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面会は暁斗が隔離されている面会室で職員が同席するならば、とあっさりと許可が下りた。
施設長はベータであるが、長年この施設で働いているベテラン職員だ。さまざまなオメガと接してきた人だから、こういう事態には慣れているのかもしれない。
施設の面会室はオメガたちの居住区とは離れた場所にある。施設内は基本的にアルファの立ち入りは禁止だが、この部屋だけは例外として厳重なセキュリティの元入室が許可されていた。
面会室は白く清潔な部屋だった。
六畳程度の部屋の中にふたつのソファーとローテーブルだけが置かれている。
白い天井に、白い壁。そんな白一色の部屋の中で、暁斗は窓際のソファーに腰かけていた。
職員から暁斗には事前に抑制剤を飲んでもらっていると聞いていた。律も先ほど投与された抑制剤が効いているはずだった。
それなのに、部屋の中は暁斗の匂いで満ちていた。あの古くて狭いアパートで何度も嗅いだ匂いだ。
爽やかな香りに導かれるように律は面会室へ足を踏み入れた。
「律……!」
律の姿を見た途端、暁斗が立ち上がった。
その慌てた様子を見て、律の目からまた涙が溢れてくる。
「暁斗」
――暁斗。
律は何度もその名前を呼んだ。
縋るように伸ばされた腕を取り、その中に飛び込んだ。施設の職員が止める声なんて、聞こえてはいなかった。
「律、律。ようやく見つけた」
安堵するように言われて、律はその胸に額を擦りつける。背中に回した腕に精一杯の力をこめると、暁斗からもそれ以上の強さで抱きしめられた。
暁斗の姿を見ただけでこんなにも心が震える。声を聞くだけで胸が痛くなる。
この六年間、どうして暁斗から離れて生きていけたのだろうか。
ようやく見つけた己の半身。それを必死に抱きしめて暁斗が懇願する。
「律、帰ろう」
律の髪が微かに濡れる。律を呼ぶ暁斗の声は微かに震えていて、彼がどれほど律を求めているのかを教えてくれる。
暁斗は律を責めなかった。いなくなった理由も訊ねなかったし、この六年間をどうしていたのかも聞かなかった。
ただ、泣きながら律を抱きしめて、願うように言った。
「――俺たちの家に、帰ろう」
「でも、俺は……」
一度、暁斗を捨てたのに。
帰れるわけがない。暁斗の手を取ってはいけない。
そう律が言えば、暁斗は違うと首を振る。
「俺が律のことを何も分かってなかったんだ。あんなに律が俺のために、俺の絵のために尽くしてくれてたのに。簡単に絵をやめるなんて言うべきじゃなかった」
「暁斗……」
「絵を見てくれたんだろ。あの絵は俺の世界そのものだよ。――俺は、律がいないと息も出来ないし、絵だって描けない」
暁斗はゆっくりとその大きな手で律の髪を梳く。
そして、まるで願うように乞う。
「律が好きだ。伝えるのが遅くなってごめん。俺は今まで、律がいたから絵を描いてこれたんだ。俺の絵を見て笑ってくれる律の笑顔をずっと見ていたい。だから、俺と一緒に生きて欲しい」
暁斗の真摯な言葉に律の心は痛いほどに締め付けられた。
もしかしたら、自分は大きな勘違いをしていたのかもしれない。
暁斗の想いがこれほどまでとは想像していなかった。
暁斗と暮らしていたあの四年間。暁斗は律に興味などないのだと思っていた。
番になったのだって律が発情したからだし、番になってからの執着はアルファの本能だと、そう思っていた。だから、そんな律を絵よりも優先したことが耐え難かった。――けれど、違ったのだ。
「暁斗は、俺のことが好きなの?」
暁斗の言葉が信じられなくて訊ねれば、暁斗は苦しげに呻いた。
「……好きだよ。これも、全然伝わってなかったんだな」
ぎゅうっと抱きしめられて、律はそっとその背中を撫でる。
目を瞑って、深く息を吸う。
暁斗の匂いに包まれて、身体が心が喜んでいた。
ごめんね。暁斗。
気づかなくてごめん。
記憶よりも痩せたその背中は、暁斗の六年間の苦しみを表している。
「うん……。帰ろうか、暁斗」
――あの、古いアパートに。
暁斗のことが、好きで好きで堪らなかった。
心の底から愛していた。だからこそ会ってはいけないと、縋っては駄目だと思っていた。
それなのに、暁斗は願うから。まるで祈るように乞うから。
その暁斗のたったひとつの願いを、律に拒否することなど出来なかった。
施設から、律が退所したのは暁斗が律を迎えに来てから一か月後のことだった。
公的機関であるオメガ専用施設から出るためには、様々な手続きや審査が必要となるのだ。
暁斗はかつて律が彼の元から逃げ出したこともあって、どうやらひどく厳しい審査を受けたようだった。
けれども退所の手続きに時間がかかるだけで、暁斗との面会は許されていた。
なんとこの一か月、暁斗は施設のそばにあるホテルを借りて毎日のように律の元に通ってくれた。そのあまりにも必死な様子は、アルファには厳しいと言われるあの施設長ですら暁斗を認めるほどだった。
その間、律は暁斗とたくさん話をした。
話の内容は様々で、絵に関することだったり、まったく違うくだらないことだったりした。
あの「最愛」が連作で、他に何枚も「律」の絵があることや展覧会のたびに「最愛」だけは毎回違う絵を飾っていることを教えられて、律はただ赤面するしか出来なかった。
律のいない六年間、暁斗がどう暮らしていたのかも聞いた。
律が新海さんに頼んでいってくれたから助かったよ、と言われて、律はそんなこともあったなぁと思った。
暁斗の元を離れたあの日、律はその足で新海の元を訪れていた。律がいなくなった暁斗のその後を頼むためだ。
いくら画商だって、画家の世話をそこまでしないよと苦笑されたけれど、新海はよく暁斗の面倒を見てくれたようだった。初めて「最愛」を描き上げたとき、一週間以上飲まず食わずで倒れた暁斗を発見してくれたのも新海で、文字通り彼は暁斗の命の恩人なのだという。
また、どうやって律の居場所を知ったのかも教えてもらった。
なんでも、あの展覧会で律と居合わせた誰かが、SNSで呟いてしまったらしい。
――鴻上暁斗の「最愛」にそっくりな人を見た。
――S県で開催された展覧会にいた。
――絵を見て泣いてたから、本人かも?
それは、たぶん何の悪意もない呟きだった。
律と暁斗の事情を知らない不特定多数の、他意のない感想。
多くの人にとっては何でもないはずのその呟きから、居場所を特定できると聞いて律はひどく驚いた。しかも、それを暁斗に教えてくれたのが、あの栗原だったというからなおのことだ。
律を探す過程で知り合った栗原と暁斗は、お互いを嫌い合いながらも何故か友好を深めていたらしい。その意外な組み合わせに、思わず声を上げて笑ってしまったくらいだ。
離れていた六年間を取り戻すように、暁斗は律のそばにいたがった。
面会に来た暁斗は律の隣に座って、片時も律を離そうとはしなかった。その距離感に律は孤独だった六年間の痛みが癒されていくのを感じていた。
律が退所する日は、梅雨明けの青空が広がっていた。
伊織から渡された満開の紫陽花を持って、律は暁斗と一緒に施設を出た。
律の荷物は、暁斗にもらった二枚の絵だけだった。それを大切に抱えて、律は暁斗から差し出された手を握り返して隣を歩く。
ゆっくりと、けれど確実にふたりであのアパートへと帰っていく。それだけで律は泣きそうだった。
暁斗が律の方を向いて、穏やかに微笑んだ。
「これから、また律の絵をたくさん描くよ。そばにいてくれたら、きっとたくさん描ける」
「うん。暁斗、俺ね――」
願うように、祈るように律はこの言葉を口にした。
愛してるでも、大好きでもない。
律がずっと抱えていた、たったひとつの願い。
――ずっと、あなたの糧になりたかったんだ。
それを聞いて暁斗が少し驚いた顔をした。
そして、「もう、十分」と笑ったのだった。
(終)
施設長はベータであるが、長年この施設で働いているベテラン職員だ。さまざまなオメガと接してきた人だから、こういう事態には慣れているのかもしれない。
施設の面会室はオメガたちの居住区とは離れた場所にある。施設内は基本的にアルファの立ち入りは禁止だが、この部屋だけは例外として厳重なセキュリティの元入室が許可されていた。
面会室は白く清潔な部屋だった。
六畳程度の部屋の中にふたつのソファーとローテーブルだけが置かれている。
白い天井に、白い壁。そんな白一色の部屋の中で、暁斗は窓際のソファーに腰かけていた。
職員から暁斗には事前に抑制剤を飲んでもらっていると聞いていた。律も先ほど投与された抑制剤が効いているはずだった。
それなのに、部屋の中は暁斗の匂いで満ちていた。あの古くて狭いアパートで何度も嗅いだ匂いだ。
爽やかな香りに導かれるように律は面会室へ足を踏み入れた。
「律……!」
律の姿を見た途端、暁斗が立ち上がった。
その慌てた様子を見て、律の目からまた涙が溢れてくる。
「暁斗」
――暁斗。
律は何度もその名前を呼んだ。
縋るように伸ばされた腕を取り、その中に飛び込んだ。施設の職員が止める声なんて、聞こえてはいなかった。
「律、律。ようやく見つけた」
安堵するように言われて、律はその胸に額を擦りつける。背中に回した腕に精一杯の力をこめると、暁斗からもそれ以上の強さで抱きしめられた。
暁斗の姿を見ただけでこんなにも心が震える。声を聞くだけで胸が痛くなる。
この六年間、どうして暁斗から離れて生きていけたのだろうか。
ようやく見つけた己の半身。それを必死に抱きしめて暁斗が懇願する。
「律、帰ろう」
律の髪が微かに濡れる。律を呼ぶ暁斗の声は微かに震えていて、彼がどれほど律を求めているのかを教えてくれる。
暁斗は律を責めなかった。いなくなった理由も訊ねなかったし、この六年間をどうしていたのかも聞かなかった。
ただ、泣きながら律を抱きしめて、願うように言った。
「――俺たちの家に、帰ろう」
「でも、俺は……」
一度、暁斗を捨てたのに。
帰れるわけがない。暁斗の手を取ってはいけない。
そう律が言えば、暁斗は違うと首を振る。
「俺が律のことを何も分かってなかったんだ。あんなに律が俺のために、俺の絵のために尽くしてくれてたのに。簡単に絵をやめるなんて言うべきじゃなかった」
「暁斗……」
「絵を見てくれたんだろ。あの絵は俺の世界そのものだよ。――俺は、律がいないと息も出来ないし、絵だって描けない」
暁斗はゆっくりとその大きな手で律の髪を梳く。
そして、まるで願うように乞う。
「律が好きだ。伝えるのが遅くなってごめん。俺は今まで、律がいたから絵を描いてこれたんだ。俺の絵を見て笑ってくれる律の笑顔をずっと見ていたい。だから、俺と一緒に生きて欲しい」
暁斗の真摯な言葉に律の心は痛いほどに締め付けられた。
もしかしたら、自分は大きな勘違いをしていたのかもしれない。
暁斗の想いがこれほどまでとは想像していなかった。
暁斗と暮らしていたあの四年間。暁斗は律に興味などないのだと思っていた。
番になったのだって律が発情したからだし、番になってからの執着はアルファの本能だと、そう思っていた。だから、そんな律を絵よりも優先したことが耐え難かった。――けれど、違ったのだ。
「暁斗は、俺のことが好きなの?」
暁斗の言葉が信じられなくて訊ねれば、暁斗は苦しげに呻いた。
「……好きだよ。これも、全然伝わってなかったんだな」
ぎゅうっと抱きしめられて、律はそっとその背中を撫でる。
目を瞑って、深く息を吸う。
暁斗の匂いに包まれて、身体が心が喜んでいた。
ごめんね。暁斗。
気づかなくてごめん。
記憶よりも痩せたその背中は、暁斗の六年間の苦しみを表している。
「うん……。帰ろうか、暁斗」
――あの、古いアパートに。
暁斗のことが、好きで好きで堪らなかった。
心の底から愛していた。だからこそ会ってはいけないと、縋っては駄目だと思っていた。
それなのに、暁斗は願うから。まるで祈るように乞うから。
その暁斗のたったひとつの願いを、律に拒否することなど出来なかった。
施設から、律が退所したのは暁斗が律を迎えに来てから一か月後のことだった。
公的機関であるオメガ専用施設から出るためには、様々な手続きや審査が必要となるのだ。
暁斗はかつて律が彼の元から逃げ出したこともあって、どうやらひどく厳しい審査を受けたようだった。
けれども退所の手続きに時間がかかるだけで、暁斗との面会は許されていた。
なんとこの一か月、暁斗は施設のそばにあるホテルを借りて毎日のように律の元に通ってくれた。そのあまりにも必死な様子は、アルファには厳しいと言われるあの施設長ですら暁斗を認めるほどだった。
その間、律は暁斗とたくさん話をした。
話の内容は様々で、絵に関することだったり、まったく違うくだらないことだったりした。
あの「最愛」が連作で、他に何枚も「律」の絵があることや展覧会のたびに「最愛」だけは毎回違う絵を飾っていることを教えられて、律はただ赤面するしか出来なかった。
律のいない六年間、暁斗がどう暮らしていたのかも聞いた。
律が新海さんに頼んでいってくれたから助かったよ、と言われて、律はそんなこともあったなぁと思った。
暁斗の元を離れたあの日、律はその足で新海の元を訪れていた。律がいなくなった暁斗のその後を頼むためだ。
いくら画商だって、画家の世話をそこまでしないよと苦笑されたけれど、新海はよく暁斗の面倒を見てくれたようだった。初めて「最愛」を描き上げたとき、一週間以上飲まず食わずで倒れた暁斗を発見してくれたのも新海で、文字通り彼は暁斗の命の恩人なのだという。
また、どうやって律の居場所を知ったのかも教えてもらった。
なんでも、あの展覧会で律と居合わせた誰かが、SNSで呟いてしまったらしい。
――鴻上暁斗の「最愛」にそっくりな人を見た。
――S県で開催された展覧会にいた。
――絵を見て泣いてたから、本人かも?
それは、たぶん何の悪意もない呟きだった。
律と暁斗の事情を知らない不特定多数の、他意のない感想。
多くの人にとっては何でもないはずのその呟きから、居場所を特定できると聞いて律はひどく驚いた。しかも、それを暁斗に教えてくれたのが、あの栗原だったというからなおのことだ。
律を探す過程で知り合った栗原と暁斗は、お互いを嫌い合いながらも何故か友好を深めていたらしい。その意外な組み合わせに、思わず声を上げて笑ってしまったくらいだ。
離れていた六年間を取り戻すように、暁斗は律のそばにいたがった。
面会に来た暁斗は律の隣に座って、片時も律を離そうとはしなかった。その距離感に律は孤独だった六年間の痛みが癒されていくのを感じていた。
律が退所する日は、梅雨明けの青空が広がっていた。
伊織から渡された満開の紫陽花を持って、律は暁斗と一緒に施設を出た。
律の荷物は、暁斗にもらった二枚の絵だけだった。それを大切に抱えて、律は暁斗から差し出された手を握り返して隣を歩く。
ゆっくりと、けれど確実にふたりであのアパートへと帰っていく。それだけで律は泣きそうだった。
暁斗が律の方を向いて、穏やかに微笑んだ。
「これから、また律の絵をたくさん描くよ。そばにいてくれたら、きっとたくさん描ける」
「うん。暁斗、俺ね――」
願うように、祈るように律はこの言葉を口にした。
愛してるでも、大好きでもない。
律がずっと抱えていた、たったひとつの願い。
――ずっと、あなたの糧になりたかったんだ。
それを聞いて暁斗が少し驚いた顔をした。
そして、「もう、十分」と笑ったのだった。
(終)
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こんなに感動した作品は久しぶりです、、、!!なんかもうすごく綺麗でした!
この作品は糧です!上手く言葉にできませんでしたが、ほんとにほんとに、大好きです!素晴らしいお話をありがとうございました!!
感想ありがとうございます。楽しんでいただけたようでとても嬉しいです。
暁斗と律の物語にお付き合いいただきありがとうございました!
丁寧な感想ありがとうございます。読んでいただけた上に、幸せな気持ちになると言っていただけてとても嬉しいです。読後に読んでよかったと思ってもらえる話を目指しているので、すさんの言葉はとても励みになります。
他の話もぜひぜひ読んでください!全部ハッピーエンドですので!
ヒート事故でうっかり~から、こちらの作品に行き着きました!とっても楽しかったです!!!
あら!作品をはしごしていただいたようで!
ありがとうございます!