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少年は恥ずかしそうに、少し目を泳がせながら答える。
「ルーク……」
「ルーク? とっても素敵な名前だね。……ルークは、どうしてここに来てくれたの?」
僕の問いかけに、ルークはたどたどしい口調で言葉を紡ぐ。
「……家にいたら、たくさん殴られたり蹴られたりして、危ないから」
「えっ……?」
「おれは卑しい庶民との子だから、って……。
おれだってお母さんが生きてたら……あんな奴らが居る家になんか、行きたくなかったのに」
ぐすっ、と鼻をすする音が聞こえる。
これ以上深く聞いてしまったらいけないような気がして、僕は何も言えなかった。
……家で暴力を振るわれているのだろうか。痛々しい光景が脳裏をよぎり、思わず顔をしかめる。
例え数日間だけでも、僕がルークを保護できたら良かったのに。
しかし、ルークを助けるために力を使い果たしてしまった僕ができるのは、彼の前に姿を現していることだけだった。
それもせいぜい、今日までといったところだろう。
何もできない歯痒さを感じながら、どうすべきか考えていると――ルークがちらちらと、僕の羽に視線を向けていることに気づく。
僕はそっと、ルークに声をかけた。
「……ルーク。羽、気になる?」
「あっ! えっと……!」
「良かったら、触ってもいいよ」
「え、本当……!?」
僕が身を屈めると、ルークは先程と打って変わって、目を輝かせながら手を伸ばした。
「ふわふわしてる……! それに真っ白で、きれい!」
子供らしくはしゃぐ姿に、思わず口角が緩んでしまう。
ルークは満足いくまで触っていたが、やがてゆっくりと手を戻し、僕に話しかけた。
「ね、天使様はお名前、なんていうの?」
「え、僕? えっと……。特に名前はないから、ルークの好きに呼んでいいよ」
「そうなの? じゃあそのままだけど、天使様! 天使様は、ずっとここにいるの?」
「うん、この教会に住んでるからね」
「そうなんだ! おれ、天使様ともっとお話したい! ……だめかな?」
ルークはそう言うと、恐る恐る僕を見た。
「もちろんだよ」と笑顔を向けると、ルークの表情がパアッと明るくなる。
「やった! えっとね――」
――それからルークは、ぽつぽつと話し始めた。
まさか天使が存在するとは思っていなくて、僕の綺麗な羽にとても感動したこと。
こうして普通に話すことができたのは、母が亡くなってから今日が初めてだったこと。
ルークは僕と出会えたことを、嬉しそうに話す。
しかしその話は次第に、彼の家庭環境の話へと変わっていった。
ルークは貴族の父親が平民の母親に手を出して、生まれた子供であること。
母が亡くなり行き場がなくなったルークは、父親の方に引き取られたこと。
しかしそこで、継母と異母兄弟に虐げられていること――。
……仕立ての良い服と相反するような、痩せ細った体と暴力の痕。
その姿は確かに、ルークの状況をそのまま表しているように見えた。
僕は彼の話に相槌を打ちながら、一度も遮ることなく聞き続けた。
少しでも、この少年の心が軽くなることを願いながら。
そうしてルークは一通り話したが、先程のように涙を浮かべるようなことはなかった。
むしろ、自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「……おれ、あいつらの居る家になんて居たくなくて」
「……うん」
「だから家を出て、三日間外にいたの。でも、食べるものもなくて……。天使様が助けてくれなかったら、きっとおれ、死んじゃってたんだ」
「ルーク……」
「でも、今日天使様に会えたから、それだけで良かった! おれのこと助けてくれて、話を聞いてくれてありがとう。天使様と話して元気でたから……やっぱりおれ、家に帰らないとだめだよね」
ルークは、決意を固めたような様子だった。
自分を虐げている「あいつら」がいる家へ、戻ることに決めたらしい。
子供ながらに、どれほど地獄のような環境であっても、何の後ろ盾もなく生きていくのは難しいと悟ったのだろう。
僕はなんとも言えないやるせなさを感じながら、応援するようにルークの手を握り、微笑んだ。
「ねえ、天使様は……ずっとこの教会にいるんだよね」
「うん。そうだよ」
「じゃあ、ここに来れば……また天使様に会える?」
ルークは頬をほんのり赤く染めながら、期待のこもった瞳で僕を見つめた。
その瞬間、胸がずきりと痛む。
「そ、それは……」
一体、どう伝えれば良いのだろう。
――僕はルークを助けたことで、残っていた天使としての力を使い果たしていた。
今はなんとかルークの前に姿を現せているが、明日になれば、今後一切人間の前に姿を見せることはできなくなるだろう。
「……ごめんね。僕はいつもここにはいるけど、天使は基本的に人間には見えなくて……今日だけ特別な日だったんだ。
だからルークが教会に来てくれても、僕を見たり、話すことはできないと思う」
「……え?」
その言葉に、ルークの目が見開かれ、悲しみの色が宿る。
僕はできるだけ優しい声色で、ルークに語りかけた。
「でも、僕はずっとここにいるから。僕の姿は見えなくても、ルークのことずっと見守ってるからね」
……涙を必死にこらえているのだろうか。ルークは、俯いて、少し震えている。
僕にもっと力があれば、少しでもその孤独を癒せたかもしれないのに。
申し訳なさと不甲斐なさで、これ以上何も声をかけてあげることができなかった。
ルークはしばらく黙っていたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「そっか……姿は見えなくても、天使様はずっとここにいてくれるんだね……。
――ねえもしも、おれがあいつらに負けないくらい強くなって、いい子になったら……またいつか、天使様に会えるかな……?」
ルークの瞳に溜るいっぱいの涙が、今にも零れ落ちそうだった。
その姿を見た瞬間、僕は勝手に言葉を紡いでいた。
「そうだね。ルークが、強くていい子になったら……いつか、また会えるよ」
気休めにしかならない言葉。しかしそれでも、今この瞬間だけは、この子の心を救ってあげたかった。消えかけていた生きる希望を、少しでも与えてあげたいと思ってしまった。
ルークは涙を必死に堪えながら、大きく頷く。
「天使様! おれ、必ず強くていい子になるから……その時は、絶対また会おうね!」
――きっと、成長するにつれて僕のことも忘れていくだろうと……その時の僕は、それくらいにしか考えていなかったのだ。
これが、彼にとってどれだけの影響を与えるのかを知らずに。
「ルーク……」
「ルーク? とっても素敵な名前だね。……ルークは、どうしてここに来てくれたの?」
僕の問いかけに、ルークはたどたどしい口調で言葉を紡ぐ。
「……家にいたら、たくさん殴られたり蹴られたりして、危ないから」
「えっ……?」
「おれは卑しい庶民との子だから、って……。
おれだってお母さんが生きてたら……あんな奴らが居る家になんか、行きたくなかったのに」
ぐすっ、と鼻をすする音が聞こえる。
これ以上深く聞いてしまったらいけないような気がして、僕は何も言えなかった。
……家で暴力を振るわれているのだろうか。痛々しい光景が脳裏をよぎり、思わず顔をしかめる。
例え数日間だけでも、僕がルークを保護できたら良かったのに。
しかし、ルークを助けるために力を使い果たしてしまった僕ができるのは、彼の前に姿を現していることだけだった。
それもせいぜい、今日までといったところだろう。
何もできない歯痒さを感じながら、どうすべきか考えていると――ルークがちらちらと、僕の羽に視線を向けていることに気づく。
僕はそっと、ルークに声をかけた。
「……ルーク。羽、気になる?」
「あっ! えっと……!」
「良かったら、触ってもいいよ」
「え、本当……!?」
僕が身を屈めると、ルークは先程と打って変わって、目を輝かせながら手を伸ばした。
「ふわふわしてる……! それに真っ白で、きれい!」
子供らしくはしゃぐ姿に、思わず口角が緩んでしまう。
ルークは満足いくまで触っていたが、やがてゆっくりと手を戻し、僕に話しかけた。
「ね、天使様はお名前、なんていうの?」
「え、僕? えっと……。特に名前はないから、ルークの好きに呼んでいいよ」
「そうなの? じゃあそのままだけど、天使様! 天使様は、ずっとここにいるの?」
「うん、この教会に住んでるからね」
「そうなんだ! おれ、天使様ともっとお話したい! ……だめかな?」
ルークはそう言うと、恐る恐る僕を見た。
「もちろんだよ」と笑顔を向けると、ルークの表情がパアッと明るくなる。
「やった! えっとね――」
――それからルークは、ぽつぽつと話し始めた。
まさか天使が存在するとは思っていなくて、僕の綺麗な羽にとても感動したこと。
こうして普通に話すことができたのは、母が亡くなってから今日が初めてだったこと。
ルークは僕と出会えたことを、嬉しそうに話す。
しかしその話は次第に、彼の家庭環境の話へと変わっていった。
ルークは貴族の父親が平民の母親に手を出して、生まれた子供であること。
母が亡くなり行き場がなくなったルークは、父親の方に引き取られたこと。
しかしそこで、継母と異母兄弟に虐げられていること――。
……仕立ての良い服と相反するような、痩せ細った体と暴力の痕。
その姿は確かに、ルークの状況をそのまま表しているように見えた。
僕は彼の話に相槌を打ちながら、一度も遮ることなく聞き続けた。
少しでも、この少年の心が軽くなることを願いながら。
そうしてルークは一通り話したが、先程のように涙を浮かべるようなことはなかった。
むしろ、自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「……おれ、あいつらの居る家になんて居たくなくて」
「……うん」
「だから家を出て、三日間外にいたの。でも、食べるものもなくて……。天使様が助けてくれなかったら、きっとおれ、死んじゃってたんだ」
「ルーク……」
「でも、今日天使様に会えたから、それだけで良かった! おれのこと助けてくれて、話を聞いてくれてありがとう。天使様と話して元気でたから……やっぱりおれ、家に帰らないとだめだよね」
ルークは、決意を固めたような様子だった。
自分を虐げている「あいつら」がいる家へ、戻ることに決めたらしい。
子供ながらに、どれほど地獄のような環境であっても、何の後ろ盾もなく生きていくのは難しいと悟ったのだろう。
僕はなんとも言えないやるせなさを感じながら、応援するようにルークの手を握り、微笑んだ。
「ねえ、天使様は……ずっとこの教会にいるんだよね」
「うん。そうだよ」
「じゃあ、ここに来れば……また天使様に会える?」
ルークは頬をほんのり赤く染めながら、期待のこもった瞳で僕を見つめた。
その瞬間、胸がずきりと痛む。
「そ、それは……」
一体、どう伝えれば良いのだろう。
――僕はルークを助けたことで、残っていた天使としての力を使い果たしていた。
今はなんとかルークの前に姿を現せているが、明日になれば、今後一切人間の前に姿を見せることはできなくなるだろう。
「……ごめんね。僕はいつもここにはいるけど、天使は基本的に人間には見えなくて……今日だけ特別な日だったんだ。
だからルークが教会に来てくれても、僕を見たり、話すことはできないと思う」
「……え?」
その言葉に、ルークの目が見開かれ、悲しみの色が宿る。
僕はできるだけ優しい声色で、ルークに語りかけた。
「でも、僕はずっとここにいるから。僕の姿は見えなくても、ルークのことずっと見守ってるからね」
……涙を必死にこらえているのだろうか。ルークは、俯いて、少し震えている。
僕にもっと力があれば、少しでもその孤独を癒せたかもしれないのに。
申し訳なさと不甲斐なさで、これ以上何も声をかけてあげることができなかった。
ルークはしばらく黙っていたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「そっか……姿は見えなくても、天使様はずっとここにいてくれるんだね……。
――ねえもしも、おれがあいつらに負けないくらい強くなって、いい子になったら……またいつか、天使様に会えるかな……?」
ルークの瞳に溜るいっぱいの涙が、今にも零れ落ちそうだった。
その姿を見た瞬間、僕は勝手に言葉を紡いでいた。
「そうだね。ルークが、強くていい子になったら……いつか、また会えるよ」
気休めにしかならない言葉。しかしそれでも、今この瞬間だけは、この子の心を救ってあげたかった。消えかけていた生きる希望を、少しでも与えてあげたいと思ってしまった。
ルークは涙を必死に堪えながら、大きく頷く。
「天使様! おれ、必ず強くていい子になるから……その時は、絶対また会おうね!」
――きっと、成長するにつれて僕のことも忘れていくだろうと……その時の僕は、それくらいにしか考えていなかったのだ。
これが、彼にとってどれだけの影響を与えるのかを知らずに。
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