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30. 昭和の時代にタイムスリップ
しおりを挟む翌日、教えられた時間の三十分前にはめぐみ医院に到着する。
職員駐車場だと教えられた場所には二台しか車が停まっていなかった。それもどうやら夜勤スタッフの車だけのようだ。
職員玄関でシューズを履き替え、入ってすぐのところにあるタイムカードを押した。
その先にある休憩室のドアを開けるが、無機質なロッカーがズラリと並ぶ部屋には誰も居ない。ロッカーと長机と十個ほどのパイプ椅子、それにテレビがあるだけだ。
この職場では私服ではなくユニフォームのまま通勤するように言われたので、着替える為の更衣室は無い。
というか大きな病院と違い、男女が分かれたちゃんとした更衣室のスペースが無いから私服通勤は出来ないという事だろう。
「おはようございます……。あ、新人さん? えっと、確か神崎さんだ」
昨日与えられた自分のロッカーに荷物を入れていると、休憩室のドアが開いた気配がしてすぐに後ろから声を掛けられる。
振り向けば角刈り頭の神経質そうな顔立ちをした事務長が立っていた。
「おはようございます。今日からよろしくお願いします」
「よろしく。私より早い人がいるなんて久々だなぁ。皆いつもギリギリだから」
ワイシャツに地味なネクタイ、グレーのカーディガンにスラックス姿の事務長は、一見してすぐにそれと分かるブランド物のセカンドバッグをロッカーへと入れた。
カチリ、と鍵を掛けるとスラックスのポケットに仕舞う。
「鍵、閉めた方がいいよ。一応ね。私だって大したもの持ってないけど」
以前の職場はロッカーが数百も並んだ更衣室だった。だからこんなこぢんまりとした職場でロッカーの鍵を閉めると「泥棒を疑ってます」と思われやしないかと不安だったが、私が敏感になり過ぎていたみたいだ。
事務長が言うのだからと鍵を掛け、ユニフォームのポケットへと仕舞う。
「まだもう少ししないと師長は来ないと思うから、とりあえず処置室で待ってたらいいよ」
「はい、ありがとうございます」
事務長と一緒に休憩室を出て、私は外来の処置室へと入る。事務長の後ろ姿は受付を兼ねた事務室へと消えて行った。
照明が点いていない外来は、昨日よりももっと陰鬱な印象を与える。スイッチを探しているうちに各部屋と廊下がパッパッと順に明るくなった。
事務長が電気を点けてくれたのだろう。
師長に案内してもらって大体外来にある部屋の位置関係は分かったものの、処置室の内部や診察室はあまりジロジロと見る訳にもいかなかった。
改めて周囲を見回してみれば、大きな病院とは違うところが多々ある。
教科書でしか見た事がないような古い機械がいくつもあったり、注射に使う薬液も種類が少ない。慣れるまでに戸惑う事も多そうだ。
「あら神崎さん、早いのね。おはようございます」
ある程度の物品や薬液の場所に目を走らせてメモを取る。
処置室の隣にある診察室の中を覗こうとした時、浅野師長が笑顔で現れた。
「おはようございます。今日からよろしくお願いします」
「早速だけど皆が来るまでに、神崎さんにしてもらう業務の流れを説明するわね」
「はい、よろしくお願いします」
浅野師長から外来業務の説明を受けながら、必死でメモを取る。
早くこの職場の業務に慣れて、同僚の信頼を得るところから始めるつもりだった。前の病院でも外来勤務の経験はあったから、正直なところ業務についてはそこまで心配していない。
しかし浅野師長の説明を聞くうちに、自分はとんでもないところに来てしまったのだと思い知ることとなる。
「神崎さん、お疲れ様。今日は初日だからね、疲れたでしょ。まぁ明日からもよろしくね」
午前中の外来終わりにそう気さくに声を掛けてきた恵院長は、昨日と違う高級腕時計を身につけていた。
開業医というのは割と儲かるのだろうか。
新人の私は診察室に入る事なく、今日は一日中処置室に入って来る患者の採血や注射、点滴などをしていた。
時々漏れ聞こえてくる隣の診察室の様子で、恵院長とこれまで自分が知るドクターとの違いを痛感する。
院長はつまりヤブ医者と言われる類の人間だと、すぐに理解したのだった。
「神崎さん、慣れるまではなかなか大変だと思うけどここはこれしか方法が無いのよ。大きな病院じゃないからねぇ。開業医なんてこんなものよ」
「はい、すみません」
驚いたのは院長の診察だけではない。患者に注射をするだけでも、ここではひどく苦労するのだ。
注射なんて、それこそ毎日のようにしてきた処置だ。数え切れないほど経験している。
それがまさかここまで苦労するなんて思いもよらなかった。
こんな事に陥った理由は、使った事がないような旧式の道具しか無いという事だろう。
注射器は今時どこでも普通に使われている使い捨てのものではなく、なんとガラス製。何度も、それこそ壊れるまでは洗って消毒液に浸してからお愛想程度の滅菌をし、使い回すという。
同僚が行う注射器の洗浄や消毒をさりげなく見ていたけれど、サササッとブラシで擦って短時間消毒液に浸けるだけ。絶対に不十分だと思えた。
それだけでもカルチャーショックを受けたというのに、使い回しのガラス製注射器に取り付ける針の種類にも驚いた。
さすがに針は使い捨てだが、それは一番コストのかからない代物で、明らかに作業に適さない針を使えと言われた。
これを使う事によって看護師だけでなく、患者には感染のリスクというデメリットしかないのに。
ガラス製の注射器は扱いも独特で、少し間違えばすぐに割れてしまう。慣れない私はその日早速一本割ってしまった。
「慣れるまでは皆割っちゃうのよ。まだ神崎さんは器用な方だと思うわ。この前までいたパートさん達なんて、まともに注射する事すら出来なかったもの」
なるほど。こういう面もあって、この医院は常に求人を出しているのかも知れない。
ここでは看護師に必須のスキルである注射がとても難しい。
しかもそれが本人の力量の問題ではなく、まるで五十年くらい前にタイムスリップしたような、時代遅れの道具を使ってやれと言われるのだから辛いものがあるだろう。
まともな看護師ならば、あまりにも感染対策が杜撰な時点で引いてしまう。
「私もまだすぐには慣れそうにないですが……頑張ります。以前ここに勤めていたパートさん達も、やっぱり最初は苦労されたんですね」
努めて明るく浅野師長に問う。浅野師長はせっかく入った新人に辞められては困ると思ったのか、今日は付きっきりで指導してくれている。
外来には同じパートの看護師で、言葉数が少なくあまり感情が見えない年配女性もいるが、彼女はここに勤めて五年目らしい。名前は川西という。
「そういえば、川西さんは最初からベテランの風情だったわ。だって昔はどこもガラスの注射器だったのよね?」
師長が両手をパンと合わせてニコニコと笑いながら川西を見る。
「そうですよ。針だって昔は使い回しで、一本一本研いで使ってましたからね。昭和の中頃だったかしら」
「まぁ、それを言うならここは未だに昭和だけどねぇ。あははっ!」
終始無表情で語る川西と、時折私の方をチラリと見ながら楽しそうに笑う浅野師長の声は、先程昼休みに入ったばかりの外来に響いていた。
「あの、今日はどうもご指導ありがとうございました。明日からもよろしくお願いします」
「ほんと、神崎さんみたいに良い人には是非続けてほしいわぁ」
師長が大袈裟なほど私を褒める。すぐそばにいる川西は、おしゃべりな師長と違って大人しい。
自分が声を掛けられた時以外、ただ何も言わずにじっとしているだけだった。
「本当、院長も良い人を選んでくれたわ。病棟では力仕事とかもあるから、外来の仕事に慣れたらたまに助っ人でそちらも宜しくね」
浅野師長の言葉にはとりあえず曖昧に微笑んで頷くにとどめる。
たった半日の勤務だったけれど、随分と疲労が蓄積した気がした。姉や自殺した看護師は、一体何を思ってここで働いていたんだろう。
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