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38. 人間愛
しおりを挟む「よく聞けよ。この病院では時々不自然に人が死ぬんだ」
「不自然に……?」
元々大きくはない声量の詫間だったが、警戒を強めるようにますます声を顰めている。
「ワシは素人だから、医療の専門的な知識は無い。けどな……」
詫間の眉間にぎゅっと皺が寄る。カサカサに渇いた唇は小刻みに震えていた。
そこから紡ぎ出される真実を耳に出来るチャンスは、恐らく今この時しか無いのだと感じた。だから一言一句漏らさず耳にしようと、詫間の口元に限界まで横顔を近づける。
「…………………………………………」
耳打ちされるように語られたのは、呪いの言葉のようにおぞましく、自分の身体が死体のように冷たくなるほどの真実。そして異常に恐ろしい秘密だった。
しかしこれこそが……逃げるようにして姉がここを退職し、精神科に病気のふりをしてまで入院している理由なのだと確信できた。
詫間の話を一通り聞き終え、警戒しつつ病室から出る。
頭と身体がスッパリ切り離されたように、ふらふらと足元がおぼつかない。危うく病棟から下に続く階段で足を踏み外すところだった。
休憩室の前を通る時には誰かが出てこないか気が気じゃ無かった。私はとっくに帰った事になっていたのだから。
誰にも会わないように祈りつつ、急いで職員玄関へ向かう。シューズを脱ぎ、履き慣れた靴に履き替えるのさえやけに手間取る。それ程ひどく狼狽していた。
ほぼ駆け足に近い早足で駐車場へ向かう。運転席に乗り込むとすぐに鍵を閉めて、慌てて車を出した。
――看護師達が手間のかかる患者を選んで、適当に間引きしてるんだ――
低く囁くような詫間の声が、何度も何度も頭の中で繰り返し響いてくる。
あの病室は、詫間以外は寝たきりの患者しかいない。それは詫間が入院してからずっとの事らしく、そのような患者ばかりが入れ替わり立ち替わりだったという。
詫間自身も下肢を切断している為、自力で出来る事は限られている。手がかかるという点では寝たきりと変わりないという意味で、同じ部屋にされているのだろうと話していた。
寝たきりという事は大概は病状が良くないという事で、そのうち急変して亡くなる事だってある。そう思っていた詫間だったが、ある朝確かにその耳で聞いてしまったのだという。
――「芦田さん、なかなかいかないですね。ちゃんとアレいったのになぁ」
「もうちょっと増やしてみて。夜勤さんが来るまでにいってもらわないと。夜に何かあったら面倒くさいから」
「ですよねぇ。一人の夜勤でエンゼルケアとか、面倒くさくて絶対嫌ですもん」――
詫間は医療の知識がある訳ではない。ただの老人で、若い頃は会社員として真面目に働いていただけである。
看護師達が「なかなかいかない」「ちゃんとアレいった」などと話す内容もハッキリとした意味は分からなかった。
けれどその日、芦田という患者は確かに亡くなった。
バタバタと日勤の看護師達が対応している時に、じっとカーテン越しに耳を澄ませて聞いてみれば「なかなかいかないからどうなる事かと思ったけど、夜勤に間に合って良かった」という話し声が聞こえたのだと言う。
そうして『エンゼルケア』というのが死後処置の事だという事を知ったのだった。
それから何度も同じような事があったという。つまり看護師達は、『状態の悪い患者』を『夜勤の看護師の為に』『人手の多い日勤のうちに』何らかの手段で『故意に殺している』という事だ。
「姉さん……まさか姉さんも患者を殺したの?」
目の前の信号が青に変わる。
次の信号を左に曲がれば姉の入院している病院の方へと続く道で、このまま真っ直ぐ行けばマンションに帰れる。
三百メートルほど進んだ次の信号を、私はほとんど無意識で左折していた。
姉を問い詰めたところで話すかどうかは分からない。けれど、何らかの言葉を姉の口から聞きたいと思ったのだった。
姉の入院する病院の駐車場には、ほとんど車が停まっていなかった。
午前中の外来は終了し、午後まで外来患者は来ないからだ。何台か停まっているのは私のような面会をする人の車だろうか。
面会の受付を済ませ、道順を床の赤線に沿って進んで行く。通路にある大きな窓からは、ジリジリと焼けるほどの太陽光が降り注いでいて、今はそれがとても疎ましく感じる。
「人間愛……」
それは、一番初めにここを訪れた時に口にした言葉。
めぐみ医院で行われている事は、『人間愛』とは程遠い事だ。
もし本当に看護師の勝手な都合で患者を手にかけているのなら、あそこに患者の尊厳を守る精神など存在しない。
死期が切迫し、激しい苦痛にあえいでいる患者でもないのに、一方的に生を終わらせられているのだとしたらどれほど罪深い事なのか想像もつかない。
考え事をしながらの重い足取りだったものの、とうとう閉鎖病棟の無機質な扉の前に到着する。備え付けられたインターホンを鳴らすと、初対面の中年看護師が現れる。
目元だけ笑ったような顔には少し疲れが見えていた。この人も何かに悩みながら仕事に携わっているのだろうか。
面会票を手渡してから姉の病室へと向かう。廊下にはまだ昼食の匂いが漂っていた。
「姉さん、来たよ」
足を踏み入れた姉の部屋にも魚の煮付けのような匂いが残っている。ただ、食事はもう下げられたようでオーバーベッドテーブルには何も乗っていない。
姉はベッドの中に潜り込んで眠っているようだった。
「姉さん」
布団の膨らみを手で揺すってみると、姉が頭を出してこちらを見た。
伸びた髪の毛はボサボサで脂っぽく、前髪の間から覗く目がギョロリとこちらを向いた時には背中がゾクリとした。
「伊織……」
「姉さん、聞きたい事があるんだけど」
「アンタのせいで、こないだ酷い目に遭ったわ」
姉は鼻から上だけを布団から出して、起き上がる素振りも見せずにいかにも憎々しい声でそう言った。
「え、どうしたの?」
「隔離室に入れられたの! 治療の為とか言って、絶対アイツら私を苦しめて楽しんでるのよ!」
どうやら姉は先日椅子を投げ、興奮した様子を見せた事で隔離されたらしい。
姉だって精神科で長く働いていたのだから、そういう事は私よりも詳しいはずだ。
にも関わらずそんな言い方をするなんて、自分が精神科で働いていた時に、同じように患者を苦しめて楽しんでいたからではないか、と邪推してしまう。
「姉さん、今私はめぐみ医院で働いてる」
また姉が興奮する前に話をしなければならない。だから無理矢理話を切り出した。
「何で⁉︎ 何で伊織が?」
「たまたま募集してたからだよ。けど、もう知ってるんだ。あそこの秘密」
「もしかして……アンタもやったの? そうよね? だって皆がしてるんだもん。悪い事だなんて思わないでしょ? 私だけが悪いんじゃないわよね? それなのに、あの人ったら自殺するなんて……」
姉は急に瞳に光が戻ったようになって、嬉しそうに話し始める。
詫間と同じで、錘を分かち合える事を喜んでいるように。
急に饒舌になった姉は、私の表情なんて見ていない。布団から起き出して目を爛々と見開き、興奮気味に語り始めた。
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