【完結】前世で失った恋を、この世で。 ──黒曜の城で結ばれるふたりの夜

天音蝶子(あまねちょうこ)

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第6話 抱きしめられた夜 ― 許されぬ安らぎ

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 夜の黒曜城は、息を潜めていた。

 昼間とは違う。
 ただ暗いのではない。
 闇が“広がる”のではない。

 音を吸っていくのだ。
 闇が、世界から音という音を奪い、飲み込み、無音に変えていく。

 廊下へ出ると、その静けさが“境界”を曖昧にしていくのが分かる。
 壁と影の境目がなかった。
 光の王国アルクスでは、闇は光を引き立てる背景だったが、この城では違う。

 闇そのものが“主”だ。

 足音をひとつ響かせるだけで、自分が異邦の存在だと思い知らされる。

(眠れない)

 理由はもう、分かっている。
 剣を持っていないからではない。
 剣よりも鋭い“意志”だけで、この城と対峙しているからだ。

 瞼を閉じても眠りはこない。
 神経が、起きている。
 “感情”というものに触れた指先だけが、何度も思考の奥で疼いた。

(これは恐怖ではない。だが――)

 いったい、なんなのか。
 名前を与えられない何かが、胸の奥を揺らしてくる。

 角を曲がった。

 その瞬間だ。

 空気の膜のようなものが、“ゆらり”と揺れた。

 次の一瞬、世界が裏返った。

 カインの腕が、腰を掴んだのだ。
 有無を言わせない強さ。
 けれど乱暴ではない。

(え――)

 視界が揺れ、息が止まる。
 背後で“何か”が砕ける音がした。

 目に見えない、言葉にできない“圧”の塊が、瓦礫のように崩れる。
 そして消える。

 何が壊されたのか分からない。
 だが、直感だけが理解する。

 カインが庇った。
 それだけは、確かだ。

 腕が離れた。
 ゆっくりと。
 触れていた温度だけを丁寧に置き残して。

「……夜の廊下は歩くな」

 淡々とした声だった。

 叱責ではない。
 命令でもない。
 ただ“そうすべき事実を知る者”が、当然のように告げる声。

 ルナは、呼吸を整えるのに、しばらく時間を要した。

「……危険だから、ですか」

 ようやく声を絞り出すと、カインは一拍だけ黙り、

「怖かったか」

 静かに、そう言った。

 その言葉は、説明でも説得でもなかった。

 ただただ、“寄り添う言葉”だった。
 抱き寄せた腕の力が、そのまま声になったような言い方だった。

 ルナは答えられなかった。

 騎士としての身体は無傷だ。
 剣を失っても、いつでも戦える肉体がある。
 だから恐怖は“対象”があるときにだけ生まれる。
 本来そういうものだ。

 だが、いま胸を揺らしているのは、恐怖ではない。

(これは……命を奪われる恐怖ではない)

 はっきりそう気づいた瞬間、胸の奥底がかすかに疼いた。

 この夜は、命を奪われる夜ではなかった。
 命が――庇われる夜だった。

 その違いは、言葉にしてしまえば一言で済む。
 だが、騎士である自分にとって、それは世界の裏返りだった。

(守られる、とは)

 その概念こそ、彼女が人生で一度も持てなかったもの。

 幼い頃から刃を与えられ、
 “国を守る盾”として育てられ、
 守られるという感覚は、他人事だった。

 だが今、腕の中に組み敷かれた一瞬の“保護”が
 理屈より先に、心臓に触れた。

 カインの赤い瞳が、深い夜そのものを映しながら、静かに言葉を落とす。

「私はここにいる」

 その一行は、宣言ではなかった。
 約束だった。

 世界のどこよりも静かな場所で
 「ここにいる」と言い切る声は
 命令より強い。

 ルナは、言葉を返せなかった。

 触れられた箇所に、まだ温度がある。
 その温度が、脈と共鳴するように、ゆっくりと内側を揺らしていく。

(恐怖ではない……)

 では、何なのか。

 その正体に名前を与えた瞬間、すべてが変わってしまう気がした。

 だから、ルナはまだ言葉にしない。
 言葉にできない。

 ただ、静かに呼吸をする。

 夜がさらに深く沈み込む。
 廊下の灯がひとつ、ひとつ、遠ざかる。

 ――この夜、命は奪われなかった。

 けれど、奪われるよりも厄介なものが
 胸の奥に、ひっそりと沈み始めていた。

 それはまだ――愛とは呼ばない。

 呼べるほど理解していない。

 だが、確かに“侵入”してきた。

 この夜が、“その始まり”だと
 ルナはまだ知らなかった。
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