【完結】前世で失った恋を、この世で。 ──黒曜の城で結ばれるふたりの夜

天音蝶子(あまねちょうこ)

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第19話 器へ戻れ ― 魂の選択

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 朝は、まだ朝になりきれていなかった。

 夜の余韻が薄く残る、境界の光。
 寝室の石壁を、すべる水のように淡く照らす。

 扉が軽く叩かれた。

 胸の奥が緩くひきつれる。

 理由は、分かっていた。

 ゆっくり立ち上がり、扉へ向くと──
 そこに立っていたのは、ラウル卿だった。

 旅の痕跡を吸い込んだ外套。
 血と風が乾いて、色を変えた布。

「……ルナ」

 名を呼ぶ声は、帰る家の匂いがした。

 ルナは静かに息を吸う。

 ラウルは懐から密書を取り出す。

 王の紋章。
 溶けない金の封蝋。

 彼はそれを差し出しながら、淡々と言う。

「戻れ。──王の命だ」

 視界の端が、すとんとひんやりした。

 光の国。

 “自分が帰属していた”はずの、あの場所。

 指輪が、骨に触れる。

 ここに来て初めて、
 “帰”という言葉に、空虚が混じった。

 ラウル卿の目は、揺れていない。

 それが、決まり切った命令の重さを語っていた。

「ルナ。生きて戻ったことだけは、喜んでいる」

 その一言は、痛みだけを残す。

 扉の近くの空気が、わずかに変わった。

 振り返った先に──
 黒を纏った男が立っていた。

 カイン。

 彼はラウルを見ることすらしない。

 赤い瞳は、ただルナだけを射抜いた。

「……答えを」

 命令でも、懇願でもない。

 “ここで決めろ”という、静かな圧だった。

 ルナは、小さく息を吐いた。

(私が戻るべき場所は──どこ?)

 その問いが、やっと輪郭を持ち始めていた。

 ラウル卿が声を荒げた。

「ルナ! 迷うな。おまえは光の国の剣だ!」

 その言葉を、ルナは静かに遮った。

「……それは“前世の私”の話ですか?」

 ラウルの顔が凍る。

 カインの瞳だけが、深く静まった。

 ルナは自分の胸に軽く手を置く。

 地下で感じた、あの重さ。

 手が離れていった瞬間の、あの“消えていく重力”。

 説明できない。
 だが、確かに──あった。

「私は、“誰かの器”として生きるためには生まれていません」

 それは自分自身へ向けた宣言だった。

 ラウル卿の指が強く封書を握り込む。

 カインは一歩も動かない。

 ただ、待っている。

 ルナの言葉を。

「私の存在理由は、血でも、国でもない。」

 ルナはゆっくりと、カインへ視線を移す。

「あなたが、私を『見つけた』からです」

 カインの瞼が、わずかに震えた。

 前世の夜。
 腕の中で呼吸を失っていった、その重みを──
 彼は、覚えている。

 ラウル卿は唇を噛んだ。

「ルナ……光の国は──」

「死者の再生に、私は使われません」

 誰にも届かぬほど小さな声だった。

 それでも、その言葉が
 この朝の空気の流れを一度、完全に変えた。

 ルナは、カインと向き合う。

「私は帰らない。今、ここにいます」

 その一言で、決断は完成した。

 ラウル卿は、何も言わなかった。

 扉へ向かい──
 振り返らず、出ていった。

 残された沈黙の中で、カインは息を落とした。

「戻らないのだな」

 確認。

 ルナは、はっきりと頷いた。

「ここが、今世の私の場所です」

 カインは何も奪わなかった。

 ただ、一歩だけ近づいた。

「──ようやく、前世の夜を超えた」

 その囁きは祈りではなく、救いでもない。

 “ふたりの現在”を肯定するための、静かな証明だった。
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