あなたの糧になりたい

仁茂田もに

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 律のアルバイト先は路地裏にある小さな喫茶店だ。
 店長が趣味でやっているような店で、おすすめはこだわりのブレンドコーヒー。そこで週に六日、水曜日の定休日以外全てのシフトに入っている。

「りっちゃん、これ余ったから持って帰りなさい」
「わ、ありがとうございます」

 オメガである律を雇ってくれた奇特な店長は、たまにこうやって店の余りものを持たせてくれる。律が売れない画家を養っていることを知っていて、だからこそ金がないことも分かってくれているのだ。

 もちろん、律の会社は副業は禁止だ。会社にばれたらオメガの律なんて一発でクビ。我ながら危ない橋を渡っているとは思う。

 けれども喫茶店は会社とはアパートを挟んで反対方向にあり、滅多なことでは会社の者は足を運ばないであろう立地にある。それが幸いしてか、今まで律の副業はばれたことはない。

 喫茶店からアパートまでは歩いて三十分ほどだ。電車を使えばもう少し早いが、そもそも自宅が駅から遠い。さした時間の短縮にもならず、ならばと節約も兼ねて律は毎日歩いて通勤していた。



「ただいま」
「おかえり」

 家に帰ると、呼びかけに応える声があった。
 暁斗は今日も絵を描いていた。けれどもキャンバスには向かっていない。胡坐をかいた膝の上にスケッチブックを置いて、鉛筆で何やら必死に描き込んでいた。

「ご飯食べた? ポテトサラダもらって来たよ」

 手に持ったビニル袋をキッチンに置いて振り向くと、いつの間にか手を止めた暁斗が律を見ていた。昼間見たアルファの視線とは違う、何の熱も籠らない瞳。切れ長で形のいい暁斗の瞳は、きっと律には想像も出来ないほど美しい世界を見ている。

「律」
「ん?」
「描きたい」

 描いていい? と問われて律は迷うことなくうん、と答えた。

「描いてくれるの?」
「ん」

 そこに座って、と言われて大人しく従った。
 普段は花や風景を描いている暁斗だが、ごく稀に人を――律を描きたがるときがある。大きな油絵を完成させた後や、筆が乗らないときなど、好きに書きなぐりたくなるのだという。

「どうしたらいい?」
「好きにしてていい。そこにいてくれたら」
「うん」

 膝を抱えて座った体勢で、律はしゃかしゃかと忙しなく動く手元を見ていた。
 白いスケッチブックに線が引かれ、どんどん「人」が形作られていく。

 長い前髪に、丸い頭。一重のくせに無駄に大きな瞳に小さな口。
 そこには少し俯いたまま座っている律がいた。

「すごい」

 上手、と言うのはなんだか憚られて、律は口を噤む。
 暁斗と同居を始めて四年が過ぎている。誰よりも近くで彼の絵を見てきた律であるが、彼が自分以外の「人物」を描くところを見たことがなかった。たぶん、暁斗が描くのは律だけだ。

 それがたとえ鉛筆で戯れに描かれたものだったとしても、暁斗にとって律が特別であると言われているようでなんだか面映ゆい。

 スケッチブックから視線を上げると、暁斗と目が合った。
 真剣に律とスケッチブックを見て、そこに律を描いていく。
 律は動かず、暁斗とその手元をじっくりと眺めていた。

 描き始めて数十分後。出来た、という小さな呟きとともに「律」は完成した。
 スケッチブックの中の人物は足を抱えて、俯いたまま微かに微笑んでいた。照れ臭そうに、けれども心の底から幸せそうに笑うその表情は、まさしく先ほどの律だ。

 ――暁斗から見た自分は、こんな風に笑っているのか。

 まるで好きと言う感情が溢れて、そのまま形になったような「律」。思いがけず、そんな自分を客観的に見ることになって、律は思わず頬を染めた。

 暁斗との生活は静かでひどく穏やかだ。一緒に暮らしているが、暁斗と律は恋人同士ではなかった。もちろん番でもない。

 本当にただの同居人なのだ。けれども、たまにセックスはする歪な関係。

 他人からは絶対に理解してもらえないであろう、たったふたりだけの関係に律は何の不満もなかった。ただ暁斗のそばで、彼の描く絵を見られるだけで満たされるし、幸せなのだ。

 それなのに、たまにこうして暁斗は律を描いてくれる。
 それは律にとって過分すぎる幸福で、暁斗のことが好きすぎてどうにかなってしまいそうだった。

「綺麗。暁斗、ありがとう」
「俺が描きたかったから。でもそんなに喜んでくれるなら、そのうちちゃんと色も塗りたい」
「ほんと? じゃあ、期待しないで待ってる」

 暁斗は気まぐれだ。日向の猫のように移り気で、そのときの気分だけで生きていている。
 今は気まぐれに律のことが描きたかったのだろうけれど、その気持ちは長くは続かないだろう。

 元々、植物や風景を描く方が好きな暁斗だ。彼の言葉が実現しないことは、律が一番よく知っている。だからこそ曖昧に律は微笑んだ。

「それより、ご飯食べよう。お腹空いてない?」
「うん。その後で髪、切って欲しいんだけど」
「いいよ。ずいぶん伸びたもんね」

 スケッチブックを置いてもそもそとテーブルに移動する暁斗が、うっとおしそうに自らの前髪をかき上げた。ろくな手入れもしていない黒髪は艶やかで、現れた額は息を飲むほど美しい。凛々しい眉から繋がるすっきりとした目鼻のラインは、神様がさぞや力を入れて造ったのだろうというような形をしている。

 昼間に会った栗原というアルファといい、どうしてこうアルファという生き物は無駄に顔がいいのだろうか。

 そんなすこぶる美形の暁斗の髪の毛を切るのは、もうずいぶんと長い間律の仕事だった。

 誘われれば不特定多数と簡単に寝る暁斗だったが、その実、人に触れられることはあまり好まないようだった。けれども、長いこと同居している律だけは例外のようで、髪を切るのも身体を洗うのも、嫌がることなく好きにさせてくれる。

 しかし、そこに特別な感情があるわけではない。
 狭い部屋でふたり毎日顔を合せているのだから、人に慣れない野良猫のような暁斗でも律に警戒心を抱かないだけのことだ。もしくはセックスの相手まで務める便利な家政婦くらいに思っているのだろう。



 律が暁斗と同居を始めたのは、暁斗が大学を卒業した年の初夏ことだ。
 春が終わり、若葉の頃を過ぎた雨の季節。律は行き場のなかった暁斗を拾って、そのまま連れて帰った。

 秋の学園祭で出会ったとき、律は暁斗と連絡先を交換していた。だからといって、頻繁に連絡を取り合っていたわけではない。

 律の就職が決まったり、暁斗の卒業制作発表会の日程を教えてもらったりと、折々にメッセージを送ってはその返信をもらっていただけだ。もちろん、連絡先を聞いたのは律の方からだったし、暁斗からメッセージを送ってくることはない一方的な関係だった。

 そんな友人とも言えない律にまで宿を借りようとするのだから、あのときの暁斗は本当に困っていたのだろう。

 暁斗の実家はいくつかの会社を経営する名家で、暁斗はその跡取りだった。

 ――絵を描くのは大学まで。

 そういう約束で芸術大学に通わせてもらって、卒業後は家の経営する会社に入社する。そして、ゆくゆくは役員を経て代表取締役に就任すること。それが実家が暁斗に用意した将来だった。

 貧しい律からしてみればそれは垂涎ものの「未来」であったが、当の暁斗にはそれが出来なかった。絵を描くことをやめられなかったのだ。

 当然、就職することを拒んだ暁斗を家族は許さなかった。それまで住んでいたマンションを引き払い、潤沢だった仕送りを止めた。そうすれば、いくら暁斗とて諦めて家に戻ってくると思ったのだろう。

 しかし、暁斗は暁斗らしからぬ意地を見せた。両親の制止を振り切り、連絡を絶ったのだ。
 もしかしたら、世間知らずな面のある暁斗は、両親の援助がなくてもやっていけると考えたのかもしれない。

 暁斗本人は贅沢に興味がないとはいえ、芸術には金がかかるものだ。画材は基本的に高額で、暁斗はあっという間に困窮した。もちろん住む家もなく、知り合いの家を転々としていたようだった。

 しとしとと降り続く雨の中、律を訪ねて来た暁斗はずいぶんとくたびれた様子で、その手には僅かな荷物と大切そうに抱えられた画材たちがあった。まるで捨てられた犬のような風情の暁斗に、手を差し伸べないなんて選択肢はなかった。

 ――狭いし古いけど、それでもいいならうちに住んで欲しい。

 家賃も生活費もいらない。暁斗はただ絵を描いていてくれればいい。
 律がそう言ったとき、暁斗は少し驚いた顔をしていた。

 ――何でそこまでしてくれるの。
 
 不思議そうに訊ねられて、律は暁斗の絵が世界で一番好きだからだ、と答えた。
 暁斗はまた不可解そうに首を傾げたけれど、それでも迷うそぶりはなかった。たぶん、あのときの暁斗に、律の申し出を断る余裕はなかったのだ。

 律が暁斗を拾ったその日、暁斗は律に一枚の絵をくれた。宿なしの彼が持ち運んでいた小さなキャンバスに描かれた、紫陽花の絵。初めて目にした暁斗の絵と同じ青い紫陽花で、その絵もまた雨の中で生き生きと咲き誇っていた。

 それから約四年。律と暁斗はずっと一緒に暮らしている。

 絵だけを描いて生きている暁斗と、それを支えるために存在するような律との二人暮らしは、良くも悪くも穏やかだ。
 喧嘩することもなく、お互いに適度な距離感を持って生活している。



 在学中からいくつかの賞を取っていた暁斗は、小さな画廊と僅かばかりの繋がりがあるらしい。描いた絵は賞に出したり、その画廊に持ち込んで売れるのを待っている。たまに絵が売れれば、それが暁斗の少ない収入になるのだ。

 そうやって細々と絵が売れても、まだまだ無名の暁斗では自分の生活を支えるだけの稼ぎにはならないのが現状だ。

 暁斗の絵は素人の律が見ても十分素晴らしいものだ。
 色鮮やかで美しくて、心が洗われるような光の世界。そんな絵が安価な値段で取引されていることが、律はひどく悔しかった。

 暁斗の絵を世界中の人に見てもらいたい。
 そうすればきっと、人々は暁斗の絵を求めるに決まっている。

 彼の絵には命があり、世界がある。そのことに遠くない将来、多くの人が気づくだろう。

 けれども、そうなるときっと律は暁斗のそばにはいられなくなってしまう。
 絵の価値が上がり、高額で売れれば、暁斗を金銭的に援助するための律は必要ないからだ。

 律は暁斗の恋人でも番でもない。ただの同居人でしかないのだ。
 しかし、律はそれでもいいと思っていた。

 暁斗のそばにはいたい。暁斗の描く絵をその隣でずっと見守りたい。
 そう強く思うと同時に、彼の糧になれればそれでいいとも思う。



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