。
――そんなルインを、こんな中途半端な関係のまま抱いてしまった。
その事実は、冷静になったシグルドに強い後悔を齎した。
シグルドはずっと夢の中の彼を探している。もちろんヴィンターベルクでだって娼館には行けなかったけれども、街には足を運び金髪碧眼の人物を探していた。
彼に会うことを諦めることは出来ない。もう何年も会いたいと思い、探し続けていたのだ。
ルインを愛しながらも、夢の中の誰かにも会いたいと思う。それは、とても不誠実なことだった。
翌日、朝日の中で眠るルインを見たとき、シグルドは自分の愚かさに愕然としたのだ。
ルインを愛しているから、ルインだけは絶対に抱いてはいけなかった。
隠しきれない後悔を滲ませたシグルドに、ルインはひどく優しかった。
全てをなかったことにして、今まで通りに振舞うことを提案してきたのも彼だ。
――忘れてください。あんなの、大したことじゃない。
そう言った彼の瞳が微かに揺れていたのは、シグルドの都合のいい勘違いなのだろうか。
シグルド・レーヴェはルイン・ネルケを愛している。
けれども、取り返しのつかない間違いを犯してしまった。
あの夜、ルインが何を考えていたのかは分からない。シグルドは聞かなかったし、ルインも何も言わなかった。
大切なものを置き去りにしたまま、シグルドとルインは一線を越えてしまったのだ。
だから、これまでの関係を壊さないために、なかったことにする他なかった。
シグルドには――いや、おそらくルインも同じように――それより先の未来を得るために、ふたりで進む覚悟がないままだったから。
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