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37. 不正の温床
しおりを挟む翌日はいつもと同じ外来勤務だった。
十一時過ぎ、少し外来も落ち着いた頃だった。浅野師長が病棟に上がるようにと声を掛けてきた。
「牛尾さんの事なんだけど、須藤師長から神崎さんに話があるそうなの。悪いけど今から病棟に上がってくれる?」
須藤師長というのは病棟の師長で、普段は休憩の時と夜勤の報告に降りてくる時くらいしか会う事は無い。
夜勤に多く入っている為に日勤で会う事は特に少ない人だった。
牛尾の事で話というのは何の事だろうか。もしかして、改めて牛尾に謝罪をしろとかそういう事かも知れない。
「須藤師長さん、神崎です。お疲れ様です」
ナースステーションに入ると、須藤師長はカルテを書いている途中だった。
めぐみ医院は未だに電子カルテでは無く全て紙カルテだ。黒髪ショートヘアにメタルフレーム、一見厳しそうな人に見える須藤師長は、すらりと背が高くて年齢の割に若々しい。
年齢は五十歳くらいだと浅野師長から聞いていた。
「あぁ、神崎さん。昨日はごめんなさいね、怪我はどう?」
そう言われて思わず口腔内の切れた部分を舌先で触れたが、やはり痛みはない。
「いや、怪我は大した事はないです。あの……お話って?」
「昨日の事、全部聞いたわ。ちゃんと説明してなかったせいで悪かったわね。ほら、井川さん達も……あなたなら大丈夫だと思ったらしいんだけど。でもね、牛尾さんていう人は、何がきっかけで怒るか分からない人だから……」
話の最中に何度もメタルフレームのメガネをずり上げる須藤師長は、なかなか本題を言えずにわざと遠回りして話をしているような気がした。
「あの……須藤師長。もしかして私に何か言いたい事があるのでは?」
普段の須藤師長は必要な事を短くまとめて話す人だ。こんな風に目が泳いだり、曖昧な物言いはしない。
失礼かとも思ったが、直接疑問をぶつけてみた。
「そうなの。実は……院長がね……。昨日の事で神崎さんがどこかに訴えたりするんじゃないかと、すごく心配しているの。それにあなたはとても優秀だから、辞めたりしないか浅野師長が不安がってる」
どうやら院長の耳にも昨日の騒ぎについては届いているらしい。
院長は今朝私に会った時には敢えてその話をせずに、こうして須藤師長を通して様子見をしてきているのだ。
馬鹿馬鹿しいけれど、それが院長のやり方なのだろう。
私には目的がある。たかがあれくらいで辞めてやるものかと思っていても、それは私だけの都合。この人達は当然知る由もないのだ。
「せっかく仕事にも慣れてきたところですし、辞めるつもりはありません。それに、昨日の事をどこかに訴えたりするつもりもありません。安心してください」
「そうなの? 良かったわ。本当にごめんなさいね。あと……これなんだけど」
またメガネをずり上げる仕草をした須藤師長は、カルテの下に隠すようにしてあったピンク色のクリアファイルを取り出した。
そしてそこに挟まれていた医院名の入った茶封筒を、サッと私の手に握らせてくる。
「これ、何ですか?」
封筒を乗せられた私の手を、須藤師長は自らの手で覆うようにして強く握ってきた。
「院長からの心付けよ。受け取って」
「いや、こんなの貰えません」
グイッと須藤師長の方へと手を押し戻すが、すぐに厳しい声音で拒絶される。
「神崎さん! 神崎さんはパートさんだから、お手当として給料に上乗せするわけにいかないでしょう。分かって、これは単なる心付けだから。これからも来てねっていう院長からのほんの気持ちよ」
「でも……」
「大した金額じゃないわ。介護の必要なご家族さんに使ってあげて」
一瞬「介護の必要な家族って誰の事だっけ」と思ったが、そういえばここに就職するにあたってそういう事にしていたのだったと思い出す。
「分かりました。一応、頂いておきます」
今これを受け取らなければ変に疑われるかも知れない。目をつけられて詫間と話せなくなるのは困る。そう思って、皺ができた茶封筒を腰ポケットに仕舞った。
「助かるわ。これからもよろしくね」
「……はい。失礼します」
須藤師長が引き留める様子が無い事を確認しつつ、ナースステーションを出る。
そのまま一階へと続く階段を降りると、忙しなく辺りに視線を走らせる。外来の浅野師長を探していた。
やがて検査室から処置室に戻ってきた浅野師長に声を掛ける。師長もハッと目を見開いてこちらを見た。
「浅野師長、あの……」
「受け取ってくれた?」
やはり浅野師長も心付けの事は知っていたようだ。
「はい、でも……いいんですか?」
よく分からない心付けを貰うのは気持ちが悪い。出来る事ならすぐに返したい。
けれどこれもカナちゃんの為。ここで何かが起きた姉の秘密を調べる為には、下手に目立った行動をせずに、院長や師長達の望む通りに動くほうがいい。
「いいの、いつもの事だから。ラッキーだと思って貰っておきなさい」
受け取ったと聞いて明らかにホッとした様子を見せた後、浅野師長は笑って言った。
「分かりました」
「良かった。神崎さんが辞めちゃわないか心配だったの」
見るからに力んで持ち上がっていた肩を下ろして、浅野師長は小首を傾げながら息を吐く。
「辞めませんよ。せっかく慣れてきたところですから」
「そうよね。まぁ、とにかく良かったわ」
それから午前中の診察が終わるまでの少しの時間、浅野師長はすこぶる機嫌が良かった。
とりあえず、変に疑われる事は無かったようだ。
休憩室での昼食の時、浅野師長と須藤師長は何事も無かったかのように一切この件に触れる事なく、お互いの部署の人間と固まって過ごしていた。
食事が終わってすぐ、「お疲れ様でした」と告げて二階へと向かう。詫間から話を聞く為だった。
今なら病棟のスタッフは日勤が一人残っているだけ。そのスタッフもナースコールが鳴らない限りは、ナースステーションでのんびりスマホでもいじって過ごしているはずだ。
ふと、階段の踊り場で腰ポケットの封筒をそっと取り出した。誰もいない事を確認して素早く中を覗くと、一万円札が十枚入っていた。
「十万円……」
私にとってみれば当然ながら安くない金額だ。
院長はこれだけの金額を払ってでも穏便に、口をつぐんで欲しいらしい。
恐らく黙っていて欲しいのは、牛尾のように他では強制退院させられてもおかしくはない人間を入院させている事だけではない。
ここで見聞きした事でそういった危うさを孕んでいたのは、到底それだけじゃ無かったのだから。
大した怪我でもなさそうなのに、交通事故の患者がやたら多い医院だと思っていた。
やたらめったら患者に言われるがまま様々な診断書を書いているのも、めぐみ医院にとっては大きな利益になるのかも知れない。
もっと酷いのは、どう見ても違法薬物中毒者の患者に医療用の注射器を横流ししているという事実。
明らかに犯罪なのに、頼まれた看護師は慣れた手つきで数本ずつ手渡していた。
院長はそういった連中と、長年お互いが利益になるような太い繋がりを持っているのだろう。それがこの古びた医院にとっても、少なくはない利益を生み出しているという事だ。
毎日違う高級腕時計を身につけている院長の姿が思い出された。
聞けば高級外車を四台も所有しているという。
しかしこれほど犯罪めいた事をこの医院がしていたとしても、あの姉が逃げるように退職するほどの事とは思えない。
給料が良いと喜んで勤めていた姉は、自分にさえ害が無ければ他人はどうなっても良いというタイプだ。
だから患者の為に心を痛めるだとか、この医院が抱える不正に悩んでだとかいう事では、自身の退職まで考えないと思う。
二階の廊下のナースステーションから死角になっている場所に身を潜め、そっと中を覗く。
日勤が一人残されたナースステーションでは、ほとんど話した事がないスタッフがこちらへ半分背を向けるようにして座っていた。
少し立ち位置を変えると、やはり手元でスマホをいじっているのが見える。
チャンスは今しかない。
早足で詫間の病室へと到着すると、緊張で手が震えているのに気づく。静かに足を進めると、窓際左手のカーテンへそっと手を触れた。
「詫間さん、神崎です」
他は寝たきりの患者だけの病室で、人が動く気配がするのはこの一角だけだった。
「ああ、来てくれたのか」
詫間はベッドをギャッジアップして上半身を起こし、食べ終わった食事はオーバーベッドテーブルの上に置かれている。
前回のように丸椅子を寄せると、出来るだけ枕元に近づいて座った。
「話してもらえますか? 続きを」
気のせいか前回よりも目に力が漲ったように見える詫間は、小さく頷いた。
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