あなたの糧になりたい

仁茂田もに

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 律がその美術館に足を運んだのは、本当に偶然だった。
 その日は少し体調が良くて、だから施設の周辺を散歩してみようと思ったのだ。

 前日から降り続いた雨は明け方には上がって、空には青空が見えていた。だから、傘も持って行かなかった。
 天気予報を確認しなかったのは、律の落ち度だと思う。けれど、あんなに晴れていた空がいきなりどしゃぶりになるなんて、誰が想像するだろうか。

 雨上がりの散歩を楽しんでいた律は、あっと言う間にずぶ濡れになって慌てて近くの建物に避難した。それがこの美術館で、それ以来律は一年ほどここに通っている。

 美術館は市営の小さなもので、かつて律の故郷にあった美術館を彷彿とさせた。

 名前も知らない画家の絵が飾ってある常設展示と時折開催される特別展示。その中でも無料で入れる常設展示の一画にあるソファーに座って、日がな一日ぼんやりと過ごすのがここ最近の律のお気に入りだ。
 今日も律はのんびりと座って、目の前の絵を眺めていた。

「律さん、今日も来てたんですね」
「あ、石川さん」

 声をかけられて振り向くと、そこには人のよさそうなひょろりとした男が立っていた。
 この美術館の学芸員を務める石川だ。ずぶ濡れの律が美術館に飛び込んできたとき、驚きつつもタオルを貸してくれた親切なベータの男だった。

「体調は変わりないんですか?」
「はい。最近は少しよくて。こうして外にも出られてます」

 気遣わしげな石川に、律は微笑んだ。
 律が暁斗の元を離れてから、六年の月日が経っていた。

 あの古くて狭いアパートを着の身着のまま飛び出してから、律は地方のオメガ専用施設を転々としていた。あまり学のない律は知らなかったが、種の特性に翻弄されがちなオメガは様々な行政からの支援を受けられるらしい。

 今、律が身を寄せているのは番を失ったオメガのための施設で、そこで律は様々なオメガたちに出会った。多いのは、やはり番のアルファと死別したり捨てられたオメガだったが、律のように番から逃げて来た者もいた。

 多くのオメガたちがそれぞれに事情を抱えており、世間の目から隠れるようにひっそりと暮らせる。それがオメガ専用施設だった。

 この美術館はその施設の徒歩圏内にあり、暇つぶしに訪れるオメガも少なくない。
 この前、三好さんが来ましたよ、と石川に言われて律は笑って頷いた。
 彼に美術館を勧めたのは、他でもない律だったからだ。

「三好」というのは律と同じ施設に暮らすオメガだ。つい先日、このあたりでいい暇つぶし場所がないかと訊ねられたからお勧めしておいたのだ。

 この美術館にはカフェも併設されているから、絵に興味がなくても十分時間を潰せる場所だった。それ故、近隣住民からの人気も高く、田舎ながらそこそこの来館者がいるようだった。

 三好は律より十歳ほど若く派手な見た目をしたオメガで、最初は美術館なんてと文句を言っていたが、どうやらお気に召したらしい。時折、足を運ぶようになりいつの間にか石川とも顔見知りになっていた。

「今日、三好さんは?」
「ん~、今日は体調がよくなさそうで……」
「そうですか。それは残念です。元気になったら、また来てくださいと伝えてください」
「わかりました」

 石川の質問に、律は曖昧に答えた。
 その意図をすぐに察したらしい石川はそれ以上追及してこない。さすが、施設の近隣にある公共施設の職員だ。

 施設で暮らすオメガたちは、皆それぞれの事情を抱えている。しかし、彼ら全てに共通するのは「番を失ったオメガ」であるということだった。

 番を失ったオメガは、衰弱して長くは生きられない――と言われるのには理由があった。
 彼らの多くは失った番を探して、その発情期が暴走するからだ。

 本来であれば三か月に一度程度の周期で巡ってくるはずの発情期が、番を失ったオメガは不安定になり頻繁にやって来るようになる。

 知識では知っていたその特性を、律は暁斗の元を離れて初めて実感することになった。
 この六年間で律の発情期は驚くほど不安定になっていた。今では常に抑制剤を飲んでいても、月の半分ほどは突発的な発情がやって来る。しかも、それはかつてのように薬でコントロールできる類のものではなかった。

 いくら抑制剤を飲んでいても、発情期特有の性的な欲求が抑えられないのだ。
 身体が内側から焼かれているような激しい情欲に駆られ、泣きながら己を慰めるしかない。だから、抑制剤は現状認可されているものの中で、最も強い薬を内服している。

 それでもオメガたちが穏やかに余生を送れるようにと作られたのが、律たちのいるような施設で律もまたそこで体調を管理されながら暮らすオメガのひとりなのだ。



 施設は都市部から離れた片田舎にあった。
 オメガの発情期が乱れる要因として、精神的なストレスが大きいことは学術論文にも発表された有名な話だ。だからこそ、そのストレスを少しでも軽減するために、オメガ専用施設の多くは都会の喧騒から離れた田舎に造ってあるのだ。

 いつ発情するか分からないオメガたちを人里から隔離する、という意味合いもあるのかもしれない。

 山と田んぼの間にぽつんと建つ、セキュリティにこだわった無機質な白い建物。
 そこに続く小路を上っていると「りっちゃーん」と大きな声で名前を呼ばれた。顔を上げれば、建物の入り口に小さな人影がある。

 遠目からでも目立つピンク色の髪の人物が律に向かって大きく手を振っていた。その姿を認めて、律も彼に向かって手を振り返す。すると相手はぱたぱたと駆け寄って、律に抱き着いて来た。

「おかえり~」
「ただいま、伊織くん。発情はもう終わったの?」

 細い身体を慌てて抱き留めて律が訊ねると、伊織と呼ばれた青年は嬉しそうに頷いた。
 首に大きな首輪をつけた小柄な身体。大きな瞳に薄く形のいい唇。
 はっと息を飲むほど可愛らしい容姿をした彼は三好伊織という。先ほど石川との会話に出て来たオメガだ。

「新しく処方された薬がよく効いたの。半日くらいで治まったよ」
「そっか。それはよかったね」
「うん。りっちゃんは今日も美術館、行ってたの?」
「そうだよ。今度、特別展示があるんだって」

 伊織は自分の腕を律の腕にするりと絡ませて、施設の中へと促した。
 それに大人しく従いながら、律は人懐こい三好の様子に思わず笑みを浮かべた。

 伊織が施設にやって来た頃をつい思い出してしまったのだ。発情期に苦しんでいるとはいえ、かつてとは比べるべくもないほど元気になった姿は律を嬉しくさせた。

 伊織は一年ほど前にひどく衰弱した状態でこの施設にやって来た。番とはその少し前に死別したらしく、喪失の衝撃から立ち直れないままだったのだ。

 あの頃の伊織は食事もとらず、眠ることも出来ず、ただ人形のように虚空を眺めては涙を流していた。

 そんな伊織の世話を担当したのが律で、それ以来ゆっくりと回復していく伊織をそばで見守っていた。だからこそ彼の変化は感慨深かった。

 伊織が屈託なく笑う様子は、見ていると心が軽くなる。まあ、元気になっていきなり頭がピンクになったのは驚いたけれど。

 オメガの施設は基本的に自立したオメガたちの手で運営されている。食事や洗濯といった身の回りのことは自分たちでやるし、新しく来たばかりのオメガの世話も担当制だ。

 傷を抱えた者たちも役割があれば、自分で立たなくてはいけないのだ。
 この施設はオメガが穏やかに余生を送るためのものではあるが、立ち直り巣立っていくことを手伝うための施設でもあった。

「今度の特別展示、いつからあるの? 美術館の年間予定表には書いてなかったよね」
「なんか、突然決まったみたい。新進気鋭の画家の展示らしくて、人気があってようやく順番が回って来たんだって」

 揃って食事をとりながら、律と伊織はそんな会話をした。
 特別展示の情報元は昼間に会った石川だった。彼も誰かに話したかったのだろう。
 少し興奮した様子でずっと希望していた特別展が出来るようになったと話してくれた。

「ふぅん。りっちゃん、行けたら一緒に行こうね」
「うん」
「わぁ、楽しみだな~」

 伊織はその話を興味深そうに聞いて、にこにこしながら律を誘う。
 律に懐いた伊織は、何かと律と一緒に出かけたがるのだ。ふたり揃って体調がいいときなど、月に数日程度しかなく、約束はいつだって守られるか分からない。けれども律はその誘いに頷いた。

 伊織とだったら、その特別展示にも行ってみたいと思ったのだ。
 実のところ、暁斗の元を離れてから律は大好きだった絵画を見ることが出来なくなっていた。どうしても暁斗を思い出してしまうからだ。

 暁斗にもらったあの二枚の絵ですら見るのが辛くて、少ない荷物とともにクローゼットの中にしまい込んでいた。

 油絵の具の匂いや質感、色鮮やかな色彩など、それら全てが律に暁斗を連想させて胸が苦しくなってしまう。酷いときは発情すら起こすのだから、オメガというものは厄介だ。

 律は六年前のあの日以来、美術に触れることなく生きて来た。
 スマートフォンすら持っていないから、暁斗が今、絵を描いているかどうかも分からない。

 ひょっとしたら、あのまま筆を折ってしまったかもしれない。彼の現状を知ることが怖くて、調べることなんてとても出来なかった。

 けれど人はどれほど傷ついても、ゆっくりとではあるが回復するものらしい。

 ずっと避けていた美術館にまた行けるようになったのも、また絵を見てみようと思ったのも、それらは間違いなく伊織のおかげだった。

 伊織の番は交通事故で亡くなったのだという。
 律と違って望まない別れを経験した彼は、この一年間で目を瞠る回復を見せた。そのことに律も大きく励まされていた。

 だから、今回の特別展示も彼とであれば行けると思ったのだ。
 約束ね、と差し出された彼の小指に自らのそれを絡めて律は微笑んだ。伊織と絵を見に行くのがとても楽しみだった。


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