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35. 懐かしい顔ぶれ
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ナースコールの受話器を持ち上げて電話口に向かってそう伝え、ナースステーションを出ようとした。
すると昼食から戻った井口と大山と戸口で鉢合わせになり、危うくぶつかりそうになる。
「きゃっ!」
「神崎さん、居残りありがとうございました。今日はもうあがってください」
驚いて小さく悲鳴を上げた井口と違い、冷静な大山は事務的な声で告げる。
「すみません、今ナースコールが鳴って向かう所なんです。実は、牛尾さんの部屋なんですけど」
「あぁ、もうそんな時間。井川さん、お願いします」
先輩である大山が井川にそう言い、「はぁい」と間延びした返事を返した井川は、注射液の並ぶ棚の前に向かう。
どうやら何かの注射を準備し始めたようだ。
「牛尾さんは定期的に痛み止めの注射をするんです。さっきのはその呼び出しです。だから神崎さんはもう帰ってもらって大丈夫ですよ。お疲れ様でした」
自然と私の視線が井川の手元に向けられていたからか、補足するようにして大山が説明した。
「そうなんですね。分かりました。お疲れ様です」
申し送らなければならない事を記入したメモを大山に手渡し、頭を下げる。
注射一式を持った井川が、先にナースステーションを出て行こうとして足を止めた。振り返り、笑顔でこちらに向かって手を振る。
「神崎さん、お疲れ様でしたぁ」
「すみません、井川さん。よろしくお願いします。お疲れ様でした」
二階から一階に降りる階段を、重い足で何とか降り切った。
他のスタッフがいるであろう休憩室に入るのも億劫で、出来るならそのまま帰りたかった。けれどそんな訳にもいかず、休憩室の扉をゆっくりと開ける。
「あ、神崎さん。お疲れ様。大変だったわね」
入るなり事務長や事務員と話をしていた様子の浅野師長がこちらへと声を掛けてくる。
「お疲れ様でした」
何が大変だったのかがはっきりしないのに、下手な事は言えまいと笑顔で挨拶だけ返す。
自分のロッカーの鍵を開けてトートバッグを取り出すと、扉を閉めて右肩にバッグを引っ掛けた。今日は昼食を食べずに帰る予定にしていた。
「叩かれたところ、大丈夫? 牛尾さんの事、気にしないようにね。どうせあの人もうすぐ退院するし、ああいう人は割と多いから、これからは適当にあしらっておけばいいわよ」
「大丈夫です。すみません」
やはり牛尾の事は浅野師長の耳に届いていた。井川か大山か、またはその両方が報告したのだろう。
「神崎さん、今回の事はさすがに暴力行為だからね。院長にも報告しておくよ。牛尾だって、流石に入院出来なくなるのは困るだろうし、今後は手を上げる事は無いと思う」
浅野師長の隣に座る事務長が、顔を顰めて痛々しい表情をしながらそう告げた。事務員達も気遣わしげな顔でこちらを見ている。
そんな中、川西だけは相変わらずテレビから目を離さないでいた。
「すみませんでした」
「神崎さんが悪い訳じゃないの。ごめんなさいね。これからは無いと思うから、辞めたりしないでね。あなたには随分と助けられているから……」
浅野師長はそう言って、両手を合わせた姿勢で軽く頭を下げた。
たとえ理不尽な目に遭ったとしても、辞めるわけにはいかない。
この医院の秘密が、姉の秘密が、もしかしたら詫間の口から聞けるかも知れないこの時に、辞めるわけがない。
何も知らない事務長や浅野師長は、やっと戦力になってきた私が辞めないよう、引き留める為に必死だ。
「気にしていないです。よくある事ですよね」
相手が安心するような笑顔を意識的に作って見せた。牛尾に負わされた口の中の傷が痛む。
「そう? それなら良かったわ。院長も牛尾さんには心底参ってるのよねぇ。いつかは手を切らないと……」
「師長、神崎さん今日は予定があってお昼もここでは取らないって言ってたでしょう。その話はまた今度」
おしゃべりな師長を上手く宥める事務長。二人は随分と付き合いが長いようだ。
「すみません、今日は用事があって。お先に失礼します。お疲れ様でした」
「あら、そうだったわね! 引き留めてごめんなさい。お疲れ様! また明日」
休憩室を出て車へと向かう道すがら、肩を交互に回しながら歩く。今日はあまりに色々な事があったせいか、珍しく肩が凝った。
「あ……」
もしかしたら牛尾に叩かれた時のむち打ちかも知れないと気付いて、苦々しい気持ちが湧き上がる。
こんな理不尽が毎日のように続けば、逃げ出したくなる看護師が居てもおかしくはない。
だが私はまだ、めぐみ医院の抱える深い闇の中へ、たった数メートル足を踏み入れたばかり。自分で決めた事だ。弱音を吐く事は許されない。
「よし……っ!」
車に乗り込み、気合を入れ直す。これから高橋主任と結城に会う事になっていたからだ。
昨日の昼に高橋主任から連絡があって、二人は夜勤明けで一眠りしてから私とランチを食べようという話になったらしい。
何となく気分が落ち込んでいた私にとっては有り難い申し出だったから、すぐに了承のDMをしたのだ。
待ち合わせ場所はそう遠くない所にあるカフェで、以前にも何度か高橋主任と相談に乗ってもらいながらランチを食べた事がある。
カフェの駐車場へ車を停めると、既に二人の車は停まっていた。スマホを確認すると、店内で待っているというDMが来ている。
店員に席まで案内してもらい、二人の顔を久しぶりに見れば、ふいに胸に迫り上がってくるものがある。
ここなら肩の力を抜いてもいいんだと思える安心感と、泣きたくなるような痛くて苦しい複雑な感情。
「神崎、お疲れ様。久しぶり」
「神崎さん、お疲れ様でーす」
「高橋主任、結城も。お疲れ様です」
個室になっているこのカフェは、知り合いの看護師だとか患者には会いにくいからと、高橋主任のお気に入りの店だった。
二人は並んで座っていて、向かいの席に私が腰掛ける。すると間髪入れずに二人揃って早速前のめりに近況を尋ねてきた。
「で、どうなの? 最近」
「どこか仕事に行ってるんですか?」
この感じ、懐かしい。まだそんなに日が経っていないのに、心の底からそう思う。
けれど二人はゆっくり感傷に浸る隙を与えてくれず、矢継ぎ早に答えを急かしてくる。
「実は……」
今はパートとしてめぐみ医院に勤めている事を話した。もちろん私がここを選んだ理由と目的については話すつもりが無い。
「え? 神崎さん、あのめぐみ医院に勤め始めたんですか?」
目を一際大きくさせた結城が、さも意外だといった表情で確認してくる。
「うん、そんなに有名なの?」
「いやぁ、あそこっていっつも求人出してるし、前に勤めてた看護師が自殺しましたよね」
「そうだけど、それって皆自殺って知ってるの? 新聞には載ってなかったはずだけど」
あの時、地元の新聞には何と書かれてあるのか気になって調べたが、姉の同僚に関する記事はどこにも無かった。
「神崎さんも知っての通り、看護師って横の繋がり結構ありますからね。特に女子は子どもを産んだらパートって流れが多いですから。友達があそこにパートの面接に行ったり、実際働いたりした子もいるんですよ。すぐに辞めちゃいましたけど」
確かに看護学校時代の友人達は、就職してからも繋がりがあったりする。
私の場合はそれが極端に少ない方だと思うのだが。
「それで? 実際どうなの? 神崎」
そう尋ねる高橋主任の口元は、くんっと端が持ち上がっている。
明らかに何か面白いネタをこちらが話し始めるのを待っているようだ。
「……そうですね、人の出入りが激しいのは人間関係よりも医院自体の問題だと思います」
「へぇ、どういう問題があるの?」
私は高橋主任と結城に、外来での業務内容や時代遅れも甚だしい物品の話をする。
結城は信じられないというような顔をして「まるっきり昭和の野戦病院みたいじゃないですか」と口にした。
「開業医にしても、それは酷いね。神崎も、よりにもよって何でそんなとこを選んじゃったのかなぁ」
高橋主任はガラス製の注射器や注射針を研いで再利用していた時代を知っている。しかしそれは何十年も前の話で、「今現在も同じような環境の医院があるなんてある意味凄い」と言った。
「まぁ、なかなか小さい子がいるとパートって雇ってもらえませんからね。面接でも『何で正社員じゃなくてパートなんですか?』って聞かれましたから」
「モラハラの温床か」
高橋主任はコーヒーを口に運びながら苦笑する。結城はまだそんな時代遅れの医院がある事を信じられないようで、スマホで何やら検索し始めた。
「口コミも結構色々書かれてますねー。モラハラ医者とか、セクハラ発言があったとか」
「そうかもね。とにかく古い考えのままなんだろうと思うよ」
喉がカラカラに渇いた私は、運ばれてきたアイスコーヒーにストローを挿す。
「それにしても、神崎。そのほっぺたどうしたの? 赤く腫れてるけど。唇だって切れてるじゃない」
高橋主任の指摘にハッとした。そうだ、牛尾に殴られたところがコーヒーを飲もうとマスクを外して、二人に見つかってしまったのだった。
詫間の話を聞いた頃から、真実に近づく興奮のせいかほとんど痛みを感じなくなっていて、すっかり忘れていた。
「ちょっと転んでぶつけたんですよ」
「わぁ、綺麗な顔が台無しよ」
高橋主任は心配そうに私の頬へと目をやっている。時間が経って尚更目立つ色味になってきたのかも知れない。
「神崎さん、顔は気をつけてくださいね! 痕が残ったりしたら大変ですよ」
「出来れば顔以外だって怪我はしたく無いけどね」
まさか患者に殴られたなんて事は、さすがの高橋主任も想像できる訳が無いだろう。私自身もそんな事は予想もしていなかった事だった。
目の前に座る気の良い二人には、その事について真実を話すのをやめた。
「それより、そちらは変わりないですか?」
その後は懐かしい病棟のメンバーの話を聞きながら時間を過ごす。
2人に会ったことで胸に溜まったドス黒くて重たい何かが、少し浄化されたような気がした。
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