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13. 救いの手
しおりを挟む住み慣れたマンションの駐車場へ到着すると、ホッとして身体の力がガクリと抜けた。
得体の知れない不安と突然のショックが、知らず知らずのうちに全身を強張らせていたのだと分かる。
ひやりとするハンドルにおでこを当てるように突っ伏して、細く長いため息を吐いた。
スマホを取り出して母に電話を掛ける。しかし先程の事は、とてもじゃないけど母に話せるような出来事では無かった。
「あ、母さん。姉さんやっぱり体調が悪いみたいで。新一さんが居たから片付けは出来なかったよ。まだしばらくカナちゃんは預らないと無理みたい」
とりあえず、母には事実と嘘を交えた言葉で報告する。自分さえまだひどく混乱しているのに、その上母に根掘り葉掘り聞かれて騒ぎ立てられるのは、とてもじゃないが今は堪えられそうにない。
「えー、そんなの困るわよ。そうだ、伊織がカナちゃんを預かってくれない? とりあえずはお父さんの機嫌が直るまででいいから。お母さんもいい加減間に挟まれて疲れちゃったわよ。正社員なら有給休暇とかあるんでしょう?」
「有給休暇って……。だって、それから先はどうするの? そもそも、姉さんも新一さんも、カナちゃんをまともに育てる気が無いような気がするんだけど」
「困ったわねぇ。お母さんだって三年前と比べたら身体も歳を取ってきてるし。こういう時って最終的には里子とかしかないのかしら?」
里子という言葉を聞いて背筋がゾッとした。三年も育ててきた孫を、すんなり「里子に出す」という考えが思い浮かぶ母。
今スマホの向こうにいるのは、本当に母なのだろうかと不安になる。いくら疲弊しているからと言って、あまりにもひどい。
まさか……いつものようにどこかで少しだけ聞き齧った情報で、軽々しく里子に出すだなんて言っているのだろうか。
相変わらず都合のいい情報だけをピックアップしたのかも知れない。そうでもなければあまりに薄情だ。
「里子って……。母さん、カナちゃんが可愛くないの?」
「やっぱり失敗作の詩織と、あの新一さんの娘だからかしら。どうにも上手くいかないのよ、子育て。今度こそ、と思って一生懸命してきたんだけどねぇ」
「……母さん」
ああ、やはり結局のところ、この母にとって子どもなんていうものは、手製の料理と同じ程度の感覚でしかないのだ。
「もう、どうして私だけがこんなに苦労させられるのかしらね。毎回毎回、今度こそ上手くいきますようにって思いながら、お母さんはちゃんと頑張ったのよ?」
「うん……」
「それなのに、上手くいかないものだわ」
失敗の次に成功させようと頑張ってみたけれど、思うようにいかないからもう要らないと。
そして何度も繰り返す「今度こそ」という言葉から、私についても少なからず失敗したと考えている事が透けて見えた。
「分かった、里子の件は少し考えさせて。母さん一人で勝手に動かないようにしてよ。それに、新一さんとも話さないと。とりあえず明日、またそっちに行くから」
「そうね。そうしてちょうだい」
「じゃあ、切るね」
母の勝手な言葉に、怒りを通り越して呆れに変わる。感情がひどく昂って思わず震えてしまう声にも、この母は気付かない。
通話を終えると思わず脱力して手が離れ、スマホを運転席の床に落としてしまった。足元でボウっと光るスマホの待受画面がジワリと滲んだ。
「勇太……」
こんな時一番に思い浮かぶのは、どこにいるのか分からない実の姉の顔では無く、恋人の勇太だった。
それに行方知れずの姉の事よりも、アパートにいた見知らぬ女が笑った時に覗いた、不気味なくらいに赤い舌の映像が頭から離れない。
のろのろとドアを開け、運転席から降りる。駐車場の空気が、いつの間にか涙で濡れていた頬をひやりと撫でた。
青白い光を頼りに運転席の足元に落ちたスマホを拾い上げる。画面を見ているうちに母の言葉が思い出され、情けなさと喪失感で再び目の奥がジワリと熱くなった。
やっと辿り着いた勇太と私の部屋の前。見慣れた玄関扉を開けるだけだというのに、今日はズンとした重みを感じた。
もたもたとした動作で靴を脱いでいると、奥から心配そうな表情の勇太が出迎えてくれた。
「おかえり、大丈夫だった?」
「うん、ただいま」
「顔色が悪いね。何かあったの?」
そんなに酷い顔色をしているのだろうか。玄関で話す訳にもいかず、曖昧に頷いてからとにかくリビングへと向かった。
ソファーにドサリと荷物を置くと、不安そうにこちらを見る勇太に向かって両手を広げた。
「どうした?」
そう問いながらも優しく抱き締めてくれる感触に、やっと身体中の血がまともに巡った気がした。
「分からないよ。どうしたら良いのか」
「話聞こうか。ご飯、どうする? お腹空いた?」
「先に、話聞いてくれる?」
「うん。いいよ」
ガッチリとした逞しい勇太の身体が離れていくと、急に冷えを感じてブルリと身体が震えた。
ソファーに二人で並んで座ってからも、なかなか口を開かない私を見兼ねたのか、勇太がそっと膝の上に手を置いて勇気付けてくれる。一度大きく深呼吸をしてから、私は途切れ途切れになりながらも姉の事、そして母がカナちゃんの子守りに疲れているという事を話した。
私が全てを話し終えても難しい表情をしたままの勇太は、しばらくの間口をキュッと噤んでいた。
やがて大きく胸を膨らませるようにしてフウッと鼻で息を吐く。何かを一大決心したような勇太の態度に、私は思わず身を固くした。
「考えたんだけどさ……」
開口一番の声色は普段よりも真剣で、強張っているように感じた。
「うん」
「お姉さんがどこで何をしているのかは、話を聞く限りきっと旦那さんが知っていると思うから。いい大人の事なんだし、ひとまず置いておいて。今一番大切なのは、伊織の実家に置き去りにされたカナちゃんをどうするかだと思うんだよ」
「カナちゃんを……どうするか」
確かに父親である新一があの様子では、カナちゃんの面倒を見る気は無さそうだ。
姉が今どこにいるかは分からないが、まず双極性障害を患っているのならばその治療をするのが先決だろう。
元々子育てにあまり熱心では無かった事もあるし、子育てをしながら治療をするというのは、あの姉には難しいと思われた。
「ねぇ、伊織。お母さんの言う通り、カナちゃんを僕らで面倒を見るのはどうかな? 伊織は仕事を辞めてもいいし、昼間だけの仕事にしたっていい。俺だって働いているんだから、収入面に関してはそこまで心配はいらないよ」
可愛い姪っ子のカナちゃん。「またね」と手を振っていた愛らしい姿が目に浮かんだ。
母ももうカナちゃんの面倒を夜通し見るのは限界のようだし、里子に出すだなんて事まで言い出している。
何より姉への苛立ちのあまりに不機嫌さを全面に出す父の態度は、そのうち容赦なくカナちゃんを傷付けるだろう。
それに、勇太は子ども好きだ。カナちゃんと、離れ離れになった異父妹を重ねているのかも知れない。
「でも、勇太にそこまでの負担をかける訳には……」
「さすがに俺の仕事についてはそこまで融通が利かないからさ。今と同じで朝行って夕方帰る、土日は休みっていう事になりそうなんだけど」
真剣な話の内容を少しも聞き逃すまいと、下手に口を挟まずにじっと勇太の目を見つめながら続きを促す。
「だからそんな俺よりも、仕事を変えるなりしなきゃいけなくなる伊織の方が負担だと思うんだ。けど、それでも良ければ……」
「負担……」
それを負担というならば、すでにこれまでにも勇太には色々な負担を強いてきた。むしろ一方的に私の方が彼に負担をかけていたと思うのに。
胸がつかえて言葉が出ない。そのうち勇太は低く唸ると、眉間にギュッと皺を寄せて束の間考え込んだ後に口を開く。
「でも、伊織が仕事を続けたいなら……新一さんに保育園の手続きだけはしてもらってさ。昼間はこの家から保育園に通えばいいよ」
「どうして……」
どうしてこの人はこんなにも優しくいられるんだろう。
私の姪っ子なんて、勇太からすればただの他人でしかない。それなのに、自分の身内の事のように真剣に考えを巡らせてくれた。
それだけじゃない、私の事もちゃんと親身に考えて思いやってくれる。
「どうしてって? だって伊織がそうしたいんだろうなと思ったから。カナちゃんを里子に出すだなんて、今更そんな事できないだろ。違った?」
赤ん坊の頃から子守りをしてきたカナちゃん。私はカナちゃんの為に、自分だけでなく勇太との時間も多く犠牲にしてきた。
それを理由にいつか別れを告げられるのではないか、勇太から嫌われるのではないかと思って、本当はとても怖かった。
だからこそいつもギリギリのところで距離を置き、カナちゃんの事で何か心配事があったって、時々見えないフリをした。そんな時には「親でもない私に出来る事は、今でも十分にしているじゃないか」と自身に強く言い聞かせて。
私は小さな姪っ子の未来よりも、今の自分の幸せを優先してしまったのだ。
本当は、あの子の為に何とかしてあげたいという気持ちが私の中にもずっとあったのに。
「私は狡いよ。あんな小さな子の事よりも、勇太に嫌われたくないっていう自分の気持ちを優先してきたんだから」
目の前にカナちゃんの姿がはっきりと見えた気がした。「いっちゃん、またね」と手を振る可愛い小さな女の子。
胸が熱く沸騰したようになり、溢れる涙を堪えきれずに両手で顔を覆った。嗚咽を漏らす私の背中を、勇太はゆっくりと撫でさすってくれる。
「伊織はよく頑張ってた。この三年、俺に気を遣いながら、精一杯できる事をしてきたよ。それでもあの子に情が湧き過ぎないように、あえてブレーキをかけて自分の心を守ろうとしてたんだろ?」
「そうかも知れない。自分はあの子の親じゃないんだからって……言い聞かせてた」
だからって、あの子の本当の親は? 姉さんは最低だ。新一さんも最低だ。手に負えなくなったらさっさと手放そうとする両親だって。
何も知らずに生まれてきたあの子は悪くないのに。
「伊織はどうしたい? 俺だってカナちゃんの事が心配だよ。だから、伊織がしたいようにすればいい」
カナちゃんを預かる。勇太と二人でならきちんとした子育てが出来るのだろうか。
そろそろ周囲を察するようになってきたあの子が、悲しい思いをしなくていいように。勇太と私とカナちゃんの三人、このマンションで暮らしていく事を想像してみる。
勇太の底なしの優しさは、きっとカナちゃんを救ってくれる。私が勇太に救われているように。
「カナちゃんを預かりたい。だから勇太にも、手伝って欲しい」
「うん、伊織なら大丈夫。俺も頑張るから」
両親も姉夫婦も、きっと私達がカナちゃんを引き取る事に反対しない。
それが救いだと思う反面で、何も知らないカナちゃんの真っ直ぐな眼差しと小さな手を思い出し、胸が引き裂かれるような感覚を覚えた。
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