37 / 55
36. 大切な人
しおりを挟む夕方、保育園から帰ったカナちゃんと買い物に出掛ける。
「いっちゃん、元気ないね?」
スーパーに到着してすぐ、カナちゃんから心配そうに声を掛けられた。
知らず知らずのうちに考え事をしていたから、つい上の空になっていたらしい。
「そう? ちょっと疲れたのかな。大丈夫だよ」
懐かしい顔ぶれとの時間は確かに私を癒してくれた。しかしそれでも、未だ他人から暴力を受けたショックからは立ち直れずにいた。
あまりに理不尽な患者の振る舞いと、それに対する同僚達の反応を目の当たりにし、これまで感じていためぐみ医院の異常さが際立ったからかも知れない。
何より詫間という患者が話していた「自殺の理由はこの病院」という言葉が、ずっと頭の中をグルグルと巡っていた。
「さかな、さかなー」
カナちゃんのご機嫌な声にハッとして、見慣れた魚達が泳ぐ生簀の前で立ち止まる。
飽きもせず、目をキラキラさせながら釘付けになっているカナちゃんを見ていると、不思議な事にふっと心が軽くなるのを感じた。
「いっちゃん、今日のごはん何?」
ニッコリと愛らしい笑顔で問うカナちゃん。近頃は特によく食べるようになった。
そうだ。カナちゃんの為にもしっかりしなければならない。あそこにはきっと何か闇があると踏んで、自ら潜入したのだから。
「そうだなぁ、給食は何だったの?」
お決まりのやり取りに、丸い目を斜め上に向け顎に握り拳を当てる仕草を見せるカナちゃん。これが何かを思い出したり、考える時の癖だ。
「えーっと、えっとねぇ、サカナとおしると、ホウレンソウ!」
「じゃあ魚以外で……。あ、お好み焼きとかはどう?」
たまたま目についた特売品のお好み焼きの粉を見てそう提案すると、カナちゃんは嬉しそうに笑う。小さな両手を合わせて二、三度叩いた。
「おこのみやき! 食べる! 私がマヨネーズにゅるにゅるってしてもいい?」
「いいよー」
「やったー!」
帰宅して洗濯物を取り込んだら、夕飯の支度に取り掛かる。その間、カナちゃんはテレビのキャラクターに夢中になっている。
勇太の分と私の分、カナちゃんの分は少しだけ小さめに焼いた。
約束通り、全員の分にカナちゃんがマヨネーズをかけてくれたお好み焼きは、みんなで「美味しいね」と言って食べた。
デザートにはオレンジを剥いてあげる。果物が好きなカナちゃんは、オレンジ一個分をペロリと食べてしまう。
以前と比べて食べる量が増えたので、身長もみるみる伸びた。保育園に行き始めて、身体も心も一気に成長した気がする。
「いっちゃん、あのね、今日はゆうちゃといっちゃんの絵を描いたよ! 先生が、上手いねってほめてくれた!」
「へー、私と勇太の絵を……」
こうして保育園での出来事をすすんで色々聞かせてくれるので、カナちゃんが友達や先生と楽しく過ごせているのだと安心した。
「そう! それでね、ゆうちゃのことを先生がだれ? って聞くから、私といっちゃんのお友達って教えたよ」
「そっかぁ。勇太がお風呂から出たらまたその話をしてあげてね」
「うん!」
カナちゃんは私と勇太の存在を自然と受け入れている。
実家から連れ出した事も、ここに私がいるからか特に不安に思う様子もなく、すんなりとこの環境に馴染んでいた。
カナちゃんの口から姉や新一の話は一切出てこないので、こちらからも話す事は無い。
カナちゃんを寝かしつけた後、勇太と二人ソファーに並んで腰掛けた。
「カナちゃんがさ、今日俺と伊織の絵を描いてくれたって話してくれたの、めちゃくちゃ嬉しかったなぁ」
そう嬉しそうに語る勇太は、近頃カナちゃんを遠慮なく叱ってくれ、それ以上に可愛がっている。
一方でカナちゃんも勇太の事が大好きで、私にするのと同じように本気で甘えている。
自分にとって大切な二人が仲良くしている姿を見るのは、胸がじんわりと温まる幸せな時間だった。
「ところでさ、そのほっぺた……どうしたの?」
帰宅してから、カナちゃんに知られないようにさりげなく頬を冷やしていた。痛みは引いていたが、よく見ればまだ腫れているのが分かるのかも知れない。
「あぁ、まだ腫れてる? だいぶ冷やしたんだけどなぁ。もう痛くはないんだよ」
出来れば上手く誤魔化そうとしたけれど、勇太に嘘を吐く事は苦手だった。
大抵はバレてしまうし、何より私の心が苦しくて。
「それで……どうしたの?」
二度目の「どうしたの?」は低い声で、少し怒ったように問われたので観念する。
勇太はきっと、他にも怪我をしているんじゃないかと心配しているのだろう。
「ちょっと患者さんを怒らせちゃって……」
私が身体ごと勇太の方を向くと、勇太も姿勢を正した。二人してソファーの上で向き合って座る。
「まさか……殴られたの?」
流石にそんな理由だとは思わなかったのか、勇太は先程と違ってひどく驚いた声になった。
「それって……認知症とかじゃない患者さん?」
実はこれまでも認知症の患者につねられたり、叩かれたりした事はあった。
しかし今回は明らかに怪我の度合いが違うし、「認知症の患者さんにね……」とも言わなかった事で、勇太も何かがおかしいと感じ取ってしまったようだ。
「でも、反省してるみたいだから。こっちも悪かった所もあったんだろうし。まぁいいかなって」
「それ、職場の人に言った?」
沸々とした怒りが目に浮かんでくる勇太に、思わずたじろいでしまう。
今更嘘を吐いてもバレてしまう。それどころか、きっと勇太を傷つける。
そう思って観念した私は、全てを洗いざらい話した。
トラブルメイカーらしい牛尾という患者の事も、職場の雰囲気も、そして詫間という患者が私にあの医院の秘密を話そうとしている事も。
「それにしてもさ、本当に許せないな。伊織に暴力を振るうなんて」
「ごめんね……」
腫れた頬に熱い手を添える勇太は、私に対しても憤っているのかも知れない。
「伊織の考えは大体分かるけど。心配かけないようにしようとか、出来るだけ一人で何とかしようとか思ってるんでしょ? でも、俺には隠し事しないで」
勇太に触れられた頬がまたジンジンと痛みはじめた。
これは罰だ。あわよくば勇太に黙って、一人で辛さを飲み込もうとした事への。
「うん、ごめん。心配すると思って」
「伊織が隠し事してもすぐ分かるよ。そんな事されても、余計に心配するだけだからさ」
「ごめん、もうしない」
気づけば私は勇太に謝ってばかりだ。私だって、勇太の性格なんてもう全部分かりきってるのに。
それでも隠そうとしてしまうのは、自分勝手なエゴでしか無い。
それに……癖が悪い事に、こうやって怒られる事で勇太の気持ちを確かめようとしている節がある。
私の事をちゃんと見ていてくれているのか、好きでいてくれているのか。以前と変わらずにちょっとした変化に気づいてくれるのか。
それがひどく女々しい事だって分かっていても、そうやって確かめずにはいられない。
私は自分に自信が持てない人間だった。
「俺は伊織が好きだよ」
「……分かってる」
嘘だ、何度も女々しく勇太の気持ちを確かめている癖に。
「今回の事、どうせ止めたってやめないだろうけど、痛む事はして欲しくないよ。身体も心も」
「うん、ごめんね」
「もう謝んなくていいから、伊織もちゃんと好きって言ってよ」
自分も好きだと伝えようとしたのに、嗚咽が漏れてどうしても上手く言葉が出ない。
そんな私を見た勇太は困ったような笑い顔をした後に、両手を広げて身体を包み込んでくれた。
私も勇太のガッチリとした背中に手を回し、しばらくの間その温もりに甘えて涙が引っ込むのを待つ。
「好きだよ。勇太がいなかったら……いつかきっと私はダメになってた」
「それなら良かった。……それにしても、痛そうだね」
さも痛々しげに目を細めた勇太が、切れた唇と腫れた頬に優しく触れた。
「もう痛くはないけど。今日キスは出来ないかも」
「だな。それはまた今度」
触れられただけで聞かれてもいないのに、「出来ない」と言った事が急に気恥ずかしくなってきた。
私にとっては勇太が初めての恋人だから、時々こんな風に独りよがりな事をしてしまって後悔する。きっと勇太は気にしてなんかいないんだろうけど。
「明日も頑張らなきゃな」
恥ずかしさを誤魔化すようにそう口にする。同時に私より幾ばくか背が高い勇太の肩にポンと顎を乗せて、熱くなった顔を見られないようにした。
「応援はするけど、無理しないように」
「うん。ありがとう」
勇太と出会わなければ……家族の事、カナちゃんの事、全ては今と違っていただろう。
今のこの時間を、私が生きて過ごしているかさえ怪しい。
それくらい、勇太と出会う前の私は希望を失っていたのだから。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる