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12. 蛇のような女
しおりを挟む実家を出たところで「仕事の後に実家に寄る」とだけ伝えていた勇太に、「姉のところにも寄る事になった」とメールを送る。
すぐに「分かった、気をつけて。美味しいご飯が待ってるよ」と返信がきて、鉛のように鈍く重かった心がフッと重さを失って軽くなった。
勇太の存在があるからこそ自分がまともでいられるのだと痛切に感じる。
そうでなければあの家族と過ごすだけで、少しずつ自分の人間らしい心と命が削られるような感覚に陥るのだ。
姉達の住むアパートの近くにあるコインパーキングに車を停めると、スマホをぎゅっと握った。勇太の言葉に励まされ、何とか理性的な自分が保てている。
今から久しぶりに姉と話さなければならない。双極性障害に罹ったという姉、カナちゃんを家族に任せっきりで今はどういう状況なのだろうか。
念のため姉のスマホに電話を掛けてみる。母が言うにはもう三日も連絡が取れないのだと言う。
呼び出し音は鳴るものの、やはり繋がらない。
母は姉の夫である新一にも電話をしたそうだが、「体調が良くないので休ませています。すみませんがしばらく香苗をよろしくお願いします」とだけ言われたと話していた。
母は「やっぱり新一さんはダメね。電話一本で済ませる事じゃないでしょう」と怒っていたが、元々新一に対してあまり良くない印象を持っていた両親だ。自分達が今まで積極的に関わる事をしなかったのだから、それも致し方ないのではないかと思う。
コインパーキングから出てしばらく歩くと、ファミリー向けのアパートが見えてくる。「ちょっと家賃は高いけど、新築で外観が可愛いからここにしたの」とある日勝手にアパートを借り、その後生活費が苦しいと散々愚痴をこぼしていた姉を思い出す。
姉という人はその時の思いつきで行動し、動く前には深く考えない性質なのだ。そして何事も楽な方へ楽な方へと進む傾向がある。
だから結局は行き詰まって周囲に助けを求める。
感情に流されて出来ちゃった婚をしたものの、生活が思うようにいかなくて母に泣きつく。
夫が協力してくれないから子育てが大変だと、当然のように母や私に協力を求める。
「失敗作……」
母の言葉をそっくりそのまま呟いた。
母は私の子育てを成功したと思っているのだろうか? それともまだ完璧ではないと思うから、カナちゃんをあんな風に育てている?
どちらにしても、母が『私の秘密』を知ればきっと「伊織も失敗作だ」と言うだろう。そう考えると、思わず一人で歩きながら失笑した。
目の前に現れたオレンジ色の玄関扉。やたらと陽気な色味は、姉の荒んだ様子には不似合いに思えた。
果たして南欧風の外観に合わせた明るいドアの奥では、どんな光景が広がっているのだろうか。
いつものように玄関横のチャイムを押そうとしたその時、ふと姉の車が停まっているのか確認し忘れた事に気づく。
もし自宅に新一さんしか居ないのならばその心づもりをして行かなければと後ろを振り返り、アパートの前に広がる駐車場の一角へ目を向けた。
「あれ?」
普段ならば姉の車が停まっているところ、その場所にピンク色の普通車が停まっている。
姉の車は黒の軽自動車だったはずなのに、まさかこれも買い換えたのか。呆れ果ててため息が出た。
今度こそチャイムを押すが反応がない。どうしたものかと思っていると、何となく室内に人の気配を感じた後にガチャリと勢いよく扉が開いた。
「はーい」
出て来たのは見た事がない若い女。二十代前半くらいだろうか、他人の家のはずなのに、すっかり慣れた様子で応対している。
明らかに部屋着のようなピンク色の上下を着て、風呂上がりなのか濡れた髪をタオルで巻いている。
突然の出来事に身体が硬直してしまい、喉元が絞られたように何も言えないでいると、女は首を傾げて尋ねてきた。
「誰?」
「おい、誰が来たんだ? セールスだったら断っておけよ!」
女の声に被せるように、部屋の奥からは新一の声が聞こえてくる。その口調で二人の仲はかなり親しいのだと気づいた。
「セールスなの?」
「いえ、詩織さんは……ご在宅でしょうか?」
短く否定した癖に、狼狽した私は思わず何らかのセールスに来たような台詞で答えてしまう。
どういう事なのかと、この女は誰なんだと頭が混乱し胸がざわついた。新一には姉妹は居ない。
「詩織? ああ、新一! 奥さんにお客さんだってー! 奥さん今居ないもんねぇ? どうすんの?」
女は奥に向かって声を張り上げる。新一に尋ねているようだが、当の新一は何をしているのか部屋から出てくる様子は無い。
「代わりにお前が聞いておいてくれよー。俺まだ服も着てないんだよ」
「だって。どうする?」
頭の先からつま先まで、じっくりと値踏みされるような視線を向けられる。ここは姉の部屋、それなのに見知らぬ不躾な眼差しの女に半笑いでそう問われても、混乱する頭ではすぐに返事を口に出来なかった。
引き寄せられるように足元に目をやれば、玄関には姉には履けそうもないような派手なピンク色をした小さなハイヒールが並べてある。
駐車場にあったピンク色の車も、この女の物なのだと直感した。
「また、日を改めます。失礼しました」
「あ、そう。奥さん、もう帰って来ないと思うけど」
「えっ?」
何故か女は妖艶な笑みを浮かべて、流し目でこちらを見つめている。
姉がもう帰って来ないとは、どういう意味だろうか。未だに出てくる気配のない新一にも呆れたが、それよりも目の前にいる女の言葉が、ぐるぐると頭の中でしつこく繰り返される。
「ねぇ、あなた奥さんの何?」
「……職場の同僚です。お邪魔しました」
何故か、家族だと言えなかった。
何が面白いのか、尋ねてくる女の口元は弧を描いている。時折赤い舌がペロリと唇を舐める仕草が、恐ろしい毒蛇を連想させた。
こちらに向けられるねっとりとした視線に不快感が募って、この場の空気に耐えられなくなる。
くるりと踵を返すと、逃げるように早足でアパートから離れた。どうしてか途中で後ろを振り向くのも怖くて、途中からは一目散に車へと走る。
「姉さんはどこへ行ったんだろう……」
車に乗り込み、小刻みに震える手を制しながらエンジンをかけた。
突然の事に混乱し、怖くて、大きな不安が自分の身体を一息に飲み込んでいく。
居なくなった姉、見知らぬ女。あの蛇のような女が突然窓の外に現れるような気がして、ここからさっさと離れたいという強い焦りを覚えた。
何故かとても恐ろしい。
捕食者から逃げるか弱い獲物のようなイメージが、一人でに頭に思い浮かぶ。あの女の視線が、笑みが、ぬらぬらと身体に纏わりついてくる気がした。
とにかく今は勇太の顔が見たい。はやる気持ちを抑えつつ、私は彼の待つマンションへと車を走らせた。
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