22 / 27
第21話 停戦の卓 ― 和平か、犠牲か
しおりを挟む
午前の光が、執務室の黒曜石を浅く照らしていた。
夜の名残はもうない。
けれど朝はまだ、完全には呼吸をはじめていない。
そんな境目の時間。
カインは机に向かい、封書の返答を二通だけ書き終えていた。
ひとつは王に。
ひとつは、ラウル卿宛に。
ルナはその横に座っていた。
椅子の背にそっと手を置いたまま、黙っている。
扉が、控えめに叩かれた。
秘書官ではない。
武官でもない。
ノックの音ひとつで、それが誰かは分かった。
カインは視線を上げる。
「宰相か」
扉が開いた。
影のような灰衣の男が入る。
年齢は判別できない。
だが、その一歩は、城の空気の温度を穏やかに変えた。
挨拶はなかった。
一礼すらなかった。
それがこの男の立場だった。
礼よりも理を扱う者。
宰相は、机の上の書簡に目を落とした。
「……お決めになったのですね」
カインが返事をする前に、宰相は静かに続ける。
「王印への拒絶は、すでに“宣戦の理由”になります。
国際法の上では」
淡々とした指摘だった。
ルナの指先が、机の縁をわずかに握った。
宰相の目は、ルナに向かうには向いた。
しかし“器を見る目”ではなかった。
ただ、そこにいるひとりの人間として。
「ですが、戦場を開く必要はありません」
カインは初めて眉を動かした。
「提案を聞こう」
「停戦です」
宰相は机の中央、黒曜の上に
一枚の紙を置いた。
戦略でもなく、脅しでもなく。
ただ一行。
──和平を結ぶ。
ただし、ルナ殿は表舞台から退く。
宰相が言葉を添えた。
「政治から、外してしまえばいいのです。
“器”として扱われる場所に、いなければいい」
ルナは息をのみ、カインを見る。
カインは目を逸らさなかった。
宰相は、ひとつだけ付け加えた。
「それが、世界がこの夫婦を守る唯一の方法です」
“夫婦”
その言葉が、机の上の静寂に落ちた。
宰相は、深く頭を下げず、ただ静かに一礼しただけで去っていった。
扉が閉まる音は、まるで
ひとつの「出口」が閉じ、
別の「出口」が残されたように聞こえた。
その余韻のまま、ルナは小さく呟いた。
「……私たちが、消えるのですか?」
カインは即答しなかった。
けれど、否定も、しなかった。
ルナの指を、ゆっくりと取った。
「ここで生きればいい。
世界の中心ではなくても」
声は、ひどく穏やかだった。
それは、前世の夜と対照的な温度。
「世界は歪んだままでいい。
君と生きられるなら、それでいい」
ルナの胸の奥が静かに震えた。
政治の中心ではなくてもいい。
名前を失ってもいい。
ただ、今世は、彼の隣で。
その選択が、現実のひとつとして立ち上がってくるのを
ルナははっきりと感じていた。
午後の光が、執務室を少しずつ金色に染め始めていた。
ルナは、窓辺に移動した。
外は静かだった。
城下も、国境も、まだ何も燃えていない。
ただ、世界は今、確かに揺れている。
背後で椅子の音がした。
カインがゆっくり立ち上がり、ルナのそばへ歩いてくる。
「ルナ」
名を呼ぶ声は、低い。
決意よりも、祈りに近い響きだった。
「政治から退くということは、
“世界の視界から消える”ということだ」
ルナは振り返らず、光の外側を見つめた。
「……人として生きられるなら、
それでも良いと思えます」
自分の声が、驚くほど静かで、透明だった。
「前の私は、“世界”を守るために死んだのでしょう」
カインは小さく息を呑んだ。
それは“思い出した”わけではない。
ただ、直感が真実に触れた瞬間だった。
「なら、今世では……
ひとりの人間として生きてもいいのでしょう?」
ルナのその言葉は、
前世を越えるための“初めての自分の言葉”だった。
カインはゆっくりと手を伸ばした。
彼女の横顔に、直接触れはしない。
ただ、頬に落ちる光に手を添えるように。
「世界に呪われたのは“前の夜”だ」
静かな宣告。
「今世の夜は、誰にも渡さない」
ルナはその言い方に、かすかな笑みを返した。
触れていないのに、触れられているようだった。
肌の奥が、確かに温度を受け取っていた。
そのとき、扉がノックされた。
先ほどの宰相の使いではない。
もっと軽く、もっと若い手の音。
秘書官が書状を差し出した。
「光の国より──“返書”が到着しました」
カインは開封しなかった。
理由はわかっていた。
戦火の号令ではない。
外交文書だ。
宰相の停戦案に、国は飲んだのだ。
ルナは、その封書を見た。
その一枚の紙が、世界の血の流れを止めたのだ。
戦いではなく、撤退で。
ルナは息を吸った。
「世界を消してまで生きるのではなく、
世界の“端”で生きるのですね」
カインは、それを肯定もしない。
否定もしない。
ただ、視線だけで答えた。
ルナは、ゆっくり頷いた。
「それで、いいと思います」
光の国は退いた。
戦争は起きない。
けれど、表舞台にはもう戻らない。
これは敗北ではない。
前世の“死の夜”を越えるために、
今世の“生の夜”を選ぶことだ。
ルナは小さく、指輪に触れた。
これが私の「場所」だ。
この世界の中心ではないけれど、
たったひとりと共に生きる世界。
カインは、わずかに笑んだ。
「これからは……私の部屋は、ただの一室になる」
政治の部屋でも、戦略の部屋でもない。
ルナの目が、静かに揺れた。
「あなたの隣に立つための、部屋に」
新しい世界が、その一行だけで決まった。
夜の名残はもうない。
けれど朝はまだ、完全には呼吸をはじめていない。
そんな境目の時間。
カインは机に向かい、封書の返答を二通だけ書き終えていた。
ひとつは王に。
ひとつは、ラウル卿宛に。
ルナはその横に座っていた。
椅子の背にそっと手を置いたまま、黙っている。
扉が、控えめに叩かれた。
秘書官ではない。
武官でもない。
ノックの音ひとつで、それが誰かは分かった。
カインは視線を上げる。
「宰相か」
扉が開いた。
影のような灰衣の男が入る。
年齢は判別できない。
だが、その一歩は、城の空気の温度を穏やかに変えた。
挨拶はなかった。
一礼すらなかった。
それがこの男の立場だった。
礼よりも理を扱う者。
宰相は、机の上の書簡に目を落とした。
「……お決めになったのですね」
カインが返事をする前に、宰相は静かに続ける。
「王印への拒絶は、すでに“宣戦の理由”になります。
国際法の上では」
淡々とした指摘だった。
ルナの指先が、机の縁をわずかに握った。
宰相の目は、ルナに向かうには向いた。
しかし“器を見る目”ではなかった。
ただ、そこにいるひとりの人間として。
「ですが、戦場を開く必要はありません」
カインは初めて眉を動かした。
「提案を聞こう」
「停戦です」
宰相は机の中央、黒曜の上に
一枚の紙を置いた。
戦略でもなく、脅しでもなく。
ただ一行。
──和平を結ぶ。
ただし、ルナ殿は表舞台から退く。
宰相が言葉を添えた。
「政治から、外してしまえばいいのです。
“器”として扱われる場所に、いなければいい」
ルナは息をのみ、カインを見る。
カインは目を逸らさなかった。
宰相は、ひとつだけ付け加えた。
「それが、世界がこの夫婦を守る唯一の方法です」
“夫婦”
その言葉が、机の上の静寂に落ちた。
宰相は、深く頭を下げず、ただ静かに一礼しただけで去っていった。
扉が閉まる音は、まるで
ひとつの「出口」が閉じ、
別の「出口」が残されたように聞こえた。
その余韻のまま、ルナは小さく呟いた。
「……私たちが、消えるのですか?」
カインは即答しなかった。
けれど、否定も、しなかった。
ルナの指を、ゆっくりと取った。
「ここで生きればいい。
世界の中心ではなくても」
声は、ひどく穏やかだった。
それは、前世の夜と対照的な温度。
「世界は歪んだままでいい。
君と生きられるなら、それでいい」
ルナの胸の奥が静かに震えた。
政治の中心ではなくてもいい。
名前を失ってもいい。
ただ、今世は、彼の隣で。
その選択が、現実のひとつとして立ち上がってくるのを
ルナははっきりと感じていた。
午後の光が、執務室を少しずつ金色に染め始めていた。
ルナは、窓辺に移動した。
外は静かだった。
城下も、国境も、まだ何も燃えていない。
ただ、世界は今、確かに揺れている。
背後で椅子の音がした。
カインがゆっくり立ち上がり、ルナのそばへ歩いてくる。
「ルナ」
名を呼ぶ声は、低い。
決意よりも、祈りに近い響きだった。
「政治から退くということは、
“世界の視界から消える”ということだ」
ルナは振り返らず、光の外側を見つめた。
「……人として生きられるなら、
それでも良いと思えます」
自分の声が、驚くほど静かで、透明だった。
「前の私は、“世界”を守るために死んだのでしょう」
カインは小さく息を呑んだ。
それは“思い出した”わけではない。
ただ、直感が真実に触れた瞬間だった。
「なら、今世では……
ひとりの人間として生きてもいいのでしょう?」
ルナのその言葉は、
前世を越えるための“初めての自分の言葉”だった。
カインはゆっくりと手を伸ばした。
彼女の横顔に、直接触れはしない。
ただ、頬に落ちる光に手を添えるように。
「世界に呪われたのは“前の夜”だ」
静かな宣告。
「今世の夜は、誰にも渡さない」
ルナはその言い方に、かすかな笑みを返した。
触れていないのに、触れられているようだった。
肌の奥が、確かに温度を受け取っていた。
そのとき、扉がノックされた。
先ほどの宰相の使いではない。
もっと軽く、もっと若い手の音。
秘書官が書状を差し出した。
「光の国より──“返書”が到着しました」
カインは開封しなかった。
理由はわかっていた。
戦火の号令ではない。
外交文書だ。
宰相の停戦案に、国は飲んだのだ。
ルナは、その封書を見た。
その一枚の紙が、世界の血の流れを止めたのだ。
戦いではなく、撤退で。
ルナは息を吸った。
「世界を消してまで生きるのではなく、
世界の“端”で生きるのですね」
カインは、それを肯定もしない。
否定もしない。
ただ、視線だけで答えた。
ルナは、ゆっくり頷いた。
「それで、いいと思います」
光の国は退いた。
戦争は起きない。
けれど、表舞台にはもう戻らない。
これは敗北ではない。
前世の“死の夜”を越えるために、
今世の“生の夜”を選ぶことだ。
ルナは小さく、指輪に触れた。
これが私の「場所」だ。
この世界の中心ではないけれど、
たったひとりと共に生きる世界。
カインは、わずかに笑んだ。
「これからは……私の部屋は、ただの一室になる」
政治の部屋でも、戦略の部屋でもない。
ルナの目が、静かに揺れた。
「あなたの隣に立つための、部屋に」
新しい世界が、その一行だけで決まった。
0
あなたにおすすめの小説
初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。
だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。
しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。
王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。
そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。
地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。
⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
村娘あがりの娼婦ですが、身請けされて幸せです
春月もも
恋愛
村を飛び出して王都に来たリリアは、いまは高級娼婦として生きている。
ここは通過点のはずだった。
誰かに選ばれて終わる物語なんて、わたしには関係ないと思っていたのに。
触れない客。
身体ではなく、わたしの話を聞きに来るだけの商人。
「君と話す時間を、金で買うのが嫌になった」
突然の身請け話。
値札のついた自分と向き合う三日間。
選ばれるのではなく選ぶと決めたとき、
通過点は終わりになる。
これは救いではなく対等な恋の話。
白い結婚は無理でした(涙)
詩森さよ(さよ吉)
恋愛
わたくし、フィリシアは没落しかけの伯爵家の娘でございます。
明らかに邪な結婚話しかない中で、公爵令息の愛人から契約結婚の話を持ち掛けられました。
白い結婚が認められるまでの3年間、お世話になるのでよい妻であろうと頑張ります。
小説家になろう様、カクヨム様にも掲載しております。
現在、筆者は時間的かつ体力的にコメントなどの返信ができないため受け付けない設定にしています。
どうぞよろしくお願いいたします。
あの、初夜の延期はできますか?
木嶋うめ香
恋愛
「申し訳ないが、延期をお願いできないだろうか。その、いつまでとは今はいえないのだが」
私シュテフイーナ・バウワーは今日ギュスターヴ・エリンケスと結婚し、シュテフイーナ・エリンケスになった。
結婚祝の宴を終え、侍女とメイド達に準備された私は、ベッドの端に座り緊張しつつ夫のギュスターヴが来るのを待っていた。
けれど、夜も更け体が冷え切っても夫は寝室には姿を見せず、明け方朝告げ鶏が鳴く頃に漸く現れたと思ったら、私の前に跪き、彼は泣きそうな顔でそう言ったのだ。
「私と夫婦になるつもりが無いから永久に延期するということですか? それとも何か理由があり延期するだけでしょうか?」
なぜこの人私に求婚したのだろう。
困惑と悲しみを隠し尋ねる。
婚約期間は三ヶ月と短かったが、それでも頻繁に会っていたし、会えない時は手紙や花束が送られてきた。
関係は良好だと感じていたのは、私だけだったのだろうか。
ボツネタ供養の短編です。
十話程度で終わります。
前世の私は重い女だったので、今世は恋なんてしません。
ありま氷炎
恋愛
前世は余りにも夫が大好きで、愛が重すぎた。
だから捨てられた。
なので生まれ変わった今は、恋なんてするつもりはなかったのだけど……。
二十年以上無視してきた夫が、今さら文通を申し込んできました
小豆缶
恋愛
「お願いです。文通から始めてもらえませんか?」
二十年以上会話もなかった夫――この国の王が、ある日突然そう言ってきた。
第一王妃マリアは、公爵家出身の正妃。だが夫はかつて、寵愛する第三王妃の話のみを信じ、彼女を殴ったことがある。その事件が原因で、マリアは男性恐怖症が悪化して、夫と二人きりでは会話すらできなくなっていた。
それから二十年。
第三王妃はとある事故で亡くなり、夫は反省したらしい。だからといって――今さら夫婦関係をやり直したいと言われても遅すぎる。
なのに王は諦めない。毎日の手紙。花を一輪。夜食の差し入れ。
不器用すぎる求愛に振り回されるうち、マリアの中で止まっていた感情が少しずつ動き始める。
これは、冷えきった政略夫婦が「文通」からやり直す恋の話。
※本作は「存在されていないことにされていた管理ギフトの少女王宮で真の家族に出会う」のスピンオフですが、単体で読めます。
セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。
婚姻契約には愛情は含まれていません。 旦那様には愛人がいるのですから十分でしょう?
すもも
恋愛
伯爵令嬢エーファの最も嫌いなものは善人……そう思っていた。
人を救う事に生き甲斐を感じていた両親が、陥った罠によって借金まみれとなった我が家。
これでは領民が冬を越せない!!
善良で善人で、人に尽くすのが好きな両親は何の迷いもなくこう言った。
『エーファ、君の結婚が決まったんだよ!! 君が嫁ぐなら、お金をくれるそうだ!! 領民のために尽くすのは領主として当然の事。 多くの命が救えるなんて最高の幸福だろう。 それに公爵家に嫁げばお前も幸福になるに違いない。 これは全員が幸福になれる機会なんだ、当然嫁いでくれるよな?』
と……。
そして、夫となる男の屋敷にいたのは……三人の愛人だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる