森の精霊 翼の天使

蜜柑桜

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第三章 聖気

(一)

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「それにしても驚いたわ」
 食卓の上にサラダの大皿を置き、ララナの母はディレスに微笑みかけた。
 失神状態になったララナの母もややもすれば落ち着き、まずは何か食べよう、と早めの夕食になったのだった。もちろん、食卓の席にはディレスもおり、卓上には三人分の食事が並んでいる。
 しかもその量といったら、今日が祭りかと思うような大御馳走だ。
「あのぉ、食べなくても俺、平気……」
「ああ、気持ちの問題よ。いいから食べて。それとも食べられない?」
「いや、食べられるけど……」
 それなら、と笑ってララナの母はディレスの皿にたっぷりとスープをよそう。
「お母さん、結構落ち着いてるのね」
「私を誰だと思っているの。平気よ、別に」
「私は絶対取り乱すと思ったけどなぁ」
「ふふ。あなたじゃあるまいし。それに」
 自分も席に着いてから、ディレスの方へにっこりと顔を向ける。
「こんなに可愛い男の子だもの。何者だろうと関係ないわ。よろしくね」
 ララナはこっそりため息をついた。本当に男の子欲しかったんだなぁと改めて思う。
 笑いかけられたディレスはというと、必死でナイフとフォークと格闘していた。どうやら使ったことがないらしく(考えてみれば当たり前である)、テーブルの上は彼がこぼしたもので酷い有様だった。
 見ているうちにもまたパンくずが床に落ちる。
 ララナはもう一度、大きく息を吐く。
 ——きっと後片付けは私がやらされるんだわ。

 

 ララナの予想通り、母親に片付けを頼まれ、床掃除に続いて大量の食器をやっとのことで洗い終えて自室に戻ると、ベッドの上にディレスが座って待っていた。
 部屋の中の照明に照らされたディレスの金の髪が綺麗で、ついしげしげと見てしまう。
 だが美しさに浸っているララナの気分をよそに、ディレスは待ちかねたように口を開いた。 
「美味しかった!」
 よほどの感動だったのだろう。言われなくても分かるくらい、喜びを顔全体で表している。ララナもディレスの隣へ腰掛けた。
「お母さんにそれ言ったら泣いて喜ぶだろうね」
 まあそれもちょっと困るけど、とララナは苦笑する。そして気になっていたことを口にした。
「ディレス、さっき降りていられるのはどのくらいかって言ってたじゃない? あ、叫んでたって言う方が正しいけど。どういうことなの? 私は天使って——こう言ったら失礼かもしれないんだけど、本当にいるとか考えたこともなかったの。でね、もしいたとしたって私たちの前に姿を現すなんて思っていなくて、でもいつでも好きな時に降りてこられるんだと思っていたんだけどね。それって違うの?」
「ああ」
 いないと思っていたと伝えたら怒るかな、と不安だったが、ディレスはその点には触れずに無邪気だった顔を曇らせた。
「病についてはさっき話したよな」
「ああ、うん。曖昧に。暑いのとかで病気じゃないけど調子悪くなるとか。ほんと言うと、よくわかんなかったけど」
「そう。太陽の力では病にはならない。強い気に当たるとだるくはなるけど、人間みたいに身体が壊れたり、死んだりしない」
 天使が命を落とすというのはララナも聞いたことがないし、想像したこともない。それは分かる、と頷いた。
「でも、俺たちも病にはかかるんだ」
 低い声でこぼすと、ディレスの表情がいっそう暗くなる。何かに怯えているようだった。
「聖気の病は一つしかない」
 ララナは首を傾げた。
「それは、こっちに降りるのと関係あり?」
 聖気——天使。不死ではないのだろうか.死なないけれども恐ろしい病。ララナには死に至る以上に恐ろしい病は思いつかない。天上にいる不死の者たちが、どうして病を恐れるのだろう。
 質問したララナの方をディレスは見なかった。俯いたまま、拳を固く握りしめて膝に押し当てる。
「こっちに聖気が降りるのは、人間の心を浄化するため。動物の中でも人は色んな感情を持っているから、正しく暮らさせるのがややこしいんだ。人が汚れすぎないよう、少しずつ、汚れを吸い取っていく。それが俺たち聖気の仕事だ。それぞれ定められた時に降り、定められた量の汚れを人から取り除く。それを仕事とすることが、聖気の、天上で生活するための絶対条件だ」
「つまり、今は仕事で降りてきてるってことなのね」
 すると、ディレスは首を横に振った。
「今、天上は休みの時期だ。こっちも祭りだろう? 祭りっていうのは『いつもの状態』から離れることで、天上も休息時間。俺たちの仕事も休みだ。だから今の時期、祭りまでの間なら地上に降りても汚れを吸わずに済む。祭りは天と地とを同調させているから」
 人間界の祭りはもともと神様の力に由来する。祭りでは、神様の創った命——人間が天の恵みと地の恵みにも感謝する。地上の感謝の想いが天にも届き、それが神様のみならず天使への労いにもなり、休息をもたらすのだとディレスは言った。
「でも、祭りを過ぎれば任務外の時間に地上に降りたことになるから、汚れを吸いすぎるんだ。任務外の時間に吸う汚れの量は、天上にも、そして俺自身にも制御できない。一定量を決められなくなるんだ。一定量は、天上に俺がいる間にしか決められないから。地上に降りたあとでは手遅れなんだ」
 そこでディレスは言葉を切った。
「でもさっき、天使は死なないって言ってたでしょ? 吸いすぎると……どうなるの?」
 恐る恐る訊いてみる。怖かったけれど、聞かずにはいられなかった。答えるディレスの顔も硬い。重い口を、ゆっくりと開いた。
「病にかかる。汚れが吸収できなくなるんだ。つまり俺たちが取り込んで浄化できる限界量を超えるってことだ。自分の中の聖気、つまり清らかなものが、全てなくなる。聖気は自分の清らかなものを汚れと交換して人に与えていくから」
 吸い込む汚れの分だけ聖気は『聖』の部分を失っていき、失った分だけ汚れていく。その説明は、黒の絵の具が段々とパレットを塗り潰していく様子を想像させた。
「聖気が無くなると、今度は邪気になる。聖気……こっちの呼び方で言えば天使だったっけ、そう、天使とは逆になり、地上で募らすんだ」
「邪気って悪魔のこと?」
「人はそう呼ぶな。邪気とは、悪魔とか、怒りとか、怨念とか、恨みとか、そういうものを意味する。そうだ。天使は、悪魔になる。地上で暮らすとは言っても、天使も悪魔も祭りの時以外は姿が見えないから、周りに天使や悪魔がいても、人にはあんまり実感がないのかもしれないけど。そもそも人に気づかれないようにしているし。でも、一度邪気になったら、邪気として天上に戻るのは許されない」
 話しているのも辛そうだった。
「邪気になってしまったら……」
 ディレスの顔は苦しそうに歪んでいる。
「俺は、そうなることがすごく怖い」
 そう言って、ぎゅっと両手で抱えられたディレスの膝が震えている。声も明瞭には聞こえない。
「悪魔になったら、元には戻れないの?」
 聞きたくなかった。でも聞かないと安心できなかった。
「戻れる方法は、あるにはあるけど……」
 か細い声だったが、それを聞いて少し安堵する。
「そしたら、大丈夫だよ。ディレスはディレスに戻れるんでしょう? 問題ないよ」
 明るく言ってみせたが、慰めになどなっていないことは、すぐに分かった。
「違う。それは、違う。邪気は人の清らかさを吸って生きるってことなんだぞ。聖気とは逆なんだ。別物だ。つまり、逆ってことは」
 ディレスは唇を噛んで押し黙った。言いにくそうに口を結んでいる。だがその先はララナにも見当がついた。背中を冷たいものが走る。すごく寒くて、怖くなる。
 聖気と逆。天使と逆。聖気は人の汚れを吸い自分の中の清さが尽きるまで人間に清い力を与える。その逆。邪気、つまり悪魔と化した天使は、人や動物に汚れを与えてしまう。醜い感情で人を蝕み、自然を蝕んでいく。
「それが天使に戻るための方法。しかも、任務外に降りると制御がきかないっていうのと同じで、邪気になれば自分の中の汚れが無くなるまで、自分では制御できずに人間の聖気、つまり清さを吸う。何日もかけて、ゆっくりではあるけれども。礁実に、汚れを人間に送り込む」
 天使であることの宿命。これが天使の病。
「それが、繰り返される」
 ディレスは怯えている幼い子供のようだった。夜一人で寝るのを怖がる子供。つないでいる手を離されたような、寂しくてえも言われぬ不安に慄いた表情。目の前にいる翼の天使がひどく小さく見える。
天使ではない、人間のララナにだって想像したら怖い。天使も人間も変わらないのだ。自分を失うことに対する恐怖は。
「神は、それを防げないの? 神様ならそのくらい出来るでしょう?」
 ディレスは弱々しく首を振る。
「俺たちは、神様が人間を生み出す時に出来てしまったらしい。だから人間と同調して、見た目が同じ形をしている。俺たちも、初めは邪気だったんだって。多分、創った人間に対する神様の不安が形となって生まれてしまったのだろうと言われている。その不安は本物になった。初めは聖気のように清らかだった人は、汚れていった。人自体も汚れていったけれど、同時に邪気も人を汚していった。そのままではいけなかった。でも神様にはどうしようもできないんだよ。神様は万能ではないんだ。だからせめて、汚れを外に出した邪気が聖気になるように力を尽くしたって。いつだって泣いていたよ、神様は。俺たちにも、人にも、すまないと」
 泣いている神様が、ララナにはディレスとかぶって思える。ここで、自分に怯え、そして神様の想いと同調しているディレス。
ララナには今、してやれることが思いつかなかった。
「寝ようか……休もう? また明日、考えようよ」
 これしか言えなかった。ディレスは首が揺れるのがやっと分かるくらい、弱々しく頷いた。
 空気が、重かった。
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