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40. 取り憑かれそうになる
しおりを挟む語尾を伸ばし、媚びるような声が病棟看護師の井川を思わせる。
彼女がここにいるはずがないというのに、咄嗟に肩を大きく跳ねさせてしまった。
そろそろと身体を反転させると、あの若い女の看護師がステンレス製のワゴンを押しつつ立っていた。
「どうも……お世話になります。今帰るところです」
心なしか声が上ずってしまい、動揺を気取られないようにと無駄に笑顔を作って答える。
「お姉さん、大変でしたね。入院中に離婚なさって」
「あ、はい。まぁ仕方ないです。こういう病気だと家族もなかなか大変ですから」
「理解があるんですね。お姉さんから聞きました。看護師をなさっているとか。どこにお勤めなんですか?」
相手からの思わぬ問いかけにたじろいだ。適当に話を合わせてからさりげなくその場を去ろうと思っていたのに、タイミングを逃してしまう。
未だ目の前の看護師は、探るような視線をこちらへ向けてきていた。
「今は、退職して職探し中なんです。だからこんな昼間から姉のお見舞いに来れるんですけどね」
なるべく自然に、笑顔で返事をしたつもりだった。相手は特に意味もなく、単なる世間話として尋ねてきているだけかも知れない。
だからそんなに意識する必要なんて無いのに、井川に似た雰囲気の相手に苦手意識を持ってしまい、ついペースを崩される。
「あら、そうなんですかぁ。でも大人になってからもお姉さんと仲が良いなんて、優しいんですね。うちの弟なんて大人になったら全く口も聞いてくれないんですよ。もし私が入院したとしても、絶対お見舞いなんか来てくれませんよ」
急に多弁になった看護師は、自分の家族の話まで持ち出し、さりげなく動かしたワゴンで帰ろうとする私の行手を阻む。……いや、阻まれたような気がする。
「そんな事は……」
「いいえー、絶対来てくれませんよぉ」
私だって患者の家族と世間話をする事はある。
今だってきっと、人懐こい看護師が見舞いに訪れた患者の家族に労いの声を掛けてくれているだけなのだ。
「神崎さんも、まだ小さい娘さんの事が気になっているでしょうしねぇ。出来るだけ早く退院できるといいですね」
けれど今の不安定な心理状態では、この看護師の行動一つ一つが何かしらの意味を持っている気がしてしまう。
例えば、病室での会話をこの看護師が聞いていたのではないだろうか、と。
それこそ単なる妄想だと、いつもの私なら笑って済ませるはずだ。姉の声が廊下まで聞こえていたとは思えない。
けれど今の私はこの井川に雰囲気が似た看護師の思わぬ登場で、正常な判断が出来ない状態に陥ってしまっていた。
「……そうですね。姪っ子も寂しがっていますから」
つい嘘が口をついて出た。
「神崎さん? 大丈夫ですか? 顔色が……」
「すみません、今日はもう帰りますので。姉をよろしくお願いします」
「真っ青で、今にも倒れてしまいそうですよ」
目の前の看護師はこちらの様子を心配して声掛けをしているだけだ。自分だって顔色が悪い人が居ればそうするだろう。
それなのに、こちらが帰ろうとするのを何とかして阻止しようとしているのでは無いかと考えてしまう。
「お構いなく。本当に平気ですから」
そこまで言ったにも関わらず、看護師がこちらへと手を伸ばしてくる。その手が「逃がさない」と言っているように思えた。
「神崎さん……」
だめだ、こんなくだらない妄想に囚われている場合では無い。
ゆっくりと一つ瞬きをする。目を瞑って、次に瞼を持ち上げた時の世界は、先程までとは違って見えるはずだ。
やらなきゃならない事は山積みだ。しっかりしろと自分に強く言い聞かせた。
「あの……?」
目を開ける。心配そうに眉を下げ、すぐそばまで手を差し伸べる看護師が見えた。恐らく突然目を閉じた私が、そのまま倒れてしまうと思ったのだろう。
「大丈夫です。ちょっと最近眠れなくて。顔色はそのせいかも知れません。ご心配、ありがとうございました」
「そうですか。心労もおありですよねぇ。お大事になさってください」
そのまま閉鎖病棟の出口まで付き添ってくれた看護師は、最後にも「お大事に」と言って鍵の掛かった自動ドアを開けてくれた。
閉鎖病棟から一歩外に出ると、開放的な吹き抜けと大きな窓から射し込む眩しいほどの光を浴びる。
詫間の口から聞いた事、姉の口から聞いた事があまりにも衝撃的で、自分の中で上手く消化し切れなかったのだろうか。
危うくおかしな思考に走ってしまうところだった。
「母さん達に話さないと……」
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