【完結】前世で失った恋を、この世で。 ──黒曜の城で結ばれるふたりの夜

天音蝶子(あまねちょうこ)

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第20話 王の印章 ― 封印の継承者

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 朝であるはずなのに、光はまだ確信を持っていなかった。

 執務室の窓辺に差し込む光は、
 夜が名残を手放せずに、薄い灰色を含んでいる。

 黒曜の机には、封を切られていない書類が数通。
 一晩かけても片付けなかった仕事の痕跡。

 ルナはその机の端に手を置いていた。
 指輪の重みを、皮膚の裏側で静かに確かめるように。

 扉の向こうで、甲冑の音が、僅かに沈む。

 一拍だけのノック。

 カインは短く言った。

「入れ」

 扉が静かに開く。

 甲冑ではなかった。
 ただ、深紫の外套をまとい、動きを微塵も揺らさない使者。

 光の王国の直轄の使者。

 カインが立つ国の、向こう側の“世界”そのもの。

 使者は一言も発さず、膝をついた。

 その沈黙そのものが、言葉だった。

 献上された封書。

 封蝋の色を見た瞬間、ルナの胸が薄く冷える。

 光の王国の王印。

 ラウル卿の名ではない。

 これは、その国まるごとの声。

 カインは封書を取る。
 迷いなく封蝋を割る。

 パキリ、と乾いた音。

 中には──たった一行。

 ──器を返せ

 それだけ。

 呼吸が止まる。

 恐怖ではなかった。

 もっと深い。
 “存在を規定される”という冷たい確信。

(私は……ものとして呼ばれている)

 そう理解した瞬間、
 胸の奥が、ひどく静かになる。

 使者は待つ。

 返書を求めるためではない。

 国家の決定を通告するためだけに、ここまで来ているのだ。

 カインは筆を取らなかった。

 返書に触れすらしなかった。

 机の上には、王の印章のみが置かれた紙が、酷薄な静けさで存在している。

 返書は書かれない。

 それはつまり、

 「対話はここで終わりだ」という、沈黙の意志表示だった。

 使者は、沈黙を受け取った。

 言葉を交わさないまま、深く頭を垂れ、
 音もなく退室する。

 扉が閉じたあと。
 執務室には、朝とも夜とも言えない光だけが残った。

 カインは、封書を見下ろす。

 目は、紙の文字を見ていない。
 その背後にある──前と今の“距離”を見ていた。

「国は、君を器として奪うつもりだ」

 淡々とした言い方だった。

 怒りでも憎しみでもない。
 まるで、古い因果を確認するような声。

 ルナはゆっくりと息を吸った。

「私は……前でも、器だったのですか」

 思考では追いつかない。
 けれど、胸の底だけが先に震えた。

 カインは視線を落としたまま、一度だけまぶたを閉じた。

「前の夜、封印が揺らいだ」

 “前の夜”。
 その言葉の響きだけで、
 胸の奥に古い重さがそっと沈む。

「君は、私の腕の中で、重くなった」

 血を描かない。
 情景も描かない。

 ただ、重力だけが、瞬間に戻る。

(重い……)

 ルナは思わず、胸に手を当てた。

 呼吸が乱れたわけではない。
 痛みが走ったわけでもない。

 ただ──胸の中で「沈む」感覚が、確かにあった。

「その夜から、私は決めた」

 カインは、ルナを見た。

 赤い瞳に、現在だけが宿っていた。

「もう二度と、失わせない」

 命令ではなかった。

 誓約でもなかった。

 死の重さを知っている者だけが持つ、静かな確信。

 ルナは指輪を見た。

 それは、今を選ぶための、小さな証。

 世界がどう呼ぼうと──器ではなく。
 ただ、いま、ここにいる一人の人間として。

「私は、ここにいます」

 そう言ったルナの声は、驚くほど平静だった。

 カインは、それ以上触れなかった。
 手を伸ばせば抱きしめてしまうと、知っていたから。

 朝の光が、ようやく確信を持ち始める。

 灰色だった世界が、ゆっくりと薄れていく。

 静かに。
 確実に。

 “前世の夜”は、今世の朝に書き換わり始めていた。
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